原子力委員会

原子力委員会昭和31年の歩み

 原子力委員会は昭和31年1日1日をもって正式に発足した。これよりさき原子力委員会の設置を規定した原子力委員会設置法が昭和30年12月19日法律第188号として公布され、また12月22日政府は国務大臣正力松太郎氏を原子力委員会委員長にあて、委員には国会の同意を得て次の各氏が内閣総理大臣により任命された。

石川 一郎(経団連会長)
湯川 秀樹(京大教授)
藤岡 由夫(教育大教授)
有沢 広巳(東大教授)

原子力委員会設置法附則第2号により石川・湯川両委員については任期3年、藤岡・有沢両委員については任期1年6月とし、また同法第6条第2項にもとづき、湯川・有沢両委員を非常勤とした。かくしてこの法律が昭和31年1月1日から施行されることにより、原子力委員会は同日から成立発足し、わが国における原子力の研究、開発および利用に関する事項の企画、審議および決定にあたることとなった。

 わが国における原子力の研究、開発および利用は原子力基本法の第2条に、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的に行い、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとするいわゆる三原則を基本方針とし、原子力委員会もまたこの大原則にもとづいて、原子力関係の重要事項の企画、審議、決定にあたり、この決定について内閣総理大臣に報告し、内閣総理大臣はこれを尊重しなければならないと規定されており、また必要があると認めるときは内閣総理大臣を通じて関係行政機関の長に勧告することができる等従来のものに比しはるかに強大な種々の権限を有し、また関係行政機関の原子力利用に関しても事務の総合調整、経費の見積および配分計画の権限を有している。

 原子力委員会はその第1回会合を1月4日に開いたのをはじめ、昭和31年中に合計55回(非公式のものを除く。)の会議を開き、なかんずく1月中には定例臨時合わせて10回の多きを数える活躍を示した。これはちょうど原子力委員会成立の時が、昭和31年度予算の提出時期にあたっていたためで、成立早々の委員会は、昭和31年度の原子力の研究開発利用の規模を決定するこの重要な予算の見積および配分計画の審議決定にあたるため、ほとんど連日のように委員会を開きその任務を遂行した。すなわち1月4日の初会合において運営方法等について申合せを行った後、翌5日から主として予算についての審議を開始し、9日原子力骨核予算として36億円の予算を決定し、さらに各省等の予算についても審議し、意見を付した。この後数次にわたる折衝の結果各方面の意見が折り合って各省関係や大学、国会図書館等を含めて合計約36億円の予算案が最終的に決定し、政府原案として国会に提出され、衆参両院における審議を経て成立を見たのである。

 この昭和31年度予算につづく大きな問題は日本原子力研究所法案等の関係法律案の審議についてであった。ことに原子力研究所の性格については、国会の合同委員会をはじめ各方面に種々の意見があり、原子力委員会としても諸条件を勘案して審議の結果、特殊法人と決定をみたのであるが、この性格の問題をはじめとして研究所の業務、役員の任命方法等各点についての検討を行い、これと並行して核原料物質開発促進臨時措置法案、原子燃料公社法案についても諸角度から検討し、国会の審議を経てこの三法律案はそれぞれ法律第92〜94号としていずれも5月4日公布をみたのである。この法律にもとづき6月15日日本原子力研究所が、8月10日原子燃料公社がそれぞれ発足し、わが国原子力の研究、開発に大きな歩みを進めることになった。

 つぎに原子力委員会の当面した大きな問題は日本原子力研究所の土地選定に関する問題であった。原子力研究所の土地の決定については、さしあたって研究を急速に行い欧米先進諸国に追いつくことが要請されることから、建設の便宜、東京への距離等においてまさる武山と将来の動力試験炉まで一貫して建設しうる点にまさる水戸の2ヵ所が特に有力であったが、原子力委員会としては財団法人原子力研究所土地選定委員会の意見を尊重し、実験用原子炉敷地としては武山を第1候補地に、動力試験用炉は水戸に置くことを決定し、武山を原子炉敷地として決定した旨内閣総理大臣に報告した。これに対して政府は種々の事情から原子力研究所の候補地選定について原子力委員会の再考を求めたため、原子力委員会は武山に代り水戸を候補地として決定した。この決定にもとづき日本原子力研究所は正式に茨城県那珂郡東海村に設置されることとなった。
 これらの審議に並行して審議、決定された事項のうち主なものに次のようなものがある。

(1)参与の設置 委員会設置法施行令案を検討の結果決定、この政令にもとづき参与15名が決定し内閣総理大臣により任命されて委員会会務に参与することとなった。参与会は昭和31年中に合計10回開催され、原子力開発利用基本計画の審議を中心として、予算案、法律案等各般にわたって審議を行った。また定員30名の専門委員はそれぞれの専門事項の調査審議にあたり、委員会の活動を助けている。

(2)原子力産業会議設立の提唱 原子力平和利用の実現のためには各界特に産業界の協力の必要性にかんがみ正力委員長の提唱に応えて、民間産業界の主要部分をもって日本原子力産業会議が設立され、わが国原子力の進展に大いなる力を加えている。その他国連科学委員会に代表派遣の決定、原子力関係留学生の派遣計画、放射線医学総合研究所の問題、補助金の交付、原爆実験影響調査に関する事項、アイソトープ会議についてなど種々の事項について審議および決定をした。

 次に大きな問題は原子力開発利用基本計画の策定についてである。原子力委員会は原子力開発利用基本計画がわが国の原子力開発利用について今後長く一貫してその基本ともなるべきものである点にかんがみ、発足早々の多忙のうちからこの検討を開始したが、まず基本計画策定要領を定め、ついで昭和31年度原子力開発利用基本計画を決定し、更に9月6日長期基本計画を委員会として内定した。その後各委員および原子力局幹部の海外視察があり、その帰国を見た12月末からこの結果にもとづいて再び検討を加え、正式な決定を見るものと予定されている。また基本計画の検討と並行して原子炉の導入計画についても審議をすすめ、ウォーターボイラー型原子炉1基を米国から購入せしめるとともに、CP−5型原子炉1基を米国に対し発注せしめることを骨子とする昭和31年度における原子炉の導入計画を決定したのをはじめ、原子炉、原子炉材料、核原料および燃料について審議および決定を行い、濃縮ウラン、天然ウランおよび重水の入手等についての検討も行った。これらの一つの成果として一昨年11月14日調印された原子力の非軍事的利用に関する協力のための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定を有効に動かすものともいうべき細目協定すなわち特殊核物質の賃貸借に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府を代表して行動する合衆国原子力委員会との間の協定が11月23日調印され、12月発効を見るにいたったことがあげられよう。

 また関西地区に研究用原子炉を設置することについては検討の結果、大学におけるものは基礎研究用のものとして動力炉を含む研究所とは分離し文部省中心に大学連合等において運営するのが適当であるとし、具体化については文部省、大学において検討することとし、炉の所有、管理方式等については今後検討調整することと決定した。

 原子炉についてはウォーターボイラー型原子炉は近く炉本体が入荷し、間もなく試運転が行われようとしているし、CP−5型原子炉も10月10日AMFに発注調印が行われた。

 一方原子力局は、昭和30年12月19日公布法律第187号総理府設置法の一部を改正する法律によって昭和31年1月1日から総理府の内局として発足したのであるが、3月31日までの定員は19名にすぎず、各省庁からの出向(併任)者を加えても輻湊する事務に対し手不足を感じていた。4月から定員の増加があり、5月19日科学技術庁の設置にともないこの内局として課の増加、次長および調査官の設置などにより著しく強化され、原子力行政にあたることとなった。

 一方、原子力の開発利用において諸外国に比し著しい立ち遅れを見せているわが国としてはできるかぎりすみやかにこれが推進をはからなければならないことは明らかであるが、原子力委員会においてもはやくからこれが対策を重視し、アルゴンヌ原子炉学校へ留学生を派遣したのをはじめとして、昭和31年度合計32名の原子力関係留学生の派遣を決定し、その大部分はすでに海外において研究調査にあたっている。また本格的な調査団としては石川原子力委員会委員を団長とする訪英原子力発電調査団、有田喜一代議士を団長とする原子力政策調査団、大屋日本原子力産業会議副会長を団長とする原子力産業使節団等があいついで海外調査にあたり、今後のわが国の原子力開発利用上重要な役割をはたした。また、原子力アタッシェが昭和31年度米国(ワシントン)および英国(ロンドン)に各1名設置の決定を見、10月赴任した。一方海外からの来訪もようやく多きを加え、なかでも米国ブルックヘヴン原子力調査団フォックス団長以下の来訪と、英国原子力公社のヒントン卿の来日とはわが国の原子力政策にも多大の影響を与えたものといえよう。またフランス原子力庁のゲロン氏の熱心な活躍も印象に残るものとして各方面に多くの感銘を与えた。

 国際原子力機関の設置についてははやくから準備が進められていたが、原子力の平和的利用を最も強く希求するわが国としては、この機関を通じて原子力を平和的目的に利用することを促進し、軍事的目的に利用されないよう保障措置を講ずることに強い関心を有し、また持てる国の物資を利用して低開発地域の原子力開発を促進することはわが国として全面的に賛成するところであり、原子炉燃料の提供をこの機関から求めることも考えられるなどの点から、原子力委員会としても積極的にこれの検討を行い、努力を重ねてきたものであるが、幸にしてわが国は準備委員国に選出され、機関設立後には理事会のメンバーとしても選出されるよう期待されるにいたった。この機関もまもなく発効の運びとなるものと考えられ、わが国原子力も世界的な環境のもとに発展することになるわけである。前記日米協定等とあいまって燃料の入手などにも重大な意義を有するものと考えられる。

 国内原子力平和利用研究の推進については、補助金の交付および研究の委託等によりこれが推進をはかり、また放射性同位元素の確認を行ってこれが管理にあたった。

 核原料物質については探鉱計画を定め、これにもとづいて探鉱を進めているが、人形峠、小鴨、三吉等におけるウラン鉱資源の発見はわが国原子力開発に明るい希望を与えるものとして注目されている。

 昭和32年度予算については、原子力委員会第2回目の予算審議であり、わが国の原子力行政がようやく本格的な動きを示す年の規模を決定するものとして各方面から注目されていたが、原子力委員会においてもこれが重要性にかんがみはやくからこの検討を開始し、関係各方面の説明をききなどして予算案作成の準備を進め、昭和32年度原子力利用に関する経費の見積方針を決定し、さらに審議をかさねて経費の見積および配分計画を決定した。

 関係法律としては放射線障害防止法案(仮称)および原子炉等管理法案(仮称)を通常国会に提出すべく準備をしており、またアメリカとの間の原子力協定の改訂をはじめとする国際協定についての検討を重ねている。

 年末近く石橋内閣の成立にともない、原子力委員会委員長として国務大臣宇田耕一氏があてられた。(経済企画庁長官および科学技術庁長官兼任)ここに原子力委員会は正力委員長に次いで第2代目の委員長を迎え、あらたな陣容をもって原子力政策にあたることとなった。

 以上昭和31年における原子力委員会の活動状況の一斑をのべたが、昭和31年はいわば原子力委員会にとって第1年目であり、種々の困難な事情にもかかわらず熱心に活躍し、満足すべき成果を得つつある。今後更に世界的視野に立って総合的見地からわが国原子力行政を推進していくことが期待されている。