食糧の安定供給の観点からの放射線利用(放射線育種)

農業生物資源研究所
桂 直樹

1.食糧安定供給と地球環境保全の観点からの放射線育種の位置づけ
 食糧の安定供給と地球環境の保全において、植物育種(品種改良)が果たす役割は益々大きくなってきている。植物育種の目的は、これまで(1)食糧の増産・安定的生産のための改良、(2)生活を豊かにするための観賞用植物の改良などが主流であったが、近年、地球環境問題の顕在化にともない、(3)環境の保全・修復・浄化のための改良が重要になってきている。
 (1)食糧需給の観点
 農政審議会(平成7年12月)が発表した「農産物の需要と生産の長期見通し」に関する検討結果(大臣官房企画室発表)では、将来アジアの大幅な人口増加と高い経済成長に伴う食生活の変化により、穀物需要の地域的不均衡が拡大すること、また、先進国での生産調整、農地拡大の制約、環境問題の顕在化などが食糧の安定供給の制約要因となることを見通している。一方、我が国の食糧自給率の低下は、米消費の減少と畜産物、油脂消費の増加に伴う輸入穀物の増加によっており、さらに、ムギ、大豆と魚介類の国内生産の減少に起因すると分析している。このためには、国内生産と輸入・備蓄の適切な組み合わせが不可欠である。
 我が国の低い自給率の主要な原因である飼料用穀物と小麦や大豆の輸入の中で、飼料用穀物を除けば、小麦や大豆などの国内生産を政策的に増大させる必要がある。それらの増産に適した品種を作り出す方法として、放射線による新規機能性の付与、雄性不稔突然変異によるF1品種の育成、交雑不親和性の打破による高効率で雑種を作る技術など放射線育種技術が広く活用できる。
(2)地球環境問題の観点
 オゾン層の破壊、地球の温暖化・乾燥化、農薬や化学物質による環境汚染などが食糧生産を制約する要因となる。これらの環境要因を克服して、安定な食糧供給を確保するためには、オゾン層の破壊に伴って増加する強い紫外線の下でも高い生産力を維持する作物や地球温暖化に伴って拡大する乾燥地帯でも生産できる作物など、植物の生育に適さない環境下でも高い生産性を維持できる作物を作り出す必要がある。また同時に、農薬などによる更なる環境汚染を防止するために、農薬を使わなくても効率よく生産できる耐塩性や耐病虫性の作物や果樹などを作り出す努力も継続する必要がある。さらに、植物の環境保持能力を積極的に活かすことによって、ダイオキシンやPCBなどに代表される環境ホルモンを含めて多くの化学物質によってすでに汚染された環境を積極的に浄化し、修復できるような高い環境修復能力を持つ植物を作り出すことも将来の課題である。これらの環境耐性植物や環境浄化植物を作る方法の1つとして、放射線利用した育種技術が大いに活用できる。

2.放射線育種技術の研究開発
(1)変異拡大の必要性
 農業生産のための新たな需要に応える品種を育成するためには、新たな素材となる特性を持つ遺伝資源が必要である。これまでも国内外からの遺伝資源の収集と特性評価が進められてきたが、生物多様性条約によって遺伝資源が国の主権下におかれることになったのにともない、遺伝資源の収集は以前のようには進まなくなってきている。従って、人為的に突然変異を誘発して変異を拡大することにより新たな特性を求める必要がある。突然変異誘発源としてこれまでX線、γ線などの放射線、突然変異誘発作用のある化学物質や培養による変異などが利用されてきたが、最近では、イオンビームによる突然変異がγ線とは異なる変異が誘発されることから注目されており、目的による突然変異誘発の手法選択の範囲が拡大された。
 一方、遺伝子組換え技術を利用した目的遺伝子の導入、アンチセンス遺伝子導入、形質発現の調節などの研究が急速に進められ、遺伝変異の拡大は急速に加速されつつある。しかし、突然変異は正常な塩基配列を乱して劣性遺伝する形質を誘発するのに対して、遺伝子組換えは生化学的に活性のある遺伝子を外部から導入して優性遺伝する形質を付加することであり、この2つの技術は対立するものではなく、相補的な関係にあり、使い分けられる技術である。
(2)突然変異の重要性
 世界中ですでに1800近い品種が突然変異を利用して育成され、我が国でも110品種が育成されている。我が国育成の突然変異品種のうち約80%がγ線によるものである。
 これらの品種の変異した形質は、早生、矮性(または短稈)などが多く、その他、酒米用の品種や食味が改善された低アミロースの品種など成分・品質の変異や、耐病性、花色の変異など多くの変異が得られている。その実例の一つとして、ナシ「ゴールド二十世紀」があげられる。「二十世紀」は黒斑病に弱く耐病性品種の育成が求められていたが、農業生物資源研究所放射線育種場のγ-フィールドにおいて設立当初から長期間緩照射を受けてきた「二十世紀」個体から耐病性突然変異が得られ、品種として登録・普及されたものである。
 このようにγ-フィールドを利用したγ線の緩照射では急照射の場合より多くの線量を照射することが出来、突然変異率も高いばかりではなく、ナシの例では劣悪形質を随伴することが少なかった。キクでも組織培養とγ線照射を組み合わせることにより多くの花色の突然変異を得られているが、緩照射の方が突然変異率は高く変異の幅は大きい。
 キクでは多くの花色の突然変異が誘発され、この中から6品種が育成・登録された。
 また、米では可消化性蛋白質グルテリンの含量が低下した突然変異系統が得られている。この系統は蛋白質の摂取が制限されている腎臓病患者のための低蛋白質米として臨床試験が進められつつあり、実用化が期待されている。
 このように、突然変異による品種はすでに我が国の農業に大きく貢献しており、定着した手法として今後もその発展が期待されている。
(3)放射線突然変異の特徴
 放射線で得られる突然変異はそのほどんど全てが遺伝子の生化学的活性が失われることにより生じるもので、劣性遺伝する。
 突然変異育種の最大の特徴は、優良品種の1特性だけの改良が可能なことであり、これは交配育種では容易なことではない。また、突然変異では在来品種にない新たな形質が得られる。育種期間が短縮される、交配が困難な作物にも適用できるの4点があげられる。
(4)放射線育種の新展開
 ①ラジオバイテク技術
 栄養繁殖性作物では突然変異した細胞と正常細胞が混在するキメラを形成するため、突然変異の選抜・個体が容易ではなく、栄養繁殖性作物の放射線育種のネックとなっていた。そこで、放射線育種場では細胞・組織培養とガンマ線照射を組み合わせることにより、キメラを解消して完全な変異個体の作出技術を開発した。これにより栄養繁殖性作物の放射線育種の効率化が図られ、キク、エニシダ、トルコギキョウなど数多くの品種が育成された。
 ②イオンビーム法の開発
 最近、炭素などのイオン原子を加速器を使って照射するイオンビーム照射装置が開発され、原子力研究所高崎研究所におけるシロイヌナズナを使った基礎研究が行われている。イオンビームはDNAに対して局所的に損傷を与えるため、γ線とは突然変異の作用機作が異なることが考えられる。同所と放射線育種場の共同研究で行ったキクの照射実験でイオンビームはγ線で得られない突然変異突が得られ、イオンビームが新たな然変異誘発源として利用可能なことが示された。
 ③イオンビームとγ線の特徴
 イオンビームはγ線より強いエネルギーを持ち、染色体に大きな変化をもたらすため、γ線とは異なる形質の突然変異を誘発する可能性が高く、同じ照射線量を与えたときのビームの数はγ線の約1/2000と少ないので単一遺伝子だけの変化が得やすいなどの特徴がある。しかし、形質によってはγ線の方が高い頻度で突然変異は得られること、γ線では大型植物の照射や緩照射が可能など照射の容易さがあり、各の特徴を活かし放射線育種を行う必要がある。

3.放射線育種の展開方向
(1)今後の展開方向
 最初から軍事目的を兼ねていた欧米のγフィールドは冷戦の終了とともに相次いで廃止され、現在は我が国のγフィールドが世界最大の規模となっている。最近では東南アジア、南米、アフリカなどの発展途上国のいくつかでは新たな照射施設建設の動きがあり、そのための技術相談や我が国との共同研究についての希望が増大してきている。
 また、近い将来世界的な食糧不足の到来が危惧される状況の中で、食糧増産のための国際協力を推進することが求められている。そのため、放射線育種場ではこれまでの放射線育種研究と品種育成の実績を活かして、原子力研究所とともに放射線突然変異研究のフロントランナーとなる必要がある。
(2)フロントランナーとしての戦略
 イオンビームによる放射線育種をさらに効率化するため、各種植物の照射が可能な超伝導サイクロトロンを原子力研究所に建設・整備する予定であり、環境耐性植物、環境浄化植物等の育成に関する研究を進めるほか、放射線育種場との連携をさらに進め、農作物のイオンビーム照射を円滑に行い、農作物の放射線育種の技術を確立する。
 また、放射線育種場が放射線育種に関し世界最大とも言える施設であることに鑑み、海外からの研究者を受け入れ、必要に応じて原子力研究所との協力の下にイオンビーム照射を行うなどにより高度な放射線育種の国際協力を行う国際的拠点となるよう引き続き努めて参りたい。
 研究開発は、食糧の増産、機能性の付与などから耐病性等による環境保全型農業を目標とし、さらに環境浄化作用のある植物育成を目指すなど植物機能の利用拡大を図る。