自主性ということ


原子力委員会参与   倉田  主税

 自主性とか自立などという言葉は、数年来われわれが新聞、ラジオ等で一日に幾度となくきかされていろが、私も、まずわれわれの自主的態度が何事につけても先決でなければならないという事を主張し続けて来た者の一員に加えていただいてもよいであろう。さて、私がここでまたあらためてこのような言葉を持ち出すのは私は私なりに意味もあることであるが、また一面においては、自主性ということの再検討をされなくてはならぬ時期でもあるような感じがして来ている。

 事実、過去におけるわれわれの祖国なり先輩なりには、どちらかというと自主性の欠如という事について卒直に認めなければならぬ。元来、日本人は物真似が実に上手であるといわれている。卑近な例をあげれば、昔言葉でいうと西洋手品とも申すべき奇術の種を外国から求めてばかりいる。そのうちにいつの間にか師匠以上の腕前を示すそうである。ところが、自分達で何か新しい独創的なものを生み出すかといえぱ全くその逆である。こういった習性が一つの伝統とされ、またその態度でもあったといえよう。さて、今日のわれわれの社会経済生活において、種々の意味で自主性の涵養が叫ばれていることは先にも申し述べた。同時に近頃、私が痛感するのは、自主独立という事をあたかも鎖国時代のいたずらに他を全く省りみない独善と同義語にされて来てはおらぬかということである。何事によらずもし外国にわれわれより進歩している技術なり研究なりがあるならぱ、一応われわれのものとするための資料として受け入れ、そこからの研鑽、努力の結果が新しいわれわれの自主的なものを生み出さなければならない。問題はその考え方と実践の態度にある。むろん私が申し述べているのは態度の基本であり、全部が全部こうあらねばならぬと公式的に主張しているのではない。要は出発点の問題である。過去の日本は模倣と追従のみに過して来たことは再三申し述べた。それだからといって20世紀後半の現代、他にわれわれの参考とすべき材料、資料に対して結果においては全く眼をふさぐ態度が自主的であり、自立化の手段であるという事は断じてない。これらの点についてわれわれはもう一度考えねぱならぬさまざまな問題が、政治にも研常にも大きく投げかけられていると思われてならぬ。

 たしかに過去の日本人は模倣主義の反面自主ということの真義をはきちがえ、私がここにいうごとき態度を頭から否定してかかった数々の例もあり、また昔ばかりでなく、今でも時折其処此処にあるようでもある。しかし私は、新しい世代に生きる日本人全体の良識と自主独立の精神を信じて疑わぬものである。あくまで広い視野と立場からの研究、実践が近い日に大きな実を結ぶものであるという事をひそかに産業界の片隅より夢見ている次第である。

(上野の花三分咲の報をききつつ)

株式会社 日立製作所社長

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