研 究 の 指 向

原子力委員会参与  瀬藤  象二

 5〜20年の後にわが国の電気エネルギー需給のバランスは非常な苦境に陥ることが予見せられたので、私は同志の諸君とともにその不足分を原子力によって補うほかなしと考え、昭和29年の初頭から原子力発電資料調査会の設立を企てたのであった。この企画は若い研究者諸君の支持を得たが、いろいろの事情で発足が遅れ、やっとその年の12月に関係各会社から資金の拠出を得て仕事を始めることができた。その後、米国のアイゼンハウアー大統領の主唱によって、原子力の平和的利用に関する国際会議がジュネーヴで開かれて各国の研究結果が発表されるとか、わが国にも原子力研究所、原子力委員会、原子力局、原子力産業会議等があいついで設立され、諸外国の発達状況を調べるために調査団を派遣する等のことがあって、原子力の平和利用、特に原子力発電に関するわが国民の関心は急速に高められてきている。
 一方、電気エネルギー需給の見通しは、その後の経済の進展にともなってますます逼迫の度を加えてきたので、水力の経済的開発限度、国内炭の電力向け供給限度、輸入燃料の経済的可能限度等を極度に見積っても、なおかつ昭和40年度には約100万kW、昭和50年度に約1,000万kWの原子力発電設備をもつ必要があろうと推算せられるようになった。
 電力需給の逼迫について、わが国と同様の傾向をもち、しかも10年以上も研究を早く始めた英国が、1965年までに約200万kWの原子力発電所を作る計画を1955年にたてて実行に邁進しているのに対比すると、今後8年間に100万kWの原子力発電所をわが国が建設することは、なみたいていの努力ではできない、特別の措置を要する難事である。
 わが国民はこのことを実行不可能のものとしてあきらめ、経済の発展もあきらめ、かって味わったように停電をローソクでしのぐうきめに甘んじなくてはならないのであろうか。英国は1940年ごろに現在を予想して、第2次大戦直後、米国との間の原子力開発に関する協力が破れたときから自分で進むべき道をひらくことを決意した。しかして原子力開発の研究を一本の大方針に指向させた結果、10年間に今日の成果をもたらしたのである。米国のように extensive な研究をするだけの経済力を持たず、またゆっくりしていられない実情にかんがみてintensiveな研究を続けたのが彼等の成功しつつある主因といえると思う。
 原子力開発に関しては英国とわが国との事情に類似点も多いが、相違点としては、かれらは、(1)原子兵器も作る。(2)経済力はわが国の数倍である。(3)10年以上もさきに始めた。(4)国策として取り上げ、それをたゆまず実行する能力、習慣ができている等々であろう。これらの相違点を十分考慮に入れて彼等がなし遂げつつあるところを参考にして、わが国情にふさわしい独自の方針をたて、その方針を貫徹するためには、当分の間はすくなくとも実用化のための研究はintensiveに指向することが肝要であると私は考えるのである。
 研究に指向性をもたせることはもちろん研究者の納得の上で行うべきであり、研究の統制とか、ましてや強制ということではないのであって、研究者の英知による理解を前提とする。研究者は事態を平静かつ謙虚な態度で認識することが必要であることは論をまたない。
 私は一人でも多くの研究者が、このことを認識し、研究の指向に協調されることを衷心から希望するものである。

(東京芝浦電気株式会社専務取締役 東京大学名誉教授)