資料第12-2号

研究の資源配分と国際協力の

責任分担に関する検討報告書

 

 

 

平成12年6月


目次

はじめに

1.研究の資源配分について
1-1 国家による科学研究への資源配分問題の前提
1-2 研究活動への資源配分の問題とは
1-3 ITERへの資源配分

2.国際協力の責任分担
2-1 国際協力を行うインセンティブ
2-2 科学研究における国際協力の形態
2-3 国際協力における責任分担

 


はじめに
 原子力委員会ITER計画懇談会(座長:吉川 弘之 日本学術会議会長)は、我が国として今後の国際熱核融合実験炉(ITER)計画の進め方について、社会的・経済的側面を考慮し、長期的展望に立った国際社会の中での役割も見通した幅広い調査審議を進めるために平成8年12月に設置された。その後、同懇談会による審議を経て、平成10年3月に「懇談会における議論の整理と今後の課題について」が中間的に取りまとめられ、今後議論すべき課題の明確化等が行われた。
 中間取りまとめにおいては、我が国がITER計画における実験炉の設置国になることの意義が非常に大きいという認識と同時に、我が国が設置国に名乗りを挙げるか挙げないかを決断するために明らかにしなければならない以下の6項目の課題が示された。
 1.エネルギ-の長期に亘る需給調査
 2.代替エネルギ-のフィ-ジビリティスタディ
 3.核融合エネルギ-の技術的実現性
 4.計画の拡がりあるいは裾野としての基礎研究
 5.研究の資源配分
 6.国際関係
 当委員会に対しては、このうち5.6.について検討することが求められた。中間とりまとめにおいては、5.について、「研究において公共的費用を必要とする分野は極めて多い。これに対し最終的配分を決定するのは政策決定に他ならないが、その配分の原則についての理念を構築する。とくに、前線拡大型と、人類存続型とのトレ-ドオフが重要である。それらは決して背反ではないが、両者の基本的関係を明らかにしつつ、後者の重要性が増す現代に適応する配分理念を創出する」と指摘している。また、6.について、「国際協力の責任分担に関しては、そのプロジェクトの態様により、様々な選択肢がありうるが、それを実際のプロジェクトについての基本的な指針の確立を目指す。これについては、OECD・CSTP(経済協力開発機構・科学技術政策委員会)のメガサイエンス・フォ-ラムにおける議論も参考になるであろう」と指摘している。本報告書は、このような指摘も踏まえて行った検討の結果を取りまとめたものである。

 

1.研究の資源配分について
1-1 国家による科学研究への資源配分問題の前提

(1) 原型的科学の場合
 かつて科学が19世紀に制度化されていく過程で、科学研究の原型的なパターンと構造が造り出された。その基本構造の最も著しい特徴は、科学研究の自己閉鎖性、自己充足性、自己完結性であったということができる。科学者は職能者集団として科学者共同体を形成し、研究活動は完全にその共同体の内部で自己完結し、自己充足する。これがその構造の本質であった。研究の成果として生み出される知識は、科学者共同体の内部、つまり同僚メンバーの間でのみ流通し、消費され、利用され、あるいは評価される形をとった。
 知的職能者としては科学者の先輩に当たる聖職者、医師、法曹もまた、職能者集団を形成し、それらは排他性を持ち、内的な結束も強固である。しかし、科学者の場合との決定的な違いは、彼らの場合には、必ず職能者集団の外部に、クライアントが存在する、という点である。クライアントである信者、求道者、あるいはクライアントとしての患者、あるいはクライアントとしての正義が正されることを求める人、聖職者、医師、法曹にとって、これらのクライアントがいなかったら、職能は成り立たなくなる。
 しかし、科学者の場合は、先ず研究は、研究者自身の好奇心を満足させるために行われるものであり、第二に、彼らの集団である科学者共同体も、そうした好奇心を共有する個人が集まったに過ぎない。彼らの研究目的は自己のなかにのみ存在し、それが自己の努力によって達成されれば、それで研究の一つのサイクルは終わる。これを原型的科学研究の自己完結性と呼ぼう。
 このような研究においては、その資源配分という問題は基本的には起こらない。歴史的に見れば、19世紀にあっては、科学研究のほとんどすべては、自己資金(大学における場合も含む)によって行われるか、あるいは好奇心は持ち合わせるが、研究そのものに手を染めることはしない貴族の支援で行われるか、であって、個々の科学者が、それぞれの立場で調達して話が終わるような状況であった。
 その後今世紀に入って、科学研究が、社会的に少しずつ認められてくると、これを制度的に支援しようとする財団も現れるが、その支援の原則は「フィランスロピー」であり、ここでも個々の研究者の研究内容に沿って、資源調達が行われていた。さらに、20世紀の初期には、まだ企業も、一部の化学産業を除けば、科学研究の成果を活用して、自らの経済活動に利益を生み出そうとする状況を迎えてはいなかった。
 つまりこの段階では、科学研究は、研究者の自立性、自己管理に任されており、人的資源も含めて、そのアロケーションが問題になることはほとんどなかった。この傾向は現在でも、特に純粋研究の領域では存在しており、例えば科学研究費の一般研究の審査においては、研究テーマによってプライオリティが考慮されるというよりは、研究計画の内的妥当性という基準によってのみ評価・選別が行われているのも、その表れと見ることができる。またその際研究成果に関しては、当該研究者自身に任されており、原則として最終審査の機会が存在しないことも、そうした認識が受け入れられていることを示している。

(2) ブッシュ主義の科学
 しかし、時代の推移とともに、科学研究の構造そのものにも、変化が生じてきた。その最も端的な現象は、ブッシュ主義の台頭に見ることができる。ここでブッシュ主義というのは、言うまでもなく、第二次世界大戦の終結に際して、アメリカ大統領F・ローズヴェルトの求めに応じて、当時国防省の研究開発局長であったⅤ・ブッシュが書いた報告書『科学――限りなきフロンティア』(1945)の内容を指している。
 もともとブッシュが1941年研究開発局長に任命されたのは、39年のヨーロッパ戦線における大戦の勃発、41年対日戦にも突入したなかで、戦争の遂行と勝利への重要な鍵として、科学の成果と科学者の働きとの総動員という施策がローズヴェルト政府のなかで浮上し、その施策の実施責任者としてブッシュが選ばれたことによっている。そして結果的にこの人選は成功を収め、マンハッタン計画もまた、ブッシュの責任の下で、結実しようとしていた1944年暮に、ローズヴェルトのブッシュ宛の書簡が届いた。そのなかでローズヴェルトは、非常時の国家目的遂行のために、科学と科学者とを総動員するという、これまでに誰もなし得なかったことをブッシュが成功裏に実行中であることを高く評価した上で、戦争の早期終結を見越し、平和が戻ったときに、同じような国家による科学と科学者の動員体制を維持するには、中央政府は何をなすべきか、を問うたのであった。
 ブッシュの報告書『科学――限りなきフロンティア』は、その応答としてまとめられたものであった。そこには、国家が施策として研究・開発を支援し、それによって自然についての知識を増大させることが、結局は、貧困からの脱出、雇用の増進、新産業の創出、疾病との戦いなど、非戦時下における国家目標の追求にとっても、決定的な利点となることを、明確に認知し、中央政府による科学研究の組織的・制度的な活用こそが、アメリカの国策として推薦できる旨が述べられていた。
 これこそ、今日の日本の科学技術基本法や基本計画制定の背後にある基本了解でもある。
 話の本筋からは多少逸れるが、今日世界的な文脈で、ブッシュ主義の崩壊が語られる傾向がある。確かに、大戦終結後、ブッシュ主義の名の下で、アメリカが行ってきた核兵器開発、大陸間弾道弾開発、あるいはNASAの宇宙開発など、国費を集約的に投下した、国家政策の中枢を占めるような大規模な研究・開発プロジェクトは、冷戦構造の終焉とともに、次第に影が薄くなっていることは事実である。そしてこの点を指して「ブッシュ主義の終焉」というのであれば、それは正しいだろう。しかし、そこには、ローズヴェルト=ブッシュの着想が、戦後のソ連との軍事的、国家的対立の激化によって、変形せざるを得なかった、という、いわば歴史の偶然に対する配慮が欠けているように思われる。  ローズヴェルト=ブッシュの目指した本来の方向は、民生の福利増大であり、そのために、国家は研究・開発に国費を投下し、その見返りとして研究の成果を活用しようとするものであって、そうしたブッシュ主義の原点を考慮すれば、現代においてもブッシュ主義の終焉を安易に主張することはできないと考えられる。
 いずれにせよ、ブッシュ主義によって、科学研究に新しいフェーズが生じたことは明らかである。すなわち、原型的な科学研究では自己完結的に閉じていた構造が変化して、科学者共同体の外部にクライアントが存在するような形の構造が生まれたのである。しかも、このクライアントは、最も強力な中央政府が代表するようなものであった。

(3)ボトムアップとトップダウンとの隙間
 しかし、ここに問題が生じた。研究者の側では、依然として基本的には自立的、かつ自己完結的に研究に対応しようとしている。従って、研究課題の選択に当たってもまた、基本的には個々の研究者の自発性のなかで、好奇心に駆動されつつ課題が定められていく。他方クライアントとしての国家は、自らの選んだ政策を実行するための道具として、研究・開発における課題(使命)を設定して、これを研究者に発注しようとする。そこには両者の間の幸福な一致と不幸な不一致とが共在することになる。また、少なくともこうした場面で国家に用意される資源は、国家政策の設定する使命に合致した課題に、優先的に配分されようとするだろう。
 こうした状況にあっては、国家政策主導の課題選択とそれに伴って進めらるべき資源の配分、すなわちトップダウン型のパターンと、研究者の自発性に基づく課題選択とそれに関して求められるべき資源配分という、ボトムアップ型のパターンとの共存という事態が起こってくることになる。
 付け加えれば、かつての原型的科学研究にあっては、資源配分は個々の研究者の自己調達で賄われてきた。しかし、研究そのものの大規模化に伴って、その方法には明らかに限界が生じてきた。従って、現在では、そうした個々の研究者の好奇心に根ざす研究であっても、国家は、それに対して相当の資源配分を用意することが当然である、と考えられるようになってきた。

(4) 原型的科学への資源配分の根拠
 ここでも多少のわき道に逸れれば、個々の研究者の個人的好奇心に根ざす研究に対しても、国家が相当の資源配分を用意するのが当然である。という了解そのものは、実は原理的には問い直してみる必要がある。とりわけ、それを他の文化的活動と比較したとき、この問い直しはある種の重みを帯びる。
 すでに述べたように、この種の研究への財政的支援は、あくまでもフィランスロピックな原則に則って行われると考えられる。つまり人間の活動の一つとして科学研究を認め、それが人間の幅と深さとを増すのに役立つという認識に立って行われる。
 しかし、考えてみれば、同じように人間の幅と深さとを増すのに役立つと考えられる文学、詩、絵画、彫刻、舞踊などの芸術創造に対して、国家がその活動を財政的に支援し、相応の資源配分を行っているか、といえば、基本的にはそうしたことは行われていない。また作家や画家は、どれほど貧窮しても、なお国家が自分の創造活動に資金的援助をすべきだと要求することはない。オペラ、歌舞伎などの領域では、国立の小屋を造ったり、あるいは国家の手でインフラを整えたりすることは、ようやく最近少しずつ実現してきた。
 いずれにしても、原型的科学が、研究者自身の好奇心を満足させることに駆動された活動であるとすれば、如何に大規模化して多額の資金や人的資源が要るからといって、それを当然国家が税金をもって財政的に支援しなければならない、とする合理性は、例えば芸術活動に比べて格段に大きい、というわけにはいかない、という議論は十分に成り立つ。
 もちろん、そうした研究活動の成果がノーベル賞の獲得に結びついて、日本の国威が発揚される、という「国家的利益」をもたらすとあれば、それは国費を配分する別の理由が生まれる、という理屈はあろうが、しかし、それならば、世界的な小説、世界的な詩作、あるいは世界的な絵画や彫刻が国費の支援によって誕生しても、日本の「国威」は上がるであろう。
 こうしてみると、原型的科学研究への国家資源の配分は、いやがうえにも要求できるほど自明な合理的根拠を持っているとは言い難いところがある。それは、文化活動を国家がどのように支援するか、という、より大きな文脈における原則のなかで、提起さるべき問題であるとも言えよう。

(5) 民間における研究資源
 これまで触れて来なかったもう一つの考慮すべき前提は、民間における研究・開発投資である。念のために付言するが、19世紀に原型的科学が成立した後、当分の間は、研究活動の場は、ほとんどが大学か、または貴族のプライヴェートな研究室などに限られており、民間の産業内に科学者の活動の場はなかったと言ってよい。企業は科学者の研究を活用するような態勢にはなっていなかったからである。国家においては、度量衡局、あるいは標準局のように、国内の規格規制、あるいは国際標準規格、もしくは特許などについて仕事をする部局があって、科学者の極く一部は、そこへ就職することはできた。私たちはアインシュタインがベルンの特許局に勤める技師であったことを記憶している。
 したがって、民間企業が科学者を雇用し、企業内研究室(inhouse-1ab)で製品の開発のために研究に従事させる、というパターンが生まれてくるのは、1920年代ころからである。そして興味深いことに、例のブッシュの報告書には、国家機関と民間機関とにおける研究の比率は如何にあるべきか、という論点が登場している。一般論としては、戦争協力という状況下ではあったが、第二次大戦あたりから、民間企業の研究・開発への投資額は急激に増大する。国家はまた民間の活力に期待する、という構造も生まれてくる。すぐ後に述べるように、現代日本の研究・開発が、他の先進国に比較すれば、かなり民間に偏っているということも周知の事実である。

1-2 研究活動への資源配分の問題とは

(1) 研究・開発への国家の資源配分
 このように考えると、国家全体としての資源の科学研究への配分に関して、先ず、すべての科学研究に対する国家的支出(政府資金、民間資金を問わず)をどうすべきか、という問題が生じる。現状は資料の図1,2の通りであるが、研究・開発に投下する資源の対GDP比で言えば、現在日本は世界でもトップに位する。
 その内的構造に関しては、しかし、他の先進国に比して、明らかなインバランスが認められる。研究・開発費の総額の8割を民間が占め、政府投資は2割である。もちろん、この比率がどのようであるとき「良い」バランスと言うべきなのか、誰も合理的な根拠を持ち合わせていないことは確かであろう。アメリカの政府投資額が、約30パーセントであるのも、フランスのそれが40パーセントを超えているのも、そうでなければならない、という意志決定の下で、意図的、計画的に努力された結果というよりは、歴史的偶然の産物である。その点から見れば、日本の数字を「インバランス」と決め付ける必然性はないとも言える。
 しかし、他方で、国際的な議論の場では、永年日本が示してきたこの数字は、しばしば奇異な例として、話題に上るのも事実である。そうした状況のなかで、例えばこれからの10年の間に、政府投資額を研究費総額の25パーセントに引き上げる、という努力目標を掲げることの提案は、合理的根拠は示せないが、しかし、非合理である根拠も全く見出せない。
 仮にこれを10年後に実現したとすると次のような状況を大まかに想定することができる。比較のために1997年度の数値と並べてみよう。なお国内総生産は年間1パーセント増、また研究費の対GDP比は10年後にも3パーセントとした概算である。

  国内総生産 研究費総額 対GDP 政府負担額 政府負担割合
1997 505(兆円) 15.7(兆円) 3.12% 3.2(兆円) 20.4%
2009 560 17 3.03 4.25 25.0

 この4.25兆円という総額は10年の期間を与えれば、年間5パーセント弱の成長率で実現できる数字である。もちろん、この仮定が実現されるためには、民間の開発投資が現在より低下するという前提も織り込まなければならないが、いずれにしても、全く非現実なものとはいえないだろう。少なくとも政策課題として検討する余地はあることをここに提言しておく。念のために付け加えるが、本報告書の今後の議論を、この数字を前提に組み立てようとするものではない。しかし、政府負担がその程度に増えた場合の考慮は、現実的な資源配分に関する議論にも、ある程度のかかわりを持つであろう。何のために政府負担額は増やすべきなのか、という議論を避けて通ることができないからである。

(2) 政府負担資源の使途
 本来的なブッシュ主義が、現実に継続されるという前提(その前提は、日本においては科学技術基本法や、基本計画が今後も相当期間維持されるであろう、という推測から、崩れる可能性は今のところ少ない)に立てば、研究・開発への政府負担は、産業や雇用問題、あるいは医療なども含めた、広い意味での民生水準の改善という目的のために、科学を活用する、という枠組みのなかで一義的には行われるべきことになる。
 つまり、政府負担の基本的配分は、政府施策の遂行のための研究・開発の上に優先度があると考えてよい。という原則が成り立つと思われる。もちろん、すでに触れたような条件はあるものの、原型的科学研究にも相応の負担の振り分けがあるべきであるとしても、中核は国策遂行のために用意さるべきであることになろう。
 ここで国家論の詳細に立ち入る余裕はないが、国家という存在が、国家という規模で機能し得る範囲を考えることは、国策遂行という問題の前提として必須の作業になる。
 ブッシュ主義を前提にした研究・開発と関連した場面において、国家という規模での国家の機能、つまり地方政府や民間、あるいは個人の機能に寄託できない国家の機能としては、次のような領域が考えられる。大まかに言って、それらの間にプライオリティは、番号の順番に従うものと考えられる。

①国民全体という見地からの広義の安全保障
②国家という規模で行われる国際的機能
③より下位組織の自発選択では困難な、しかし学問上必要と認められる研究・開発の支援
④先導的産業技術の開発支援
⑤国民(の一部)の要求への対応

 ①に関しては、防衛戦略、国民のライフラインの確保、国家レヴェルでの災害対策、国民生活の安定のためのエネルギー源の確保、国家レヴェルでの医療(ガン、事故死、アレルギー、いわゆる難病、精神障害など)および保健システム、質量ともに安全な国内消費食糧の確保、犯罪・テロリズム対策、廃棄物処理などに関連する研究・開発。
 これらについては、「国民全体という見地からの歴史的課題」の一つの現代的・時代的表現と呼んでもいいかもしれない。それは、我が国の場合、過去のある時期「富国強兵」や「開発・発展」や「工業化」であったし、将来のある時期「脱物質・脱エネルギー的価値観や消費パターンの促進」になるかもしれない、という視点で捉えることもできると考えられる。
 ②に関しては、先進国家として期待される国際的機能分担、例えば、地球環境問題、途上国の産業技術支援・医療支援、宇宙開発・海洋開発などにおける国際協力、国際的大型研究の分担など。
 ③主として原型的科学研究。ただし文化的活動全体のなかの一部としての認識が必要になる。したがって、人文・社会科学や芸術活動などへの支援とのバランスをどう考えるか、ということまで考慮に入れるべきであろう。
 ④政府主導で開発の先導をし、成熟度と必要度に応じて、民間企業の競争的空間のなかに戻すべき課題に関する研究・開発。
 ⑤地域の環境問題、食品・医薬品など生活関連の物資・システムに関する民間認証制度、生活コミュニティの構築など、生活者サイドから上がってくる課題と取り組むための研究・開発(恐らく21世紀には、こうした型の研究・開発が増加するであろう。科学の研究の活用クライアントが「生活者」である場合を考慮しなければならない時代であると思われる)。
 これらのカテゴリーの間は、もちろん厳密に区分できるものではない。ある場合には、あるカテゴリーから出発したものが、研究の進行に連れて、他のカテゴリーに移行することもあるだろう。また、そもそも複数領域に跨っている研究もある。

 これらのカテゴリ-への政府の投資について、若干の考察を加える。米国は、超大型加速器(SSC)からの撤退以来、情報技術と生命科学・技術で覇権を握ることに集中してきたのは事実であり、我が国では、この二領域の立ち後れが憂慮されていることも事実である。従って、米国に対抗するために、日本もこれらの領域に「戦略」の焦点を定めるべきである、という声は大きい。しかし、これを日本の戦略として打ち出すということは、実は日本には独自の戦略は何もない、ということの表明でしかない。要するに米国に追随しているだけだからである。
 研究・開発に関して、我が国が如何に自ら戦略を設定するのか、21世紀に向かってどのように科学・技術政策の舵取りをするのか、という点は、我が国の将来に重大な影響を与えることである。この点については、これまで行政が十分に機能していたとは言い難いというのが正直な感想である。例えば、科学技術庁が一貫した思想に基づき、科学・技術政策を主体的に企画、立案、推進し、また、政府全体の科学・技術を積極的に総合調整するといった場面はあまり見られなかったし、自ら行う事業でさえも、必ずしも明確なアジェンダ・セッティングに基づいて行われていたか、気にならないわけではない。但し、これは科学・技術分野のみに限った話しではなく、行政のどの分野においても内在してきた問題であったと考えられる。科学・技術に話を戻すと、国家の科学・技術について、如何なる「戦略」を策定していくかが、今後益々重要な課題となってきている。そして、これがまさに行政改革後の総合科学技術会議に求められる機能ではないかと考える。というのも、これまでの科学技術会議は、首相の諮問機関であって、諮問があったときに答申を提出するという機能しか与えられてこなかったが、新しく設置が企画されている総合科学技術会議では、政策の立案が、その機能に加えられていることを、大切にしたいのである。
 ではわが国の独自な戦略があり得るとすれば、どのようなことを考慮しなければならないだろうか。
 まず、米国の「戦略」に全て付き合う必要はない、という視点は重要である。国家安全保障や経済体制などでは、相互依存の立場で米国への応分の協力も大切であろう。しかし、こと研究・開発にかかわるとき、米国の先行に追随することだけが、なすべきことではなく、異なった途、あるいは補完的な途の選択も十分あり得る、という柔軟な姿勢を維持すべきである。
 確かに米国が先行する情報技術と生命科学・技術には、原理的にも、また実用の面からも、豊かな将来が拓かれる可能性が満ちており、研究・開発の関心が集まるのは当然であり、政策面でもそこに十分光が当てられることに反対すべき理由はない。しかし、それは一つにはその探求自身が、在来型の科学に見られる硬直性を超え、新しい知識の喜びを切り拓くことが期待されているからである。また一つには、そこから得られた結果が、人類と未来人類の幸福に大きく寄与できると信じられるからである。米国の後塵を拝すのを防ぐ、という「戦略的」理由からではないはずである。
 さらに、科学・技術の人類と未来人類の幸福への寄与については、緊要性と根本性の観点からみると、生命科学・技術、情報技術と例えばエネルギ-技術では性格が全く異なるという視点も重要である。エネルギ-技術は短期的な優先順位の議論では、生命科学・技術や情報技術に対抗することはできないが、人類の生存や持続的安定的発展という意味において根本的な重要性があることは明らかである。また、ここで留意すべきことは、生命科学・技術や情報技術については、ゲノム研究やコンピュ-タやネットワ-ク関連技術等に民間企業が積極的に投資を行っており、最近は益々これが盛んになってきているということである。このような状況の中で、これら分野への投資を行うにあたっては、真に政府が果たすべき役割と民間企業が果たすべき役割について十分な議論を行い、見極めを行う必要がある。
 次に、予備段階ですでに目覚ましい成果を上げつつある「すばる計画」、あるいは「国際深海掘削計画(ODP)」への貢献として、我が国が建造、運営に主導的役割を果たすことが期待されている「ライザ-掘削船」がまさにそうであるように、日本もまた、世界のなかで、知識の進展に応分の負担をすべき時代であることを忘れたくない。日本の研究者の多くが、従来他国の建設した施設や装置を使い、様々な科学上の業績を上げてきた。半面、我が国の投資した設備やシステムが、世界の研究者たちを惹きつけ、その仕事が、国家を超えて人類の知的財産の増大に寄与したという例は、実は多くない。
 実際、ここ10年ほど文部省や科学技術庁ではCOE(Center of Excellence)構想が進められている。これは、卓越した研究拠点を育成しようとするものであり、例えば、米国の国立衛生院(NIH)などがこれにあたるが、現在日本で進められている構想は、依然として「比較平等」の原則から抜け出ていないという印象がぬぐえない。それでは真のCOEなどは生まれようがない。研究の成果の産業や経済への直接的波及効果を意識せずに、十分なゆとりをもって世界の研究者が研究に献身できるようなCOE的な環境が、日本にも幾つかはあってもよいのではないか。また、これは、開かれた研究の場を世界に提供するとともに、研究においてもリーダ-シップを発揮することにより人類の知的資産の蓄積に寄与するという意味において、国際社会に大きく貢献することにも繋がるのではないか。

(3) 国家資源配分の原則
 さて、(2)の冒頭で、国家の研究・開発への資源配分に関して、考慮すべき五つのカテゴリーを区分してみた。これらを扱うに当たって大切なことは、第一に、個々のカテゴリーの内部でのプライオリティは、政策の立場から意志決定されることであり、第二に、③を除いては、各カテゴリーどうしの間でプライオリティ争いは避けるという原則を立てることである。付け加えれば③に関しては、日本学術会議などでのピア・レヴューによって、優先度が決められればよいのであり、政策的配慮は原則として介入しない。第二の原則として、ここで主張したいのは、例えば③の立場から、①や②のなかのプロジェクトと競合的にプライオリティ争いをすることは、混乱を招くので慎もう、という点である。
 仮に1.2(1)で仮定したように、国家負担の比率を増加させたとすると、増加分を上のどのカテゴリーに優先的に割り振るか、という点が問題になるだろう。同時に各カテゴリーの間のアロケーションをどうするか、ということこそ、最も厄介な政策的課題でもある。
 ここでも、しかるべきアロケーションが合理的である、と主張できる決定的な根拠はどこにもない、ということを認めなければならない。
 一つの方法は、現在のアロケーションを提示して、それに対して、必要な修正を加えるという方法である。残念ながら、上の五つのカテゴリー分けをして、そのタイトルの下で、研究開発費を種分けしたデータはこれまでのところ存在しない。多少ともこれに近いのは、図3であるが、これに基づいて上の五つのカテゴリーに再編成すると、非常に大まかながら次の比率が得られる。

① 52%
② 13
③ 13
④ 22
⑤  0

 ⑤に関しては、現在は数字がないのは自然である。この比率に関しては、当然色々な見解があり得るし、また、現状がこのような割合であることもまた、歴史的偶然に過ぎない。もしこのバランスを変えるとすればどのようにか。民間の研究・開発インセンティヴが強いこと、国家が民間企業の活動に介入しなければならない段階ではないことを考え合わせると、④を減らすことが一つの可能性として浮上するだろう。少なくとも②、③と同程度であるべきでは、という提案があり得ることを、ここでは示すに留めよう。その原則と、①の比率を変えないという仮定を付け加えると、次のような提案が可能になる。

① 52%
② 15
③ 15
④ 15
⑤  3

 再度訴えるが、この比率が合理的である根拠はないが、同様に、この比率が非合理である根拠もない。そうであるとすれば、こうした数字の提案に関して、広く色々な場(日本学術会議、経済団体連合など)で、論議が深められることこそが望ましい。
 この点も再度強調することになるが、こうしたアロケーションが定まれば、個々のカテゴリーの内部での優先度に関して、政策的議論が可能になり、これまでのような行き当たりばったりの方法、あるいは例えば原型的科学研究と、国家のインフラ構築のために必要な研究・開発など、次元の違う研究プロジェクトどうしの間での不要な対立や、無用な優先争いを、最小限に減らすことができるようになるだろう。
 ここで、アロケ-ションを定めるにあたり、あるいは政策的議論をおこなうにあたり留意しておくべきことがある。これは、科学研究は、かつてのように、これに直接関係する特定の人達だけによる閉鎖的空間において営まれるものではなく、より社会化されたものとなってきており、またそうあるべきであるということである。何故ならば、特に政府により行われる科学・研究は、国民一人一人が支払う税金によって賄われており、また、社会のどこをどのように切っても科学研究の営みがそこにみられるように、その成果は多かれ少なかれ、また直接・間接に人々の社会生活に影響を及ぼすものであるからである。そのような意味において、科学研究は、外交、防衛、医療などと同様に社会的、政治的な問題である。ここで求められるのは、政治や行政が科学研究の在り方について、問題点も含めて率直にその将来ビジョンを広く国民に示し、問いかけることであり、これには責任が伴う。他方、国民の側においても、科学・技術について、その魅力や利点、そして、かつて原子核物理学研究から核兵器開発へ進んだような、その潜在的危険性を社会との関係で観てとることのできる眼力を持ち、健全な判断力を備えていることが求められる。ここにも責任が伴うのである。そのような意味において、初等教育から高等教育まで、非理工系を目指す人々にも、基本的な理科教育がなされること、また理工系を目指す人々にも基本的に人間・社会についての教育がなされることは重要である。国民においても、科学・技術について、日常的に個人や社会、さらには人類の将来に影響を及ぼすものとして、一層の高い関心や問題意識を持つように望みたい。そして、政治や行政が、その示したビジョンに責任を有するのと同様、国民も個々人が行った判断が、国の科学研究の方向性、ひいては自分たちの世代や将来世代における社会、経済のあり様に影響を及ぼすこともあり得るという意味において、その下した判断については責任を有することを十分認識する必要がある。
 さらに、科学研究、特に国家主導のプロジェクト型研究を進めるにあたっては、事前評価、事後評価、そして長期に亘るものについては中間評価も行い、それを積み重ねていくことが非常に重要である。プロジェクト型研究は、巨額の国費を投入して行われる活動であるのだから、その目標とするところが妥当であるのか、目標の実現可能性はどの程度あるのか、計画が着実に進捗しているのか、その成果が社会において利用されることとなった場合、社会へのポシティブあるいはネガティブな影響としてどのようなものがあり、その程度はどの程度かといったことについて、プロジェクトの節目節目において厳格な評価を行う必要性に関しては異論はないであろう。また、このような評価については、関係者によるピア・レウ゛ュ-だけにとどまらず、プロジェクトへの投資者であり、当然これによる配当も得られるかもしれないし、損失を被るかもかもしれない、といった意味において利害関係者である、国民も関与できるものとすることが必要なのかもしれない。しかしながら、現実をみると、日本の科学・技術全体に言えることかもしれないが、この点についてまだまだ努力の余地があるのではないかと考える。
 また、リスクに対する考え方も重要である。例えば、国際プロジェクトでは、参加国が撤退する可能性や国民の意識の変化、つまり、プロジェクトの目標とするべきもの変化、など状況の変化の可能性があり、このようなことは、現実のプロジェクトにおいても散見される。従って、リスクを伴う投資という考え方をスコ-プに入れ、何年かに一度見直しを図り、計画の変更、場合によっては中断という決断も必要となることがあるという意識を常に持つことが必要である。

1-3 ITERへの資源配分
 ITERについては、結論的な優先度を云々することは、本委員会の託された機能の範囲を逸脱するが、これまでの議論との関わりのなかで、原則的な点に触れておくことは許されるだろう。1.2(2)で研究・開発と関連した場面での国家の機能として示した、5つの領域のうち優先順位の高い
 ①国民全体という見地からの安全保障
 ②国家という規模で行われる国際的機能
という二つのカテゴリーに跨るものと考えられる。また副次的には
 ③より下位組織の自発選択では困難な、しかし学問上必要と認められる研究・開発の支援
の観点からも考慮の余地が考えられる。つまり、ITERは、資源の乏しい我が国の長期的なエネルギ-源の確保への最初のステップとして、つまり我が国のエネルギ-安全保障への最初のステップとしての働きが期待される。また、ITERは、まさに先端的技術であり、かつ巨額の投資を伴う大型施設の建設によって、そのブレ-クスル-がはじめて可能となるという意味で、民間では行い得ない。さらに、一国のみで行うよりは、むしろ人類の英知を結集するとともに、巨額の資金負担を分担するという意味で、国際的な取り組みが期待されている分野の一つでもある。加えて、我が国が高い研究・開発ポテンシャルを有する核融合分野のプロジェクトであり、主導的役割を果たすことのできる場でもある。
 学問上の意義については議論の余地があろう。まず、ITERが原型的科学研究でないことは確かであろう。従って研究であるとしても、ブッシュ主義的な枠組みのなかでの研究ということになる。
 現在あり得べき最も純粋な原型的研究に近い「すばる」計画の場合は、③の典型と考えられる。この場合には、研究者主導の計画として、日本学術会議でのディスカッションを経て、ピア・レヴューによる意志決定が行われ、国家プロジェクトとしては副次的に②としての効果が認められて、実現したと考えられる。これと比較すると、ITERの場合は、その目標が最終的には核融合炉という実用的なものを目指すところにある。ただ、実験炉であるITERは、その後の原型炉、実証炉という核融合開発の一つのステップであり、ITERでは、その後のステップに向けて様々な先進的な研究が行われることとなる。また、ITERが大学等の研究者に幅広く開放されることにより、核燃焼プラズマや極限環境という研究の場が提供され、プラズマ物理学をはじめとする物理学や材料工学などの分野で新しい知見を生み出す可能性は小さくない。従って、実用を目的としたITERについても、学問上の意義が期待されないわけではない。
 しかしながら、ITERについては、あくまでエネルギ-開発プロジェクトという側面が強いことも忘れてはならない。そのような意味において、事前、事後、あるいは中間段階における評価やリスク・マネ-ジメントを単なる管理手法ではなく、国家主導プロジェクトに内在する本質の一つと位置付けることは不可欠である。この点について世上に批判があることを、行政、核融合関係者等は自覚しつつ取り組んで欲しい。個別のプロジェクトの問題というよりはむしろ、核融合開発全体について、そもそも核融合はあくまで究極のエネルギ-の実現を掲げて何十年もの歳月をかけて国家的に推進されているものであり、その期待される意義が大きいだけに、投下される資源も巨大になり、費やす年月も長くなる。その間に国民の十分な理解が不可欠である。ところが、これまでの歩みをみると、あと何年で実験炉ができ、その後何年で原型炉ができ、といった目標が立てられては、達成のときがくると、その目標が逃げ水のように遠ざかっていることは、国民の立場から見れば、歯がゆく思われるし、極めて遺憾なことという印象を持たざるを得ない。仮に、ITERを建設するとして、核融合関係者には、こうした印象を払拭するだけの十分な成果を期待するとともに、国民に対して常に経過を明らかにし、理解を求める努力を重ねることを強く望んでおきたい。核融合関係者においては、過去の行動について、何処に問題があったのか、真摯な態度で分析を徹底的に行い、今後に活かしていかれることを強く望みたい。
 また、既に他の専門の場において議論されているとのことであり、ここでは簡単な指摘にとどめたいが、仮にITER計画を進めるとした場合にいくつか考えておかなければならないことがある。まず、材料の問題である。実験炉であるITERの段階では問題はないとのことであるが、その後の原型炉、実証炉、実用炉においては、運転に伴い発生する中性子の照射条件が厳しくなる。これに伴い、構造材が放射化、脆化し、大量の放射性廃棄物を発生したり、構造材の交換頻度を高めざるを得なくなり運転コストが上昇する。特に厳しい条件に曝される、プラズマに対向する第一壁については、既に候補材料はあるとのことであるが、原型炉以降に向け、低放射化材料の開発を着実にすすめていく必要があろう。第二は、安全性の問題である。ITERの設計は安全性が十分考慮されているとのことであるが、これは当然のことである。関係者においては、ITERがトリチウムという放射性物質を大量に取り扱うとともに、炉の内部において大量の高速中性子が発生するものであること、そして、これまで人類が扱ったことのない大規模な核融合装置であることを十分認識し、安全対策については万全を期すことが強く求められる。第三は、人材の問題である、ITER計画のような国際協力プロジェクトにおいては、プロジェクトの運営や科学・技術の面において、組織やコミュニテ-を牽引していくリ-ダ-的な役割を果たす者が必要であり、我が国がITER計画において主導的役割を果たしていこうとするのであれば、このような者を今からでも育成していく必要がある。
 最後に、一般論としても言えることではあるが、ITERへの資源配分を、歴史的文脈を踏まえて考えることも重要ではないかと考える。つまり、我が国は、欧米諸国の努力により蓄積された科学・技術的知見を利用し、産業競争力の強化に成功するとともに、欧米諸国が構築した自由市場経済システムや安全保障システムなどの恵まれた環境の下、貿易通商国家として今日の繁栄を築くに至った。このような意味において、我が国は歴史的に負債を負っており、これを返済していく責務があるという考え方も成立し得るのではないか。「すばる」計画が政策的に受け入れられた基本的な根拠はそこにあった。核融合分野の研究において世界的に高い評価を得ており、それに伴う国際的な発言権をも獲得していると考えられる我が国にとって、ITERはこのような責務を果たしていく有効な機会の一つと見なすことはできるだろう。

 

2.国際協力の責任分担
2-1 国際協力を行うインセンティブ
 科学・技術の分野で国際協力による研究やプロジェクトが進められているが、そのインセンティブとなるもののうち主なものとしては、次のようなものがある。
 環境や資源など地球の有限性の克服は、人類の生存、持続的発展を目指すために解決すべき根元的な要求であり、また、問題が人類全体に関係すること、世界的な取り組みが必要であること等、その性格自体がグロ-バルであり、まさに国際協力による対応が求められる問題である。
 また、科学・技術の成果の多くは人類が広く裨益するものである。こういったことを踏まえ、最近の科学研究が多くの投資を伴うものとなる傾向を強めている中において、国際公共財としての科学・技術の成果の蓄積に貢献するような、科学研究協力については、受益に対する対価の支払いという意味からも、国際協力による対応への要求が高まっている。
 近年、益々その傾向を強めているが、科学・技術の高度化が進み、これに伴い、一国が全ての分野でフロントランナ-でいることが困難となっている。一方、科学・技術のクロスオバ-化が進み、科学・技術を発展させるためには、多分野の科学・技術の知識を適用していかなければならない。人類の持つ科学・技術に関するポテンシャルを最大限に有効活用するためにも、各国が得意とする分野においてそれぞれ貢献していくことが必要であり、このことは、世界全体で見た場合の科学研究の進展という観点からも有効である。また、このようなことは、世界の第一線の研究者が意見交換を行い、議論を戦わせるといった知的触発の機会を必然的に増大させるものであり、科学・技術のポテンシャルの一層の強化に繋がると期待される。
 さらに、近年の科学研究は、宇宙開発や加速器科学の分野にみられるように、科学研究を行うためのインフラの大規模化や高度化が進み、これを行うには巨額の投資を要するようになっている。また、科学研究において大きな役割を果たしている先進国においては、低成長経済が常態化し、今後も例えば二桁の経済成長率の達成といった高度成長は期待できず、必然的に税収の大幅増も望めない。一方、一般的に歳出の削減にはどの国においても、これに強く抵抗する勢力が存在し困難を伴うものであり、また、高齢化社会に進みつつある国や福祉の充実を図ろうとする国の財政は硬直化していく。つまり、今後、特に先進国においては財政上の自由度は益々狭まっていき、科学研究に対する財政的な制約も厳しくなっていくものと想定される。このような状況下、科学・技術の発展を望むのであれば、志を同じくする国々が、科学研究に伴う巨額の投資を分担して行うことが必要となってくる。

2-2 科学研究における国際協力の形態
 科学研究における国際協力の形態については、ゲノム研究のように個々の国が比較的自由な形でドメスティクに研究活動を行い、それらがゆるやかな形で結びついているという態様のものもあれば、加速器科学のように、ある一国に大きな装置を設置し、そこを中核機関として、他国がこれに参加するという態様のものもある。さらには、一般的な研究交流や情報交換といったものもある。このように、科学研究における国際協力の形態は、その内容によってケ-スバイケ-スであり、分散型から一極集中型のものまである。
 また、視点を個々の科学研究プロジェクトから特定分野における科学研究に広げると別の態様の国際協力があり得ることがわかる。核融合開発を例として挙げると、プラズマ物理の分野ではある国が、炉工学の分野では別の国が、大型装置の建設、運転、利用の分野ではまた別の国が、それぞれリ-ダ-シップを発揮するということも、国際協力の一つの形態として成立し得るのではないかと考える。
 さらに、視点を特定分野における科学研究から科学研究全体に広げてみる。この場合、ミクロの活動を見れば個々の国は相当部分ドメスティクに活動を行っていたとしても、ト-タルとして見れば、ある意味の国際協力が成立していると認識できる状況も存在するのではないか。個々の国がそれぞれが得意とする分野においてリ-ダ-シップを発揮するような態様がこれに相当すると考える。例えば、宇宙開発においては米国が、加速器科学においては欧州がといったように、各国がその得意とする分野でリ-ダ-シップを発揮するといった態様である。

2-3 国際協力における責任分担
 国際協力における責任分担といった場合、それは科学・技術的なもの、資金的なもの、プロジェクトマネ-ジメントに係るものなどがある。また、前述のように視点を広げてみた場合に、ある分野における科学研究においてリ-ダ-シップを発揮し、その分野における科学研究、資金負担、プロジェクトマネ-ジメントを一手に引き受けるということであっても、マクロ的にみれば、それが一つの国際協力における責任分担の態様として成立していることもあると考える。
 まず、国際協力による科学研究プロジェクトを考えた場合、これに参加しているどの国も、科学研究、資金分担、プロジェクトマネ-ジメントなど、ほとんど全ての側面において何らかの貢献をしているというケ-スが殆どであり、異なるのはその貢献の度合いではないかと考える。
 それでは、参加している国々が、それぞれどのような貢献をどの程度するのがあるべき姿かということとなるが、結論からいうと、如何なる国際科学研究プロジェクトにも適用できる普遍的な一般原則などは存在しないということであり、各国の貢献の方法や程度は科学研究プロジェクト毎に様々である。もう少し考えてみると、国際科学研究協力のあるべき姿などというものは存在しないが、科学研究プロジェクトの態様によってある程度の形は想定することはでき、現実には、関係国間のプロジェクトに対する熱意の程度、経済力、政治力など様々な力が働いて、然るべき所に落ち着くといったことが現実なのではないかと考える。
 しかしながら、現実には相当なぶれがあったとしても、科学研究プロジェクトの態様によって如何なる責任分担が有り得るのかいったことについて考察することは意味のあることではないかと考える。
 一つのアプロ-チとして、現実の国際協力による科学研究プロジェクトの責任分担のあり様について見てみることが理解の一助になると考える。
 まず、一極集中型の科学研究のプロジェクトについて考えると、その代表的事例としては、国際宇宙ステ-ション計画や欧州における欧州原子核研究機関(CERN)の陽子・陽子衝突型加速器(LHC)計画、欧州シンクロトロン放射光施設(ESRF)、ラウェ・ランジェバン研究所の中性子炉(ILL)などが挙げられよう。これらの国際協力による科学研究の責任分担のあり様については、特に国際宇宙ステ-ション計画とその他の欧州におけるプロジェクトをみると、大きく異なってることが分かる。
 米国、欧、日、露、加による国際科学研究プロジェクトである国際宇宙ステ-ション計画については、責任分担の面においては米国が極めて大きな役割を果たしている。つまり、所要資金の大部分を米国が負担しているとともに、技術面での貢献についても、米国以外の国は自己の担当するモジュ-ルや一部の機器、装置の開発といった部分的な貢献にとどまっている一方、米国は宇宙ステ-ション全体の技術的コンセプトやシステム開発などの部分で大きな役割を果たしている。また、プロジェクトマネ-ジメントの面について言えば、米国は全体的な計画立案や調整、運営・調達の調整、各国開発分も含む全体のシステム統合といった部分でリ-ダ-シップを発揮している。また、これは責任分担というものではないが、国際宇宙ステ-ションの利用権、搭乗機会の割り当てや国際宇宙ステ-ション上における資源配分の割り当てについては、基盤要素から得られる資源の提供の度合に応じて決められており、これらの資源を最も多く提供する米国が最も大きなシェアを占めている
 他方、国際機関であるCERNについては、欧州加盟国約20ヶ国に日、米国等がオブザ-バ-の資格で参加するという形態をとっているが、欧州加盟国内における責任分担については、均等貢献の原則あるいは国力に見合った貢献の原則といったものに則って決められているように見える。CERN加盟国の資金分担については、各国の国家収入に比例して行うこととなっており、最も貢献の大きい独でも、その分担割合は20%強であり、国際宇宙ステ-ション計画における米国との比較において相当低いものとなっている。また、CERNの科学研究の面やプロジェクトマネ-ジメントの面については、理事会が最高意思決定機関として大きな役割を果たしているが、投票は一国一票方式で行われている。また、具体的な活動については、CERN所長が全権を委任されているが、所長もこのような手続きを採用している理事会により選出されている。
 また、仏国の国内法に基づき設立されているESRFについては、約10ヶ国の正式契約メンバ-国に科学パ-トナ-として数カ国が参加するという形態をとっているが、その責任分担のあり様は、基本的にCERNのものと類似している。法人の方針に係る重要事項である人事、財政的事項、科学研究プログラムなどは理事会において決定されるが、理事会は各国3名までの代議員により構成され、投票方式は一人一票で、案件に応じて全会一致、2/3の賛成等となっており、何れかの国が突出した形で大きな責任を分担しているということはない。但し、資金分担については、概ねCERNにおける形態と類似しているものの、ホスト国である仏国の負担が若干高めに設定されており、加えて、仏国は土地、建物の提供や他国の子弟の教育などについて、いわば上乗せ的な責任を分担していることが注目される。また、欧州の核融合分野における国際協力プロジェクトである欧州共同ト-ラス(JET)においても、その受け入れ国である英国は上乗せして資金提供を行っている。
 このように、現実の国際協力による科学研究プロジェクトの責任分担のあり様を概観してみると、一極集中型のものに絞ってみても、一国が殆どの責任を負っているものから、平等原則に則った形や国力に応じた形で責任の分担が行われているものまで大きな幅があることが分かる。
 しかしながら、国際宇宙ステ-ション計画については、そもそも、米国がその推進に強い熱意をもって提唱し、他国がこれに参加するという形で開始されたという経緯があったことにまず留意する必要がある。また、安全保障上の理由もあり、東西冷戦時代を通して米ソが宇宙開発に対し、アポロ計画に代表されるように、現在では考えられないような莫大の投資を行い、宇宙開発に関わる研究者や技術者に数多くの技術開発の機会を提供することにより、他国を遙かに凌駕する程の技術力、人的ポテンシャルを蓄積するようになった。一方、露については、米国と競って宇宙開発に力を注ぎ、相当の技術水準に到達したものの、事実上冷戦に敗北し、もはや宇宙開発に莫大な投資を行う余裕が国家経済的になくなってしまった。このような歴史的な経緯もあり、実態的に米国が、技術面でも野心的であり、そして大きな投資を伴う大型宇宙開発プロジェクトである国際宇宙ステ-ション計画を提唱するとともに、資金面、技術面、プロジェクトマネ-ジメントなどの面でリ-ダ-シップを発揮できる唯一の国となった、という特殊な事情があることも確かであろう。また、予算的にも東西冷戦時代に拡大したベ-スがあり、冷戦終結後も宇宙開発予算の重点のシフトなどにより、財政的に厳しい中ではあったが、これに対応することができた、といった事情もあったのかもしれない。さらに、米国には露との科学・技術分野での大規模な協力を、冷戦終結の象徴としたいという政治的意図もあったのではないかと推測される。
 従って、ある国が何らかの理由により、突出してその推進に強いインセンティブを有するような国際科学研究プロジェクト、また、ある国が安全保障上の要請など特殊な事情により、国家の存亡と威信をかけて投資を行ってきたような分野における国際科学研究プロジェクトなどは別として、特に多くの国、幅広い研究者が関心を有するものであり、また民生利用しか有り得ないような国際科学研究プロジェクトについては、CERNやESRFのような態様が責任分担のあり様としては一般的であると考えられる。
 ここで、ESRFのケ-スでは、前述のとおり、ホスト国である仏国が特別拠出を行うなど資金分担の面やその他の支援活動の面において、上乗せ的な負担をしていることが注目されるが、このようなことを踏まえて、一極集中型の国際科学研究プロジェクトにおいて、ホスト国と非ホスト国の責任分担の在り方は如何にあるべきかを考えることは、極めて重要ではないかと考える。
 このような問題を考える上においては、OECD/CSTP(経済協力開発機構・科学技術政策委員会)メガサイエンスフォーラムにおける議論が参考となろう。CSTPにおいては、メガサイエンスに係る種々の問題について幅広い議論が行われており、国際科学施設受け入れの影響についても分析がなされている。
 詳細な引用は省略するが、CSTPでは、まず、このような施設を自国に受け入れることによって、その国はどのような利益を享受し、また不利益を被るのかを分析し、これを以下のように整理している。

 

受け入れの利益と不利益

要素予想される利益予想される不利益
政治・威信
・管理支配力
・撤退が難しくなる
経済・消費、税効果
・地域開発
・移動交通コストの低下
・受け入れ国プレミアム
・インフラの構築
・終了/閉鎖コスト
産業・地域産業の受注
・産業界の技術向上
・技術スピンオフ
・他の経済活動の移転
科学・COEの創出
・アクセスの容易さ
・クリティカルマスの恩恵
・国内プログラムの機会が犠牲になる
環境と
技能
・管理運営と保守の要員への地域の人材の登用
・国内科学要員の比率が高くなる
・頭脳流出を防ぐ
・訓練(博士号、技術者、エンジニア)
・給与格差の可能性
・雇用の機会が犠牲になる
・施設閉鎖後の技能/専門知識の余剰
文化・国際教育
・科学教育/国民の理解
 
環境・持続的開発/緑化方針・緑地の破壊
・核の懸念
 出典:メガサイエンス政策の課題(OECD、1995)

 CSTPの指摘している論点を単純化していえば、このように施設を自国に受け入れることによって生じる利益と不利益を評価し、均衡させるようなメカニズムの構築に注意を払うべきであるということである。
 ここで、このような指摘が国際科学研究協力の責任分担のあり方を考えるにあたって、如何なる示唆を与えているかを考えてみる。上表において、責任の分担方法となると考えられるものとしては、管理支配力、受け入れ国プレミアム、インフラの構築がある。直ちに分かることは、施設の受け入れ国が果たす責任分担については、それが受け入れ国の利益となるものもあれば、不利益となるものもあるということである。
 また、責任の分担方法はこれらに限られるものではなく、受け入れ国でしか行い得ないプロジェクトの円滑な推進に必要な様々のサ-ビスの提供も含まれ得る。ある特定の国において、大型施設の建設を伴う国際科学研究プロジェクトを行う場合、そのプロジェクトの実施主体が国際機関であっても、受け入れ国の国内法に基づいて設立される法人であっても、種々の規制機関や施設周辺の住民との関係が不可避的に生じることとなり、その際には、適切な助言が必要となろう。また、他国からの研究者や技術者、そしてその家族などが生活していく上において、教育や福利厚生など様々な分野においてきめ細やかなケアが必要とされるものと考える。このような機能については、当然のことながら、施設を受け入れる国しか提供し得ないものであり、まさに、施設を受け入れる国が義務を果たすことを期待されているものである。
 国際科学研究協力における責任の分担については、利益や不利益の中において扱われることとなる要素の一部という側面があり、他の数多くの利益や不利益と関係するものである。しかしながら、これら様々な利益や不利益の関係の中で、責任分担の手段とされるもの同士の相関が相対的に強いとするのも一つの合理的な考え方といえよう。つまり、各国は責任分担のように国同士の利益のぶつかり合いとなる国際場裏における協議の場で決まる要素の大きい責任分担については、比較的流動的なものとして認識し、それ以外の利益や不利益については、その程度についての定量的な把握は困難としても、比較的固定的なものとして捉える傾向があるという考え方もあり得るのではないか。この場合、例えば、上表で「受け入れ国プレミアム」とされている資金分担の上乗せ部分が相当額に及ぶのであれば、その分「管理支配力」を要求するようになるのは、ごく自然な発想のように思われる。実際、ESRFのケ-スでは、投票について従来の一国一票方式を修正し、意思決定に資金的貢献がより反映される方法に変更をおこなったといった経緯があり、CSTPもこれをメガサイエンス組織の参加大国が負う巨額の財政負担を尊重する賢明なアプロ-チであると評価している。
 現実には問題は更に複雑であり、仮に各国が国際協議に委ねられることのないような利益や不利益を比較的固定的なものと捉えていたとしても、そのような利益や不利益の多くは、前述のように、定量的に計ることが相当難かしく、また、その価値判断において多分に主観の介在する余地がある。各国が意識しつつ、あるいは意識せずに、異なった利益や不利益についてのイメ-ジをもちながら一つの形に集約していくという過程を経ることとなるので、仮に受け入れ国とその他の国との見解が近いものであっても、最終的な姿を正確に予見することは困難である。
 次に、分散型の国際科学研究プロジェクトにおける国際協力の責任分担のあり様について、若干の考察を加えてみる。分散型の国際科学研究プロジェクトとしては、ゲノムや地球変動の分野における国際科学研究協力などが代表的な例として挙げられよう。これらについて言えることは、資金的には少なからぬ規模が要求されるものの、一極集中型のいわゆるプロジェクトものとは違い、プロジェクトの工程表に各国が深く組み込まれ、最終目標に向かって一直線に進むことを求められる度合いが相対的に低いということである。つまり、各国ともそれぞれの国の社会、経済をはじめとする環境の変化、関心の度合いの変化、財政上の理由などにより貢献できる度合いが多少の影響を受けたとしても、一極集中型の国際科学研究プロジェクトにおけるような大きな影響が研究の進捗に生じることはない。もちろん、国際協力の相手国に迷惑をかけるということが無いわけではないが、上記のような研究そのものの性格上も、分散型の国際科学研究協力においては、参加国が貢献しなければならない資金分担の問題が一極集中型のもののように大きな問題として議論になることは殆どなく、ましてや、各国の資金分担の割合を国際約束によって拘束するといったこともあまりみられない。
 この意味するところを考えてみると、分散型の国際科学研究協力については、これに関心を有する国が、その時々の社会的、経済的な環境、財政的な理由、関心の度合いなどに応じ、可能な範囲での資金的貢献をしていくということになろう。また、プロジェクトマネ-ジメントの面についても、一極集中型の国際科学・技術協力プロジェクトのそれは、施設のサイトに責任者が常駐し、日常的に管理監督に関する活動を行うという形であるのに対し、分散型のものは、基本的に各々の国内において活動が行われ、デ-タベ-スを構築したり、ネットワ-クを通じて情報の流通を図っていくという形をとっており、種々の調整や進行管理については、必要に応じて適宜行えばこと足りるというのが一般的である。また、調整や進行管理の責任を担う者も、一極集中型の国際協力プロジェクトの場合は、一部の者が相当強力なリ-ダ-シップを発揮するケ-スが多いのに対し、分散型のものの場合は、関係国がそれぞれ一定の役割を果たすという形態をとっている場合が多いと考えられる。さらに、当然のことながら、分散型の国際科学研究プロジェクトの場合は、前述のような一極集中型における受け入れ国が不可避的に果たさなければならないような責任はない。
 従って、国際科学研究プロジェクトで責任分担の在り方が大きなイシュ-となるのは、主に一極集中型のものであるケ-スが多いのではないかと考える。また、そのようなプロジェクトについての責任分担については、これまでの論点を総括すれば、施設の受け入れ国が享受する利益や不利益の評価の中で扱われる側面があるとともに、国際場裏において妥協の産物として決まる部分もあり、前述のように、過去のプロジェクトの事例やプロジェクト毎の固有の事情などから、ある程度の考察しか行うことは困難であろう。
 そうはいっても、国際科学研究プロジェクトについて、あるべき責任分担の態様を追求する努力は放棄すべきではなく、可能な限り詳細な分析が求められる。例えば、利益や不利益の分析においては、経済波及効果のように、場合によっては定量化できる可能性のあるものもあれば、国の威信の向上や国民の科学・技術に対する理解の深まりといったような定量化が殆ど不可能なものもある。当然のことながら、全利益や全不利益となると定量化は不可能となるが、それでも、定量化できる可能性があると思われるものについては、そのための努力を払い、殆ど定量化が不可能と思われるものについても、その正の価値、負の価値の程度を知るために、定性的なものとなったとしても、真剣な評価が行われるべきではないかと考える。また、利益・不利益の分析との関係において、施設の受け入れ国の資金を上乗せして提供する度合い、インフラ整備、プロジェクトマネ-ジメントにおけるリ-ダ-シップ、受け入れ国が提供できる固有のサ-ビス等を如何に組み合わせて行うのかといったことについて、プロジェクトの持つ性格や各国の科学研究ポテンシャル、国情、受け入れ地の状況など様々な要因を踏まえつつ検討すべきである。
 また、国際協力の責任分担の中には、このような利益・不利益のみでは測りきれない重要なものもあることも指摘しておきたい。例えば、人類共通の課題である地球温暖化問題の解決のための国際科学研究協力を考えてみよう。この国際科学研究協力が成功した場合に得られる利益としては、温暖化により水没するかもしれない地域の人々の生活の安全を確保すること、温暖化やこれに伴う気候変動による農作物の収穫減を防止し、世界の食糧の安定的供給を担保すること、温暖化により生態系のバランスが崩れることを防ぐこと等があり、これらの恩恵は人類全体が享受することとなる。このような国際科学研究協力にについては、仮に我が国が参加するものであった場合でも、その成果は我が国のみならず、人類全体が享受することとなるという意味において、必ずしも我が国の狭い意味での利益や不利益といったもので一律に整理できるものではなく、我が国が科学・技術の先進国として、その地位に相応しい責任を果たしていくという、いわば倫理的な動機も働く余地があるし、そうあって欲しいと思う。

 最後に、国際科学研究プロジェクトにおける責任分担について、国際熱核融合実験炉(ITER)を一つのモデルケ-スとして考えてみることとする。前述のCSTPの報告書を踏まえ、ITERについての受け入れ国の利益と不利益の整理を試みると、概ね次表のような形になると考える。

ITER計画におけるホスト国の利益/不利益

種 別利 益不利益
科学・技術
政策面
○特定科学・技術分野での中核的役割
(米国:宇宙ステーション
 EU:LHC)
○国際共同事業の主導
・世界的COE(Center of Excellence)
 catch-upからの脱却
・共同事業実施の修得
・地球環境保全の推進者
○国際的な頭脳流入
○頭脳流出を防ぐ
○情報ネットワークの中核基地
○「核融合は日本」なる科学・技術史的意義
○科学教育/国民の理解
○撤退が難しくなる
○科学者、技術者の給与格差の可能性
○施設閉鎖後の技能/専門知識の余剰
○国民の受容性の変動により、事業に支障を来した場合、国際的な信用の低下を招く
核融合開発○ITERの事業運営を主導
・国内研究者の参加機会の拡大、人材・育成研究基盤の拡大
・核融合エネルギーの自主開発基盤の涵養
○核融合安全設計思想を主導
・日本の安全文化に立脚した安全設計思想が将来の核融合炉の基本的方向を主導
○アクセスの容易さ
・廃棄物の措置責任
エネルギー・
環境面
○環境負荷が小さく、高い固有安全を有する長期的エネルギー資源の確保
○持続的開発/緑化方針
○人類としての保険を日本が主導
○放射線処理の問題
経済面○国内発注による経済効果
・特に運転期の発注はホスト国が主体
○雇用の拡大
○移動交通コストの低下
・より大きなコスト負担
・サイト整備の負担
産業面○先端技術のスピンオフ・技術移転
○産業技術の振興
・継続的発注による技術伝承と自主開発の技術基盤
○他の経済活動の移転
文化面○国際交流の機会促進
・地域住民との日常的文化交流
・外国人による日本文化の紹介
 
 このように整理すると、ITERのホスト国が享受する利益は極めて大きいようにも思える。しかし、それは上表における「より大きなコスト負担」や「サイト整備の負担」の規模や「国際共同事業の主導」の度合いなどの各種要件を十分吟味しなければ、一概にはいえないものである。
 ITERの建設費は当初計画の約半分とされているものの、それでも本体建設費で総額4千数百億円、その他の付帯経費等を含めると総額5千億円規模の投資を伴うものであり、この巨額の投資が正当化されるのかといった問題がしばしば提起される。
 本年1月にITER特別作業部会が纏めた報告書をみると、ITER建設に係るホスト極は非ホスト極より多くの負担をするという方向で議論が行われていたことが伺えるが、今後、具体的な負担額についての議論がなされる段階においては、我が国の負担について、これが高いか安いかリ-ズナブルなものかということが問題となる。これについては、前述の通り、国際共同事業を主導する責任など、他の責任との関係が極めて深いのかもしれないが、こういったものを含め、受け入れることに伴う種々の利益と不利益との関係においてさらに深い議論が行われることとなろう。また、利益や不利益という尺度では測ることのできない、将来の人類の安全保障への貢献といった倫理的な観点からの動機も無視し得ない要素と考える。
 この価値判断は、最終的にはいわゆる政策判断によりなされるものと考えるが、今後、具体的な負担額に関する議論に備え、上表に整理したようなメリット、デメリットについての分析を更に詳細化した形で行っていくことが求められる。そのような意味においては、定量化が殆ど不可能と考えられる、我が国の超長期エネルギ-需給見通しや代替エネルギ-のフィ-ジビリティスタディといったエネルギー政策上の価値、そして、一般国民の理解・認識の向上や、様々な科学的、技術的な面における経験の蓄積などについて分析が行われているようであり、このような取り組みは評価されるべきものである。
 繰り返しになる部分もあるが、ITER計画については、これが国民全体という見地からの安全保障という、国民の最も根元的な要求に応えるものである。また、これまで我が国が欧米諸国に対して負っている過去の負債を返済するといったことにとどまらず、より積極的に、世界経済社会の持続的な発展に積極的な貢献を果たすとともに、将来世代の人類の福祉の向上に寄与することができるという大きな可能性を持ったプロジェクトであり、我が国国民の世代を超えた倫理的な精神を発現する場を提供するプロジェクトでもあると理解することもできる。
 我が国への誘致の是非を判断するためには、研究の資源配分や、国際協力の責任分担の観点のみならず、核融合が長期エネルギ-需給を考えた場合に将来において存在価値があるのか、そもそも核融合エネルギ-は技術的に実現可能かなど、様々な観点からの検討が必要があり、このような検討を行わなかった私共としては、誘致の是非について意見を申し述べることは差し控えたい。
 ITER計画懇談会におかれては、このような点を含めて議論を尽くして頂き、ITERの我が国への誘致に関する問題について、適切な御判断をなされることを期待する。





研究の資源配分と国際協力の責任分担に関する検討委員会

 

構成員(平成11年7月現在)

  池上 徹彦  会津大学副学長・教授
  岸  輝彦  工業技術院産業融合領域研究所長兼東京大学教授
  竹内  啓  明治学院大学国際学部長
  中島 尚正  東京大学工学部長
座長 村上陽一郎  国際基督教大学教授
  吉田 民人  中央大学文学部社会学科教授

 

開催日

   第1回  平成11年 7月 9日
   第2回  平成11年 8月 5日
   第3回  平成11年 9月20日
   第4回  平成11年10月29日
   第5回  平成11年11月30日
   第6回  平成12年 2月 4日