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原子力委員会委員長代理の辞任に際して



 私は10月3日原子力委員会の行政組織改革を機会に現職を辞任しました。昭和47年9月任命を受けて満6年になる。私が電気事業界から転じて、動燃事業団に関係してからを通算すると丁度満11年になる。10年1昔とは誠の良く言ったもので、此の間の日本の原子力界を省みて聊か感概なきを得ない。

 我が国が原子力の研究・開発に着手することを決定したのは、名実ともに昭和30年12月の原子力基本法の成立がその根幹を為すものと言えよう。当時本法の成立には世界唯一の被爆国として、夫れ相当の生みの苦しみがあったことは当然として、この立法の基本精神は今日迄誤りなく守り通されて来たものと思う。そして此の20年余を大別すれば、前半10年は啓蒙と導入の時代、後半10年は、実用化と自主開発の時代と言うことが出来よう。私は敢えて非力を省みず、その後半に直接の関係を持ち得たことは、エネルギー問題をライフワークと考えた1電気技術者にとっては、誠に仕合せであったと思う。

 しかしながら私は自分の在任期間を省みて、満足すべき成果が得られたと考えることよりも、不十分不満足の結果乃至は着手さえも覚付かないままに終った点の多いことを考えると、内心忸怩たらざるを得ない。私は今さらそれを弁解しようと思わないし、また此れを世界的な反原子力勢力の台頭の影響であるとも言わない。只私をして卒直に言わして載くならば、私は日本の原子力界は先きに述べた後半10年に於て漸く自主開発の気運と自覚が醸成され、来る可き10年に於て必ずやそれは成果を得られることを期待出来る段階に達したものと信じるのである。

 原子力委員会は概ね5ヶ年毎に長期計画の改訂を行って来た。私の就任直前に有沢委員長代理の下で第4回目の長期計画は改訂された。そしてその直後に所謂石油危機が発生したのである。各国は競って原子力発電の増強を計画した。しかしそれは概ね失敗に近い。中でも日本の達成率は50%も覚付かないという現状である。日本の原子力発電は既に1千万kwに達し、その稼働率も最近は60%を超えるに至ったということだけでは、決してその弁解にはならない。私は量的の面からは原子力政策の不備不十分を認めざるを得ない。

 しかし私にとって密かに喜びとするところは内容の充実である。自主技術の向上である。卒直に言って此の質の発展は量の失敗を補って余りあるものと思う。原子力基本法において「自主的にこれを行うものとし」とありながら、最初はそれは空文に近かった。今日では基礎的乃至は科学的研究分野から、応用技術としての新型炉の開発並びに核燃料サイクルの各分野に於て漸く自主独立の開発は成果を見んとしている。

 それは常陽・普賢の開発から濃縮再処理の着手、また安全技術の研究から放射線の利用等々ここに列挙する必要はないと思う。只一言申し添えて置きたいことは自主技術の開発は決してナショナリズム的な狭量な考えに基くものでない。重要なことは今後外国の政策に左右されることなく、我が国は我々独自の判断に基いて「将来におけるエネルギー資源を確保」し得るに至ったということである。

 昭和30年原子力基本法の制定当時それは「将来」の問題であった。今日これは「現実」の問題であり直ちに解決を要する問題となった。日本は一昨年核不拡散条約を批准し飽くまでその主旨に努力するが、同時に原子力の平和利用と核不拡散は両立し得るとの堅い信念の上に立っている。それは我が国がINFCEに参加した際の基本態度であり、此れを貫くことが出来るのは漸くにして日本は独自の技術を持ち得るに至ったからである。

 世界が石油に依存し得るのがあと10年であるか20年であるか、それは分らない。しかしエネルギーの海外依存度が既に88%に達した今日、代替資源を考えその多様化を計ると共に、「準国産資源」としての原子力開発に最重点を置く可きことは我が国として当然であり必至である。

 要はその決意である。技術と人材は漸くにして之に応え得るに至った。官民を問わずそれは実行の時であり、必要なことは国民的コンセンサスの上に資金の投入によってその実現を計ることである。

 昭和53年10月4日
井上五郎

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