第2章 原子力開発態勢の整備
§2 日本原子力研究所と原子燃料公社

2−1 日本原子力研究所

 わが国の原子力の研究開発の中核となるべき機関については,原子力利用準備調査会時代から慎重に審議されてきた。その後日米原子力研究協定の締結によりわが国に原子炉の受入れ機関を設置する必要性が強調され,30年11月には,暫定的に財団法人原子力研究所が発足した。この組織は,原子力の研究開発に一日も早く着手するという趣旨から,とりあえず発足したものであつたから遠からず恒久的な基礎の上に組織替えを行うことが予定されていた。
 その後も研究所の性格について論議が行われたが,ようやく政府および民間の共同出資による特殊法人とすることに意見がまとまつた。日本原子力研究所法案は,31年4月末に国会を通過し,これに基いて既存の財団法人原子力研究所を継承して,6月15日に日本原子力研究所が発足した。
 研究所の敷地については,財団法人原子力研究所設立以前から検討が始められていた。原子力施設の設置については,ともすれば地元の反対が予想されるのであるが,原子力研究所については将来のめざましい発展が期待されるところから,かえつてこれを誘致しようという気運が強かつた。原子力委員会は原子力研究所内に設けられた土地選定委員会の報告に基VIて,研究所の敷地を一度は武山に決定したが,その後諸般の事情から再考の上,茨城県東海村とすることとした。
 原子力研究所の業務は,日本原子力研究所法に示されているが,その中心となるのは,原子炉の研究開発である。すでに原子力利用準備調査会の頃から検討されてきたわが国の原子炉の開発計画は,一方には米国から導入されるウオーターボイラー型,CP-5型の原子炉の流れと,他方,わが国の技術により開発する天然ウラン重水型原子炉の流れとに具体化され,これらがよりあわされて原子力研究所に集中されることになつた。わが国の第1号原子炉となるウオーターボイラー型原子炉は31年5月に契約,32年3月には東海村で組立を完了し,第2号炉も31年10月には契約が調印されその工事も進んでいる。国産原子炉については,29年以来設計の検討が行われてきたものを日本原子力研究所が受けつぎ,32年2月には基礎設計仕様書を完成した。
 原子炉の開発とならんで,原子力研究所は基礎研究にも力を注ぎ,また,アイソトープ利用のセンターとしての役割をも果すことになつている。もつとも31年度においては,東海村にわける研究施設が建設中であつたため,研究は東京都内の既存の研究施設を利用して行うという不便をしのばなければならなかつた。しかし原子力研究所の推進力となるべき職員は,31年度末には200名に達し,研究施設の充実とともにわが国の原子力技術の中核がととに築かれることが期待されている。

2−2 原子燃料公社

 日本原子力研究所とならんで,わが国の原子燃料を開発する機関として,31年8月10日原子燃料公社が設立された。原子燃料公社の設立は30年末制定の原子力基本法にすでに示されていたが,公社の性格については法案審義の過程において種々議論が行われ,結局「公社」という名称は残しつつも,自主性をたかめるために実質的には「公団」に近い性格をもつものとなつた。
 公社は,ウラン,トリウムなどの核原料資源の探鉱および採鉱,核燃料物質の生産と加工および再処理を行い,またこれらの輸出入および売買をも行うことを主な業務としている。
 31年度は公社としては,最初の年でもあり,予算も1億円にすぎず,主として国内の探査を行つた。すなわち公社は地質調査所と協力し,地質調査所が行う基礎調査の結果,企業化調査が必要と認められた地域に対して,さらに詳細な探鉱を行うこととし,倉吉地区(鳥取県),人形峠地区(鳥取,岡山県境),三吉鉱山(岡山県)の各地区において探鉱を行つた。
 また,製錬については,32年度に製錬施設を,建設,運転し得るように設計データの整備につとめ,その敷地を東海村に定めることとなつた。


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