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おしゃべりとだんまり



理化学研究所理事長
(前原子力委員)
宮島 龍興



1. この4月で2期6年の原子力委員から放免されたが、思いかえしてみると、ああすればよかったのだがと悔やまれることや、やろうと思っても打ち破れない壁をくやしがったことなどばかりであったような気がする。ひとつひとつ取り上げていてはきりがないが、結論的にいうと責任と権限の問題である。

 原子力委員会は原子力の研究、開発および利用に関する国の施策を計画的に遂行し、原子力行政の民主的運営を図るために設置されているし、委員会は原子力の研究、開発および利用に関する事項について企画し、審議し、決定するものであり、総理大臣はその決定について報告をうけたときはこれを十分に尊重しなければならないことになっている。

2. 原子力の利用といっても初期と現在では規模もちがい、内外の状勢も変化しているので、国の施策を計画的に遂行するために置かれているという表現は同じであっても、そのために委員会が為さねばならない事項もその範囲が広くなったり、変わったりするはずである。しかし、限られた委員の数や事務能力など与えられた条件を考えると、可能な範囲に限度があり、その限度がまた変化していく。殊に行政機関でない委員会というものの持つ機能の限度もある。責任を議論する場合、これらの条件を十分考えに入れる必要があるが、国全体としては、限度をこえるから責任はないなどと言っていられないことも明らかであるから、責任のある議論をすることが大切である。

3. 責任論が出てくるのは、失敗したり、うまくいかなかった場合が多い。形式的にいうと、原子力に関する施策を実施するのは総理大臣や各大臣であって、基本施策に関する委員会決定を尊重しなければならないけれども、決定通りにしなくてはならないわけではないのだから、全責任は大臣の方にあることになっている。しかし、これは形式の話であって、道義的だけでなく実質的にも委員会決定に責任があることは言うまでもない。しかし、たとえば「むつ」のように、関係した科学者、技術者が慎重な判断をしそこなったことがきっかけになって大問題になった場合、基本方針がよくなかったのか、人や組織が悪かったのか、ともかく委員会、政府、事業団などはそれぞれの責任をとるべきであったと思う。現実には、委員会は少しもたつくうち、被告席におかれ、物を言いにくくなってしまった。うまくいかなくなったときだけ物を言うと、言いわけになってしまうが、ほんとうは委員会の性格からいって、ふだんからもっとおしゃべりで、原子力の考え方から関連する社会的政治的諸問題にいたるまで、できるだけ発言して、原子力委員がどんな考えで原子力の研究開発、利用を進めようとしているのか広く理解されるような下地をつくっておくことが大事な役割と思う。この原子力委員会月報もそのための一つの手段と考えて、活用してよいのではあるまいか。


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