第1章 総論

§1 序説

 世界における平和目的の原子力開発が,スローダウンに入ったといわれだしてからすでに数年になるが,1962年すなわち昭和37年は,この状態が終りに近づき,その開発が再び生気を取戻しはじめた年とみることができる。
 原子力の開発がスローダウンに入った最大の原因は,原子力平和利用の中心である原子力発電が技術開発の予想以上の困難さと,世界的エネルギー供給事情の好転のため経済性の見通しが難しくなったことにあるが,まず,この間の現象を説明するのに好適の例として,欧州を挙げることができる。
 かって,欧州では,エネルギーの専門家が集って将来におけるエネルギー需給の見通しを検討した結果,需要の増加とともにエネルギーの輸入が激増し,その輸入のための支払いが将来の欧州経済にとって過重な負担となることが予想され,この憂うべき事態の緩和をはかる手段の一つとして原子力の利用達成が焦眉の急務であるとの結論をえた。このため欧州の原子力界は1956年頃からとみに活気を帯びるようになり,さらにその頃に起ったスエズの動乱による中近東石油の輸入途絶は,これに拍車をかけた。
 ところが,この動乱は短期に終り,一方,この頃から世界各地には石油鉱床の発見がつづき,その埋蔵鉱量は空前の増加をみるにいたった。さらに戦後復興の進捗とともに欧州の経済は立直り,その外貨事情は好転し,エネルギーの消費者は,欧州産であろうと欧州外からの輸入であるとを問わず,価格が安くて使用に便利な種類のエネルギーを自由に選択できるようになった。また,そのような選択が欧州経済の発展のために好ましいと考えられるようになった。
 このため原子力の利用は,それが経済性を確立していない限り,将来にそなえての準備程度以上に推進する必要はなくなった。一方,石油火力発電の原価は予想以上に低下したのに対し,原子力発電原価の引下げは,その技術開発の困難さに妨げられて,予想のように捗らず,結局原子力発電所の建設は1959年頃から消極的となった。
 しかしながら,このような状態にあっても,将来にそなえての研究開発は着々とすすみ,世界最初の原子力発電所として送電をはじめた英国のコールダーホール発電所は,1956年以来運転をつづけ,これについで完成したフランスのマルクール,英国のチャペルクロス,ドイツのカールの各発電所もそれぞれ運転経験を積んだ。これらの努力と経験の蓄積によって,原子力の将来に対する見通しは,次第に明るくなり,その発電原価の引下げの見通しも確実性を増してきた。最近では原子力の発電原価が在来エネルギーによる原価と競争しうる時機の到来を1960年代の後半とみるのが有力となってきた。
 このような情勢の変化によって,この数年間,ほとんど新規計画の登場のなかった欧州の原子力発電所建設計画にも,1962年の春に入って,急速に新計画の追加が相次ぐようになった。これを数量的に眺めるため,すでに完成したもの,建設中のもの,建設を計画中のもののすべての段階にある原子力発電所の出力の合計を求めてみると,1958年から1962年までの3年余りは,800万キロワットから900万キロワットまで,僅かに100万キロワットしか増加しなかったものが,1962年4月以降年末までの僅かに9カ月の間に,900万キロワットから1,160万キロワットへと,260万キロワットの急増をみた。
 このような変転に比べると,はるかにエネルギー供給事情に恵まれた米国では,当然のことながら欧州におけるほど,原子力発電所の建設は,積極的となっていない。全エネルギーの消費量,電力の消費量ともに,欧州を凌駕しているにもかかわらず,1962年において運転中の原子力発電所は欧州の半量の67万キロワット,建設ないし建設を計画中の原子力発電所の合計も,欧州の3分の1に満たない300万キロワットにすぎない。
 しかしながら,このような環境にあっても,大統領の諮問に答えて,米国の原子力委員会が1962年11月に提出した答申には,同国の原子力開発の将来にとって,明るい見通しと希望が盛られている。また,これに先立って,いくつかの大型原子力発電所の建設計画が,産業界から提出され,とくに,ニューヨークの市内に設ける100万キロワットの原子力発電所の計画が登場したことは,欧州ほど明確ではないとはいえ,米国における活動の積極化を物語るものとみて差支えなかろう。
 その他の諸国においても,たとえば,インドでは,原子力発電所の建設計画が具体化し,ブラジルでもその建設を考えるようになった。
 このように世界的に,原子力の開発があらたな活動期あるいは開発の第2期とも呼ぶべき新時代を迎えたのがこの1962年とみることができる。
 ところで,これらの原子力発電所は,米国では主に,軽水減速冷却型,英,仏両国では,黒鉛減速ガス冷却型,カナダでは,重水減速冷却型と,いずれも,それぞれの国で独自に開発した原子炉を使用しているが,将来にそなえての新型式の原子炉についても各国で熱心に研究がつづけられている。1962年における研究の趨勢としては,9月に開かれた欧州原子力産業会議の第1回大会においても,11月に発表された米国大統領への答申においても,原子燃料の有効利用の立場から将来の姿として,高速増殖炉が強調されたことである。また,高速増殖炉の実用化までの過渡的期間を埋め,さらに,その後においても発展を期待しうる転換炉として,重水減速系あるいはスペクトラルシフト方式の原子炉が重視されてきた。
 一方,発電に比べれば,まだ試験研究の域を脱しないが,1962年には,原子力船の開発計画も進展をみた。すでに,米国とソ連では,原子力利用の第1船が,試験運航をつづけているにもかかわらず,その経済性の困難から,両国につづいて積極的に開発をすすめる国はなかったが,この年に入って,ドイツにおける計画がすすみ,また,英国でも計画を一段と推進しようとしている。
 つぎに,原子動力の利用から離れて,放射線の利用について述べると,医療,工業,農業,その他の面で,地道な研究がつづけられ,利用技術は漸次進歩を重ねている。これらについては,この年が,とくに飛躍的な成果を収めた年というには当らないが,欧州では,放射線照射による食糧保存の研究が盛んとなり,また,米国では,その製品が兵員の食糧として,はじめて食膳に供せられるようになったことは見逃してはならないであろう。
 このような世界的環境の中にあって,わが国における原子力の開発を眺めてみると,まず第一にあげなければならないのは,わが国においても,また,原子力の開発が活動期を迎えたことである。
 わが国は,31年に,英国から発電炉を導入する方針を決めて以来,その建設ならびにこれについで米国から導入する試験用発電炉の建設は,進捗しているが,その後,これにつづく発電所建設計画の具体化は進展しなかった。
 しかしながら,このような状態も世界における傾向と同様に,37年に入ると事情が一変して,英国型発電所につづく米国型第2号発電所の建設計画,さらに,これにつづく第3号発電所の建設計画等が具体化してきた。
 また,将来における原子力発電所の国産化にそなえ,新型式の発電用原子炉の開発について検討がはじめられたのもこの年である。
 一方,数年来懸案であった原子力船の開発計画が具体化し,また,放射線化学についての研究開発計画も一段と進捗した。そのほか,原子力についての各種の国際会議が,わが国で開かれたのもこの年の特徴で,これはわが国における原子力開発の躍動開始に対する諸国の関心の現れである。
 以下,わが国におけるこれらの状況について述べる。


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