(第3回動燃改革検討委員会資料)

平成9年6月6日



動燃改革の基本認識
(動燃改革検討委員会座長試案)


吉川 弘之



まえがき

 動燃改革検討委員会(以下本委員会)の目的は、動燃に与えられた使命を達成するための最適組織を提案することにある。その場合、動燃に与えられた使命そのものの改変は、本委員会の目的に含まれない。しかし、含まれはしないが、その使命を絶対不変の前提条件として検討を進めるわけではないことを注意しておく。それは、最適組織提案の過程で、現在の状況、すなわち技術的能力、経済的条件、社会的状況などに関して、我が国が現在置かれている状況は、避けることのできない強い条件であり、そのもとで、どんな組織をもってしても動燃に与えられた使命が達成できないことになれば、自ずと論理的帰結として、使命そのものの改変を提案せざるを得ない、という意味である。すなわち検討の論理的帰結としてはあり得るが、使命について論じることを課題とはしない、という立場をとる。
 本委員会においては、今回の事故を通じて何が明らかにされたのかを認識し、その認識に従って動燃固有の問題を検討し、それを解決するものとしての組織を提案し、その提案を現実化するための問題群を指摘、分析する。


1.認識の視点

 今回の問題は、平成7年12月8日の「もんじゅ」の事故及び平成9年3月11日のアスファルト固化処理施設の事故に関するものであるが、事故そのものの重大さに加え、事故の原因の中に看過し得ない深刻な問題が潜在していることが、事故の性質および事故処理において見られた諸問題を通じて明らかになって来たという重大な事実があり、この両者が問題の大きさを示している。
 従って問題対処には二つの方向がある。第一は再び事故を起こさぬために緊急に対策を立てることである。そして第二は、事故の原因を本質的に除去することである。両者は本来同じ問題の二つの面であるが、現実の対策としては異なる内容を持つ。ここでは、第二の事故原因の除去を中心として論じるが、第一の問題についても具体的な改革案において言及する予定である。


2.我が国と原子力

 動燃に与えられた使命は、将来のエネルギー源として新しい原子力エネルギー技術を開発することにある。将来のエネルギーとは、資源枯渇、地球環境劣化等の、既に人類が遭遇し、今後数十年の間に悪化が更に進むことの予測がある中で、その悪化を阻止するための一つの可能な選択肢としてのエネルギーという意味である。
 この立場で「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」(原子力委員会)は書かれており、最初の1956年の長期計画の発表以後数年毎に改定されつつ、現在の1994年版に到るまで、この立場は一貫している。そこには、日本のように、高度な技術に支えられた高い生活水準を達成しながら、一方でそれを作動させるためのエネルギー資源を決定的に欠く、という特徴的な問題を持つ国が保有する高度な技術を用いて将来のエネルギーを開発することの必然性が主張されている。
 この立場が、数十年に亘って認められてきたことは、我が国の国民がその方針を支持していることを意味するのであり、その開発の主役として、動燃は国民の付託を受けているのである。
 この付託の意味をより深く認識しておくことが必要である。そのためにエネルギー問題が日本国内に止まるものでなく、世界全体の問題であることを考える必要がある。まず、世界においても、原子力は可能な選択肢として認知されていると言ってよいであろう。すなわち、世界におけるエネルギー確保は、人類生存のための必要事項であり、その一つの可能性を持つものとして原子力が位置付けられている。その結果、新しい原子力技術の開発とは、人類のエネルギー安全保障、というよりは我々の未来、およびこれから生まれて来る人類のための保険、という意味をもつことになる。ところが、どんな未来技術も成功率100%、すなわちリスクゼロということは論理的に言えないのであるから、保険の安全性を高めるには複数の未来技術の開発計画(オプション)を人類全体としては持つべきであり、それは既に検討されていると言ってよい。
 その中で、何故日本が原子力を人類の複数のオプションの中から選んで担当するのかという点を明確にしておくことが必要である。我が国には、優れた原子物理学研究者が多数おり、高度経済成長を支えた高度な産業技術が蓄積され、プラント安全技術に十分な歴史を持ち、社会的セキュリティが高いなどの利点がある。そしてまた、我が国はエネルギー源をほとんど持たないが故に、人類のためと同時に日本の国としてもエネルギー安全保障を必要としているという事情がある。すなわち、原子力エネルギー開発に必要な条件の多くを満たすと共に、その意義が日本にとって極めて大きく、同時にそれが人類の目的とも調和するところに、人類のオプションとしての新しい原子力開発を我が国が分担することの必然性があるのである。


3.動燃への付託

 このように、我が国にとってのエネルギー安全保障であると同時に、より広く世界の人類にとって、特に未来の人々にとっての保険の意味を持つが故に国際貢献にもなると考えることによって、原子力長期計画を理解することができる。そしてこのことが、動燃に対する付託の内容を決定するものなのである。
 動燃に与えられた、国民の付託としての使命は、従って未来の原子力エネルギー技術の開発を国から受注したことに止まるものではない。前述のように、優れた原子物理学研究者の存在は教育と基礎研究の歴史的帰結であり、戦後の産業技術の高度化も、工学技術系の教育と、産業における生産性向上の成果であり、そしてまた安全技術も数々の経験を経て確立した貴重な技術的資産なのである。そしてもちろん、社会的セキュリティも、全ての人々に配慮する我が国の社会的風習を背景として生み出された、またと得難い社会的資産である。そして、これらの存在があればこそ、世界のエネルギー開発のオプションとしての新しい原子力開発を選択することの必然性があったのであり、いわば現在に到る我が国の努力の積重ねの上に可能になるという意味で、日本人のアイデンティティを表現し得るものとして人々の大きな期待が込められた付託であったと言える。しかも、当時の風潮から当然推定されることであるが、期待の力点は世界に負けない自主技術の開発という点にあったのであり、それはエネルギー安全保障であることを超えて、日本のアイデンティティ確立の意味を持つものであった。
 このように、明日の人類に視点を定めた国際貢献と日本のエネルギー安全保障とを目標としながら、日本が誇り得る人材、技術、経済等の資源を投入して新しい原子力技術を、自主技術として確立すること、それが日本が一流国になるための一つの道であることを信じながら、動燃は設立された。これが、いわば動燃の初心であると言ってよいであろう。
 以下に述べるように、現在における動燃の問題は、動燃を取巻く状勢の変化が原因であって、動燃自身の変質によるのではない。従って初心に帰ればよい、というような指摘は解決にならない。むしろ、初心からの離脱が必要なことなのであり、そのためには多くの要因についての検討が必要である。


4.動燃の出発における潜在的困難

 人々の付託を受けて、1967年に設立された動燃は、新型の炉の開発と燃料サイクルの実現に向けて出発する。そして我が国の産業の進展と歩調を合わせながら、基礎研究、開発そして実用化を同時に進行させるのである。これは多くの産業部門と同じく、欧米の諸研究、技術を学習し導入しつつ行われたものであって、研究や開発にめざましいものがあったが、その出発は外来のものに頼っていた。
 しかし、動燃の目標は高速増殖炉、核燃料サイクルなどに関わる自主技術の開発である。1967年当時は、あらゆる産業において、我が国の要素技術、システム技術ともに世界一流とは言えなかった。それを少なくとも同等のものとすることによって、すべてを日本製で作ること、それが自主技術と呼ばれるものである。すなわち動燃には、基礎研究、開発、実用化という性格を異にする業務を、炉と燃料という、これも領域を異にする対象を相手に行なう。そして目標は、技術の国産化であったと言えるであろう。
 このことは、動燃が設立当初から困難な問題を潜在させていたことを意味する。すなわち、第一に基礎研究、開発、実用化の段階を直列に配置した構造を持つが、この三者は思考様式も作業形態も違い、成果の評価基準も全く異なる。このような異種の空間を統合することについての困難さである。
 第二は、炉建設と燃料製造という、背景学問、要素技術、手法などの全く異なる領域を並存した組織になっていることである。これらの領域間には、共通言語が必ずしもなく、ここには、その方法を改めて固有のものとして創出しなければならぬ困難さがある。
 この結果、発展段階と領域との両面における異種性により、二次元的に異種の性格を持つ作業空間が動燃組織の中に混在することとなった。しかも目標は核燃料サイクルという閉じた製品を作る自主技術を開発することである。ここでは、これら異種空間を統合する方法論が本質的に必要なはずだった。
 しかし、その必要性は顕在化せぬままに、各空間は独自の展開を遂げていく。そのとき統合の方法を持たぬままに、相互に矛盾が生じなかったのは、欧米に先駆的経験が存在したからである。要素技術の進展の方向を見失ったとき、本来ならばそれを再発見するのは技術間の均衡である。しかし、追従者の場合、その均衡に配慮するよりも先駆者の成功例を取り込む方が容易に確実な結果が得られる。それ自体を決して責める必要はない。しかし、そこでは全体を通して均衡を計画する視点はなく、従ってその方法は育たない。


5.状況の変化と顕在化する困難

 動燃設置後現在に到る30年間に、動燃をとりまく情勢には多くの変化があった。その変化の中に、潜在する困難さを顕在させるものがあった。それを以下に述べよう。

(1)先駆者の消失
 最も劇的な変化は、軽水炉を超える原子力(核分裂)技術開発において、それまで先導的であった諸国が相次いで撤退したことである。その結果、我が国は学ぶべき先駆的成果のない分野で研究開発を行うこととなった。残った国はフランスと日本だけである。
 このことは多面的な影響をももたらす。第一は前述した国の力を挙げての人類への国際貢献という意義が、ますます大きいものになったという点である。
 しかし、一方、二国だけが競争状態にあるというのは技術開発という観点から見て正常とは言えない。これを是正する新しい提案が必要である。
 第三が、先駆者もおらず、競争者も一国だけという状況下での研究開発は、我が国にとってほとんど初めて、特にこのような巨大プロジェクトでは経験がないという点で、これは動燃の出発時から見て、本質的な変化である。このとき前節に述べた潜在的問題が顕在化する。すなわち研究、開発、実用化という流れは、他に学ぶものがない以上、相互に学ぶ有機的な連携関係を構成し、自律的システムとして統合するべきである。しかし、事実はそうなっておらず、ここに非能率を生じるばかりでなく、各部が展開の方向を見失い、組織としての一体性を低下させることになる。

(2)経済のグローバリゼーション
 東西の対立の解消と連動して、それ以前に始まった経済の地球化はさらに進行して行く。その結果、技術の地球化も起こる。これは経済、技術、企業において国境の存在が希薄になったことを意味している。このような中で、自主技術の意味が大幅な変更を迫られるのは当然である。
 動燃の設立時、1967年においては、前述したように世界クラスの技術を持つことは我が国にとって夢であり、しかも保護貿易を容認する世界的雰囲気の中で、コストを気にせず自主技術を育て、その後に世界に打って出るのは一つの現実的な道であった。
 しかし今、地球化の状況で、保護貿易などはあり得ず、メガコンペティションと言われる中で、あらゆる技術は競争力を持ってはじめて現実的存在となる状況が到来した。このことは、エネルギー技術でも例外ではあり得ない。
 もちろん、新しい原子力技術は、現時点での競争力のみによって選択されるべきでなく、未来の人類のための保険という意味を持つことは前述した通りであり、このことは現在も正しい。しかし、現在、保険だからといってコストを無視してよいことにはならないという新しい状況がある。それは保険が真の保険であり得るためには、目標として競争力が重要な条件なのであり、これは研究、開発、実用化を通じて非常に大きい要件である。
 すなわち今、設立当初の自主技術は、競争力のある技術と言い換えるべきであるが、その観点から見て現在の動燃の事業は不十分であると言わざるを得ない。

(3)急速な技術進歩
 原子力が核分裂という固有の現象によってのみ実現可能であることは、今も昔も変わりがない。しかし、それが現実的な技術として利用されるのは、他の無数の技術が総合されたシステムとして核分裂を実現したときである。この30年間に、このような意味での広い技術の進歩には大きいものがあった。それは構造材料、制御技術、測定技術、自動化技術などの要素技術であり、また、シミュレーション技術、設計技術、製造技術、管理技術そして安全技術などの総合技術である。そしてまた、これらの技術の背後にある理論的発展も極めて大きいものがある。
 これらは、厳しい市場競争や、失敗の経験や試行錯誤など、また異分野の協調や融合などによって、激しく変動しながら進歩している。そしてこれらを可能にしているのは、外界に開かれた研究開発の基本的態度である。
 この結果、動燃設立時に投入した技術的資産は急速に陳腐化したのである。原子力の特殊性、すなわち核不拡散条約による秘密性要求や、事故に対する社会の敏感な反応などがあったことは認めるにしても、それ以上に当初の先進性の意識からの脱却が不十分なまま、動燃が広く産業技術の進歩とその接触を怠ってきたことは否めないであろう。


6.問題の構造

 前述の分析により、現在の動燃は事業体として次のような課題を持っていることが理解される。それは、
 ・先例のない研究開発
 ・原子力であるが故の高い安全性
 ・競争力ある技術の供給
の三者の同時的実現である。これは決して容易なことではなく、この実現こそ前例のない課題である。この課題の困難さは、上記三者が、基本意識、方法などを異にする点にある。例えば、容易に理解されるように、先例のない研究開発では失敗をおそれない勇敢な精神が不可欠であり、安全性では失敗を最小化する細心さが必要であり、競争力では全体的俯瞰による妥協というようなそれぞれ異なる精神構造を必要とする。しかも、それぞれの技術対象が、各段階を常時動いていくのであって、状況は非定常である。
 現実に、濃縮、高速増殖炉、再処理、廃棄物処理などの核燃料サイクルの要素は、常時基礎研究から実用化までを移動している。このように、設立時から急速に変わる環境に置かれつつ、多様な意識や方法で推進すべき異なる領域の技術が、相互に深い関係を持つシステムとして統合する作業が動燃の行うべき作業、ということになる。
 結論的に言って、動燃は二つの面で失敗している。それは、
 ・事故の防止と措置の失敗
 ・コスト高のために技術を売れなかった
の二つである。そしてこの二者は、前節に述べた状況の変化に的確に対応しなかったことによる失敗であると位置付けられる。その内容は次章以下で述べられるが、ここではそれが何故できなかったかを問題とする。
 状況への対応とは、仕事内容の変化に伴う組織及び課題の変更、世界情勢の変化に伴う経済性追求への移動、安全技術等に関する産業界の進歩の開かれた導入などである。これが、何故できなかったか。それは一口に言えば、それを行う視点が存在しなかったから、と言うことになる。それは経営の不在である。
 ここで特記しておくべきことは、日本の多くの組織で、この経営の不在現象が起こっていることである。国の行政組織、大学、そして企業にすらみられる現象である。これは、組織の構成員は十分に組織のために働く意識と意欲を持っているが、しかし視点は自分の置かれた位置における仕事に限定される。全体を俯瞰する視点を名目的な経営者が持つが、しかし組織全体を動かしているのは構成員の行動の総和である。すなわち、組織全体の行動決定者は特定できず、従って真の責任は不明となる。この状況は、組織としての行動の裁量権者と責任者が不明、あるいはずれているという現象である。
 実はこのような状況は、目標が外に見えるものとして与えられているとき、極めて効率的に作動する装置となり得る。我が国の経済高度成長を成功させたのはこの装置であり、全員参加の集団主義と言われるものはその代表であろう。
 しかし、この装置は、日本のあらゆる部分で破綻を来している。それは、外に見える目標がなくなったからであり、そこに独自の整合的な計画が立てられなければならぬ状況が現出したからである。このように整合的な目標の設定を、それぞれ固有の、組織の中で部分をなす構成員の視点によっては、たとえ総和を求めたとしても実現することはできない。この本質的不可能性は日本病とでも呼ぶべき状況である。
 動燃の問題の本質が、ここに存在することが理解される。すなわち、変化に適応すべき計画を立てる俯瞰的な目を持つ経営者が、動燃において存在しなかったか、あるいは存在しても、十分な裁量を持って行動することが不可能であったということである。これは、日本全体が高度成長を通じて効率的に作動した装置を捨てることができないでいるという中で、動燃もまた例外でなかったことを意味している。言い換えれば、動燃の問題が解決できないとすれば、日本の将来は無いという問題の構造がここにある。