*本資料は、平成10~11年度原子力政策円卓会議での意見について、原子力政策円卓会事務局で適宜集約し、整理したものである。

1.原子力とエネルギーの選択肢

1-1 エネルギーの選択肢

エネルギー源の多様化は必要である。ただしその多様化したエネルギー源の中に原子力エネルギーを含めるのかどうかと言う議論には賛否両論がある。
「原子力ありき」から始まるのではなく、「原子力がなぜあるのか。なぜ原子力か。」という原点に立ち戻ることが重要である。
原子力政策はエネルギー政策のみならず,温暖化対策等の環境政策、化石燃料消費の抑制問題等も組み合わせて総合的に判断されるべきである。
日本のエネルギー問題を考えるときに使われる「ベストミックス」についてもどういう状態を指すのか議論する必要がある。経済性、自然界との物質収支、資源論(量、偏在)等と、様々な観点があり、どのような観点で見てベストなのか、その評価軸をつくる研究が必要である。
エネルギーの評価軸の一つとして、エネルギー自給率を考えるべきである。産油国との交渉の場でも、自給率を高めておけば交渉を有利に進められる。その意味で原子力は不可欠なもの。
30数%程度の電力量割合は、原子力発電以外で十分代替できる数値。具体的には風力発電、太陽光発電等の開発を進めつつ、環境税の導入による省エネを図り、これらを前提とし、残りは化石燃料で賄える。
新エネルギーだけでなく、エネルギー転換効率の向上も重要。火力発電の効率を50%に上げると、その増分は2010年には677億kWhに匹敵する。火力と原子力で効率を10%上げると、原子力発電所34基分になり、原子力発電所の増設を抑制する。
自然エネルギー、核融合は半永久的なエネルギーであるが、核分裂も海水ウランを使うと「100万年のエネルギー」となる。
新しいエネルギーが開発されることを期待する。原子力の例からわかるように、新しいエネルギーがエネルギー供給をになうまでには30年から50年の時間がかかると想定されるが、これを踏まえた上で、新たなエネルギーの開発に努めていきたい。
石油価格の低落、規制緩和により化石燃料依存度が高まりつつある。原子力に対する根強い不安感が、原子力に対するモラトリアムを生み出しているが、エネルギー問題への対応はモラトリアムになってはならない。
エネルギー問題は安定供給と環境問題の2つの観点から長期的な視点を持って対応することが必要である。また、途上国および将来世代に対するエネルギー政策の議論が必要である。
関西産業界では、エネルギー使用の効率化やリサイクルに努めているが、エネルギー消費量は増加する見通しであり、新たな電源は不可欠である。
第三次石油ショックが起きれば、日本が如何にエネルギーを確保するかを本気で考える機会となる。
政府の2010年までの見通しでは、2%の経済成長、原子力モラトリアムを前提とすれば、2.7%の省エネルギーが必要とされている。年間2.7%の省エネルギーというのは、世界で最も省エネルギー化が進んだ石油危機直後の日本の省エネルギー率を越える値であり、このような省エネルギー化を進めるのは困難である。
政府見通しの前提である経済成長2%という値については、以下のような議論がある。
 ・需要横這いの前提に基づくものである。
 ・成長率が低いと、失業年金の問題が出てくる。
 ・経済成長とエネルギー消費の伸びは同値ではく、経済とエネルギーのあり方の議論が必要  である。
省エネルギーについては以下の意見がある。
 ・原子力モラトリアムを前提とすれば、2.7%の省エネルギーが必要とされているが、このよう  な省エネルギー化を進めるのは困難である。
 ・日本の若者は省エネルギーに無関心な層が多い。
 ・技術開発により、今後大幅な省エネを達成することが可能である。
 ・エネルギー消費の増大を前提としない省エネルギー型の構築を図るべき。
化石燃料消費には制約がある。一方、中国等のアジア諸国が日本並の産業力を有するようになった時、日本がこれまでのように石油が使えるのかという問題もある。将来にわたっての石油の入手可能性についても地元の納得を考慮するべきである。
国際競争が激化している中、低コストで良質なエネルギーの確保は産業界にとって不可欠である。
環境税に関しては多様な方法が考えられる。炭素税に関しては、税徴収対象のシフト、使用方法のシフトにより効果が得られるという意見と、省エネ効果は余り大きくないと言う意見がある。
省エネは施策で実施すべきである。例えば石油価格の下降時にも省エネが進む政策や、NGOのような国民的運動支援など。
原子力発電に対する賛成派も反対派も、エネルギー問題を心配しているという点では一致している。
水道事業法、電気事業法でもピーク時の需要に対応することが求められているが、ピーク時を前提とした設備の整備については、考え直す必要がある。
供給者側によるエネルギー需給計画が信用されない現状を打開するため、需要サイドによるエネルギー需給計画を策定することが有効なのではないか。
個々の問題を議論していけば、非常に細かくなる。総合的な議論をすべきである。


1-2 原子力の位置付け

放射性廃棄物の処理や安全性の問題があるため、原子力には反対である。
原子力が化石燃料の代替にはなり得ず、現在運転中のものは安定的に運転すべきだが、増設拡大はすべきではない。政府のエネルギー需給見通しにおいて、原子力増設を前提としている点が問題である。
エネルギー源の多様化は必要である。ただしその多様化したエネルギー源の中に原子力エネルギーを含めるのかどうかと言う議論には賛否両論がある。原子力発電は、単に原子力のために存在するのではなく、あくまでエネルギー供給手段の選択肢の一つにすぎないと認識することが大切。
原子力の発電量でのシェアは維持すべきであり、エネルギー消費が増えれば増設していくべきである。原子力が地球温暖化に対しても有効であるのは明らかである。
原子力は日本の総電力供給の3分の1を担っており、供給安定性と二酸化炭素の排出量抑制に有効であるといった点から、原子力は長期にわたって我が国の基軸エネルギーであり続けることとなろう。
原子力発電の利用は、次のエネルギーへの過渡的な措置と考えるべきである。
原子力利用の可能性について、原点に立ち戻って議論する必要がある。
原油価格の低減に伴う計画見直しもあっていいのではないか。
プルサーマル計画やMOX、原発20機の増設などの計画は、猶予期間をおいて慎重に検討すべきである。また高速増殖炉は反対署名も集まっており、核不拡散上も問題なので見直すべきである。
原子力を始める時であれば、その是非を議論することも意味があるが、現実に電力の30数%を賄っている現時点では、むしろ安全を確保するためにどうすべきかの議論をすべき。
世界的な潮流から電気事業に関する規制緩和も避けられないと思うが、そのような環境でも原子力が経済的な競争力を持ち得るのか疑問だ。近年、欧州では原子力発電のコストが高いことが判明し、原子力発電所を推進しなくなっている国が増えている。規制緩和で生き残れないのであれば、エネルギーセキュリティー上も間違いだったということになる。
原子力技術は常に未熟との視点に立ち、その成熟を目指す努力が大切である。
原子力の必要性は認めるが、過去の政策体制の反省を行い、どの程度原子力に依存するか検討する必要がある。
原子力に対する反対派の人は、絶対反対なのか、それとも安全面などに関する条件付きで反対なのかを明確にする必要がある。
原子力発電への反対意見の根拠は、放射線に対する拒否反応なのではないか。例えば自然界にも放射線が存在していることや、少量の放射線は人間にとって必ずしも有害ではないということについて、正しい理解を広めなくてはならない。また、これからの原子力は、PA(Public Acceptance)から、PR(Public Requirement)、つまり人々が何を求めているかに対応する段階に入ったのではないか。
既存の世論調査結果(総理府、NHK)によれば、国民の原子力に対する容認率は下がりつつある。
マスコミ各社の世論調査では、事故後も原子力推進及び現状維持の割合は、それほど低下していない。一方、7割近い人達が不安を感じているのも事実であり、不安感が即原子力反対につながる訳でもない。
原子力の安全性については、東海村のアンケートによると、事故前では「安全まあまあ安全」という回答が過半数を占め、いわば「原子力は空気のごとし」といったような感覚が読みとれる。しかし、事故後は「危険」としている回答者が過半数を占め、はっきりと原子力を意識し始めていることが分かる。原子力推進についても、事故前は積極的な推進を支持する意見が多かったが、事故後は廃止を求める数が大きく増加している。今後の村での原子力の位置づけについては、村を「原子力安全のモデル自治体に」という冷静な意見が最も多いが、一方、村の重点課題として「安全な生活の確保」、「健康で健全な暮らし」が重視されるようになっている。
推進側は反対する人をどう説得するのか。原子力を推進する側の哲学が求められている。これはこれまで推進側が予想しなかったことだ。技術は哲学が先にあって発展するのではない。技術がある段階に来たとき、そこにどのような哲学を付与できるかが問題なのではないか。原子力がここまで大きくなって、推進側が、需要と供給の問題、反対派の意見を聴くこと、技術開発の進め方など、様々な課題に目を向けるようになったことは大変良いことではないかと思う。
火力発電所反対運動の中心的存在であった松下氏の著書に「暗闇の思想」があるが、都市に住む人達にとって、暗闇の思想を持ちつづけることは不可能であり、電気をぜいたくに使っている現実を踏まえ、原子力の問題を考える必要がある。
原子力の熱効率は30数%、火力発電は40数%であり廃熱の問題では大きな差はなく、また、廃熱と温暖化は直接関係ない。
原子力発電は、九州にとって果たしている役割は大きく、必要不可欠なものと考えている。もしも原子力発電による電力が無くなったら、九州の経済は大きな打撃を受けることとなるだろう。
原子力技術は、若い人が魅力を感じるような方向に持っていく必要がある。
原子力発電のハードウェア技術は確立され、それを運用管理するソフトウェア技術も確立している。
原子力基本法第一条には「原子力利用の推進」が唱われているが、そのような前提での議論はできない。このような法の改正も視野に入れるべきである。
日本でも世界でも、初期段階では原子力の光の部分が取り上げられていたが、最近は影の部分が取り上げられている。なぜそうなったのかの問い直しが必要である。
科学技術は一般にシーズが先行するものであるが、社会に普及していくためには、社会的なニーズについて十分な説明を行う必要があるということではないか。


1-3 再生可能エネルギーによる代替

再生可能エネルギーや省エネを進めるべきである。EUなどでは積極的に導入を促進しており、そのため産業振興等に貢献している。原子力政策の推進が再生可能エネルギーの導入促進を阻害している。
新エネルギーはコストが高いという批判があるが、原研や動燃なみの研究機関を設けて取り組むべきだ。
新エネルギーへの投資も技術開発のためだけの投資では不十分なのではないか。新エネルギーの普及のためには、その市場を形成するための政策も必要なのではないか。
再生可能エネルギーの役割は重要であり、将来に向けてその導入を促進していくべきであるものの、その技術面コスト面などの制約により、早期の大量導入は困難である。将来的にも再生可能エネルギーのシェアを大きくすることは困難であり、本格的に取り組んだ場合でもシェアを何%までにできるか検討する必要がある。
供給サイドでは新エネルギー等をうまく組み合わせることが重要であり、一定地域に過度に依存すべきではない。
自然エネルギーの推進のために、政府は補助しており、自然エネルギー導入のための道は開かれている。新エネルギーの予算と原子力予算の比は1:5であるが、2010年で新エネルギーを拡大したときの電力量の比は1:90である。したがって、新エネルギーは手厚くされているといえる。
新エネルギーにも思わぬ副作用があるかもしれないので、専門家による検討が必要であり、議論のためのたたき台を作ってもらいたい。


1-4 省エネルギー推進ライフスタイルの見直し

エネルギー消費拡大路線の見直しが重要である。
世論では、8割程度が生活水準は現状あるいは以前の生活水準で良いと言っている。つまりエネルギー需要は抑制の方向で考えても良いのではないか。
大量生産大量廃棄の社会のあり方を見直すとともに、原子力に頼らない新たな社会を我々は求めつつある過程にあるのではないか。
市民の意志とは、「今までどおり電気を使い続けたい、しかし発電システムは安全であって欲しい。」ではないか。
経済状況がどうであろうと、あわてて結論を出さずに、原子力発電に頼らざるを得ないかどうか、省エネの方が安くて、国民が実行できるかなどを検証すべきである。
今後、エネルギー消費が増大し続けると仮定した場合、省エネルギーの進展、新エネルギーの開発が必要である。省エネルギーについては日本には実績があるし、新エネルギーの技術開発も集中的に資金を投入すれば、その進展を早めることが可能。
省エネのためライフスタイルを改善することは、政策ですべきことではない。自分の生活について、どこまで文化的な暮らしを追求して良いものなのか考えることが必要。
政府の2010年までの見通しでは、2%の経済成長、原子力モラトリアムを前提とすれば、2.7%の省エネルギーが必要とされている。年間2.7%の省エネルギーというのは、世界で最も省エネルギー化が進んだ石油危機直後の日本の省エネルギー率を越える値であり、このような省エネルギー化を進めるのは困難である。


1-5 エネルギー需給構造のシナリオ

政府は温暖化防止のために20基の原子力発電所が必要と言っているが、その根拠の説明が不十分である。リードタイムも考えると、誰も目標年次までに20基建設されるとは思っていない。立地の困難さや、世界の情勢から、現実として原子力発電の増設はできなくなる。ソフトランディングに向け、今からその場合のシナリオを用意する必要がある。省エネ促進などについて議論しなければならない。
エネルギー需給見通しは、1年前に本として出版されている。その中で原子力発電所20基増設の根拠も出ている。これは努力目標の数値である。個人的には、それが現実にできるとは思っていないが、半分できれば成功と思う。原子力発電所20基分に対応するCO2削減量は石炭換算で2000万tに対応し、貢献度はかなり大きい。
政府において、脱原発のシナリオを検討する場を設けるべきである。
脱原発を主張するのなら、具体的な脱原発シナリオを出していくことが必要ではないか。是非出してもらいたい。脱原子力については、共通のデータの上に立ってそれを提案する人達が責任を持ってシナリオを提示してもらうのが良い。
以前、円卓会議の場で脱原子力発電のシナリオを作成すべきという意見が出され、総合エネルギー調査会原子力部会でも原子力がない場合の検討を行ったことがある。
2010年を考えれば、シナリオの幅はあまりなく、さらに先のことを考えた上で、今後のエネルギーを考えるべき。
解は一つしかないという立場に立つのではなく、違った意見をもつ人に話す機会を与えるべき。
エネルギーや原子力の見通しは、高度成長期の発想のまま全て一直線に増加するという考えにたっており、根本に立ち戻った議論が重要である。
議員になる以前に参考人として国会に呼ばれたことがあるが、その時は、議員は新聞に載っている話ばかりで、次の世代に何をすべきかといった議論がなされていない印象を受けた。
シナリオといっても、単純に原子力を他の電源で代替するといったものではなく、原子力をあるレベルとした時に、不足分を何で埋められるかといった総合的なものでなければならない。
ドイツでは脱原発という仮説の下でエネルギー政策を再検討しているが、科学技術の進歩のためには、大胆な仮説の設定が必要ではないか。


2.原子力の安全強化

2-1 安全規制・防災対策のあり方

原子力発電の安全確保にはこれまで以上に取り組む必要がある。例えば専門家を多く揃えた米国のNRCや航空機事故調査委員会のような組織が日本にも必要なのではないか。また、原子力防災については、現在、原子力災害対策特別措置法の検討が進められているが、事故が起きないと対応しないことには怒りを感じる。電源三法の見直しを含め、国は思い切った政策をとってほしい。
最も大切な原子力安全規制行政についても、推進と規制が分離されていない状態のまま、いわば護送船団的体質の中で進められていたのではないか。
原子力安全確保体制については、推進と規制とを分離することと、責任、実行、効率が保たれることが重要である。この観点から、現在のダブルチェックは、適当ではない。
理想的な安全規制の組織は実力があり、推進とは切り離して、一段階の審査でよい。安全規制については守れない規制を設定しても機能せず、業界の自主規制をベースとすべきというのが現実的である。
安全と廃棄物の問題については総力を挙げて取り組むことが必要である。
JCOの事故を契機にこれまでの考え方を改めないといけない。原子力安全行政は破綻をきたしているという認識からスタートすべき。
行政改革の中で、原子力委員会、原子力安全委員会が内閣府に移行するが、国民が安心してまかせられる組織とし、安全対策の充実強化が図られるべきである。原子力災害では広域にわたり被害が及ぶため、国の責任を明確にした原子力災害対策特別措置法が作られるべきである。
安全行政について、原子力災害対策特別措置法等が制定されたが、今後、組織論的な検討が必要。ただし、行政委員会的組織では透明性が低下する可能性もある。今後、これらを含め十分な議論を行う必要がある。
安全は国が与えてくれるものと考えるのが日本の特徴であるが、それでは大きな政府になっていく一方である。安全確保のためには、実情をよく知っている現場事業者の役目が重要であり、また、当事者間の相互チェックが必要である。行政担当者は異動が多く、内容に精通していないのではないか。
原子力災害対策特別措置法で規定された「原子力防災専門官」が機能するのか疑問である。制度に魂を入れることができるかは今後の課題である。
日本では、事故が起きるまでは事業者の責任で、起きたら国や自治体の責任と言うが、それでいいのか疑問である。
いつも事故があったらその事故だけについて議論する。もんじゅの事故など関連した事故を含めて議論すべき。世界的な流れの観点から考えて欲しい。原子力には未来がないと思う。
普段から原子力発電のようなシステムを維持するのに大変な思いをしている。それだけに、JCOの事故により原子力発電は危険だというイメージが強く人々の中に残ってしまった点で、非常に残念だ。事故に対する海外の論調も呆れや驚きといったものが多く、これまで日本が持っていた技術大国として自尊心を深く傷つけるものであった。
JCO事故は杜撰な管理不在に起因するものであり、原子力安全文化の不備は免れないが、原子力の安全神話も危機神話も言葉だけの問題である。
「JCO事故の延長線として、原子力政策の問題がある。」と一般国民が誤解する恐れがある。そうではなく両者を分けて議論すべき。「破綻」をきたしたという意見には異論がある。今回のJCO事故では犯罪行為が行われた。事故と原子力行政の問題は明確に区別すべき。
確かに改める点が非常に多い。また、今回の事故と原子力政策を分けて論じるのは不可能。
原子力は災害に対して強いのか、特に地震に対して検証する必要がある。幸いこれまで日本の原子力発電所は震度5以上の地震に見舞われたことがないが、もしそのような地震が起こった場合は、液状化現象などの地盤災害の影響を受ける可能性を考慮する必要がある。また、日本の原子力発電所は活断層上に建てないこととされているが、活断層以外の地域でも大きな地震は起こる可能性があり、安心はできない。
地震への防災ばかりについてではなく、原子力関連事故に対しての防災対策システムもしっかりと構築していくべきだ。原子力はハード面の対策はしっかりしているが、ソフト面に問題があった。
専門家のおスミ付きで事故を繰り返してきたことを認識すべきである。
技術的な観点から絶対安全というのはあり得ない。にもかかわらず、絶対安全という言葉を使ってしまうのは、社会的に許容されるリスクの範囲が明確ではないからだ。リスクについて、どの位ならば許容されうるのかもっと議論されるべきであり、それを社会に発信していくシステムが必要である。
リスク評価は事故が起こる前に行い、安全管理に反映させるもの、防災は起こった後の対応であり、分けて議論すべき。
リスクの議論では、3プラス1の責任が重要である。すなわち①国はリスクが社会的に容認できる程度に十分に小さいかどうかを判断する責任がある。②さらに、その許可条件が維持されていることを監査する責任がある。③設置者は技術的能力を維持する責任があり、原子力発電所では保安規定がこれに該当する。これらの責任はパラレルに存在する。さらにもう一つ④許可しても残っている残存リスクに対して、小さいから対応しなくていいのではなく、発生した場合の責任としての防災がある。今回、原子力災害対策に関する法律が制定され、防災の責任が明確化された。
事故が起きた場合、通報遅れの問題を解決するため、自治体自身が異常を発見できるようなシステム作り(自治体によるモニタリングシステムおよび原因究明システム)が必要ではないか?
東海村内には14ヶ所の原子力関連事業者が立地している中で、今後は安心して暮らせる村というのを重要なテーマとして掲げなくてはならない。従って、原子力安全規制の強化と原子力防災問題の改善が必要であり、政府への支援を期待している。
嘘をつかないシステムづくりが必要である。マスコミに叩かれることや、納期が遅れることを怖がらず、経済性や利益追求よりも安全性を優先すべきである。 マスコミに叩かれたくない、あるいは納期を守ろうと考えるのはこの社会では普通のことではあるが、違約金など、嘘をついた結果、社会的に拒否されるようなシステム作りが必要である。企業や政府による理解も必要である。
安全性については、「安全」と説明する人間のパーソナリティ、その人への信頼感が重要である。スポークスマンには一番有能な人を充てるべきで、年季の入った人、安心できる人を現場に張り付けてほしい。
国民の大部分は、原子力に対し「良く分からないが不安」というイメージを持っている。どのように安全性が保たれているのか等、人々が知りたい情報を分かり易く提示してほしい。また、その仕組みを信頼性の高いものにしてほしい。
国によって推進と規制の分離システムは異なっている。現在の日本の原子力安全委員会の位置づけは、他国に比べ、比較的独立性は高いといえる。
何度か原子力発電所を見学する機会を得たが、発電所では防災訓練等の対応がしっかり行われているとの印象を持っている。
発電所見学をしても、不正な手順まで確認できず、また、専門家にいくら安全と言われても、まだ何かあるのではないかとの疑問が残る。
原子力を考える視点として、リスクとベネフィットのバランスを評価する必要がある。特に原子力のリスクとしては事故と放射性廃棄物があるが、これらリスクを技術、即ち人間の知恵により補う必要がある。
事故は、考えもしなかったところから発生するもの。今回の事故への対策だけでなく、事故は論理的に考えられるものではないということを意識して、広く全般的に見直すことが必要である。
食料供給において、危険性を管理する手法としてHACCPがあるが、同じ手法が原子力でも活用できないか。この手法では、各事業者が責任を持つことになる。
ガソリンスタンドで事故が起きても、すぐに車社会を放棄するという議論にはならないのは、社会が車の必要性を十分認識しているからであるという意見があるが、原子力発電に対しては、その必要性が必ずしも認識されているとは言えない。
電気は家庭用だけでなく、社会で幅広く使用されており、事故があったからといって、直ちに原子力発電をやめるべきだと簡単には言えない。
現在の損害賠償制度を全面的に見直して、賠償措置額を大幅に増額するとともに、政府ではなく、より事業者に支払いを求めるべきなのではないか。
「事象」は非常に一般的に使われる言葉である。それを専門用語として使うのは間違っている。最初から「事故」と訳すべきであった。


2-2 安全確保体制

原子力安全委員会のダブルチェックは形骸化しており、1次審査はやめて2次審査を徹底的に実施するなど、規制を一元化するべきである。その際、米国のNRCのような強力な組織とする必要がある。
安全確保体制においてダブルチェックは効率的でない。また、一元的に規制官庁は推進から独立しているべき。今のまま、原子力安全保安院を生かしつつ原子力委員会をふくらませるのは本意でなく、両者を一つにし、推進から独立し、責任を持たせるべき。次善の策として、安全委員会は監査機能に特化させることは妥協としてある。
そもそも原子力安全委員会がなぜあるかというと、あった方が安全だという期待があるからであり、現在の委員会はその期待に応えていない。
原子力安全委員会については個別の事業についてのみ規制するのではなく、安全についてより包括的に考えるようにすることが必要である。組織としては内閣府に移ることになるが、安全委員会については独立させた方が良いと考えられる。
二次系までの細やかなチェックを行き届かせるために、原子力安全委員会の拡充が必要である。
原子力安全委員会によるJCOのチェックは運転状況ではなく、施設保安措置が中心であった。動いている時のチェックは非常に少なかった。また、JCOのような施設に対する安全審査指針が作られていなかった。末端まで面倒を見る必要があった。
安全規制行政については、規制の決定過程における透明性の確保と情報交流、効果的な規制の推進の方法と体制が必要である。
原子力安全委員会がより機能するように、安全委員会の名前を、例えば、安全監視委員会などにすればよい。


2-3 国と自治体の役割分担および連携

現在、原子力に関しては多くの点で国中心の体制となっている。JCOのような事故が起きた場合、地方自治体は何よりも地域住民の安全生命に対して責任があるのだから、国と地方自治体の役割分担について考え直す必要がある。
日本の防災対策の基本的な考え方は、地方自治体が計画を立て、国は助言する立場であった。原子力については、この役割の妥当性は長く議論されており、国と自治体は協調して考えようという方向になりつつあった。その後JCO事故が発生し、原子力災害対策特別措置法で国の責任が基本となり、自治体は具体的な計画作成に対し責任を持つことになった。今回、国、自治体、事業者の役割分担の枠組ができたが、魂を入れるのは今後の課題である。
県の防災マニュアルの中で、燃料加工施設での臨界事故は想定外であり、対応の必要は無いとされているが、これは思い込みである。このような危機管理、防災対策について、そもそも仮想事故の設定に問題があったと思う。
東京の関係省庁には情報がうまく伝わっていなかった。現地の日本原子力研究所や核燃料サイクル開発機構は状況を把握できたが、東京との意志疎通ができていないようであった。通信手段が良くなっても、この問題は解決せず、結局その場に責任者がいないと的確な状況認識は難しい。


2-4 原子力産業の構造の問題

下請け、孫請けという日本の生産構造の問題だと思う。元請けではちゃんとやっているものが、孫請け企業で事故を起こしてしまう所が問題である。下請けは、安い給料で働かされて、責任まで取らされるのはかわいそうだ。モラルは給料によって維持される面がある。
下請けも、仕事を受けたからには、それなりの責任があるはずだ。下請けも含めた各事業者の責任が重要である。事業者は、人はミスを犯すという前提で仕事をすることが、安全文化の面から重要である。
ドイツのマイスター制度が下請けに出すことにより、崩壊し始めている。また、ローマ帝国は、自ら行わずに下請けに任せるようになって、国力が衰えた。新幹線のトンネル問題も、チェックを行うシステムにより、カバーするしかない。工業高校の退学率が普通高校の10倍もあるという現状は、日本の技術力確保の観点から危機的な問題である。
原子力の技術開発は、進んでいるが、働く人が仕事の内容を理解し、モラルを維持していくことが必要である。安全への意識が低下することでトラブルが発生する。チェック機能を機能させることも重要。下請けまで、安全への意識を徹底しないと、大きな事故につながる。JCOで働いていた人は非熟練工であった。コストのために未熟練工を使った。個々の従業者に本来の意味の職人気質を植え付ける必要がある。どんなにハードがよくなってもこのような事故は起きる。
原子力発電に関する利権構造の問題もあるのではないか。
利権の問題は、公共事業にも見られることであり、原子力発電が突出している訳ではないと考える。
原子力発電所の建設では、廃棄物の問題等、50年後、100年後も地域へ与える影響が大きいので、公共事業と同じ扱いとするべきではない。
電力会社として、原子力は危険なものであるという認識に立って、安全を最優先にして原子力発電に取り組んでいる。それだけに今回のJCOの事故は非常に残念だった。
背景には原子力産業政策の問題がある。JCOのような会社を育成すべきかどうかである。JCOは国際的に見て技術革新に遅れていた。電力会社からのコストダウンへの要求という間接的な原因がある。これによりJCOが弱体化した。電力会社は自由化によるコスト低減の圧力の下、国内企業からではなく、外国から燃料を購入するようになってきた。通産省、原子力委員会もそこまで目が届いていなかった。
電力会社は、需要が伸びないと会社として成立しないという問題を抱えているのではないか。電力会社のシステムのあり方を考えるべきではないか。


2-6 技術的安全性

原子力発電の安全性については、100%の安全はあり得ないという意見や、品質管理、安全装置の改善等により安全になっているという意見がある。また約1,000人が犠牲となっている航空機事故と比べて本当に危険なのかという問題もある。
安全性等の問題に対する適切な答えが提示されていないのではないか。我が国は高度な技術を保有しているのも関わらず、ソフトシステムの観点からみると弱い。推進側(政府、国、事業者)で安全性を立証する必要がある。
エネルギー資源が乏しい東アジア地域においては、今後原子力エネルギーへの依存が進むと考えられているが、安全面を考慮すると果たして適切な運営がなされるのか不安である。日本が協力できることは積極的に協力していくべきである。
原子力は最先端技術であるのに、なぜ原始的な不安心理に足を取られるのか。
原子力発電の現状を維持する場合でも、技術の継承は必要であり、技術基盤を維持する必要がある。


3.国会での議論

3-1 国会での議論の必要性

原子力政策は原子力委員会ではなく、国権の最高機関である国会に原子力特別委員会を作り、集中的な論議を行うべきである。
原子力およびエネルギー政策は、長期的かつ重要な問題であるので、国会の場で議論することを基本とすべきである。
原子力委員会あるいは行政は、計画の誤りを認めず、率直な議論がなされないので、原子力政策については、国会が何らかの関与をすべきである。
今日の原子力は基本的に政治の問題であり、この点を事業者は軽視してはならない。また、原子力にはもっと政治学、行政学の専門家が関与するべきである。
国会が国民を代表しており、原子力政策の意思決定を全て国民に直接委ねるという意見には反対である。原子力政策の決定プロセスを透明化し、説明責任を果たして民主主義を一歩一歩進めて行くべきではないか。また、現在の国会の状況を見る限り、国会に新たな組織を設けても機能しないのではないか。
原子力研究開発利用長期計画に沿って政府は予算を措置するが、原子力関係の予算は、1992年から来年度までの累計で4兆2千億円であり、これは新エネルギー関係の予算の約8倍である。行政はいつも予算は国会で認められたことと言い訳するが、大本は、国会で十分議論し、執行のみ政府にまかせるべきである。その意味で、いままでの原子力政策については、行政ばかりに責任があるのではなく、国会にも責任がある。
1983年に行政の示したエネルギーの長期見通しについては、90年、94年ともに実績はこれを下回っている。見通しと実績が大きく乖離している場合には、その原因を明らかにすることが重要であり、これらは国会の場で行われるべきである。


3-2 国会での議論の体制・あり方

エネルギーについて調査を行うだけでなく、立法化も可能な場が必要である。省エネ法等現在縦割り的になっているエネルギーに関する個々の事項をパッケージ化した「エネルギー基本法」を作り、その上で原子力、新エネ、省エネを位置づけていくべき。原子力研究開発利用長期計画は執行を決めているものであり、閣議了解事項でいいと思う。
エネルギー問題の議論で自然エネルギーのみを特別扱いするというのは反対である。かつて原子力エネルギーがそのように扱われて、今日のような問題を抱えるに至った。全体のエネルギー問題の一部分として、他のエネルギーと平等に議論されるべきで、その意味で必要なのは「エネルギー基本法」、「総合エネルギー政策法」といったものだ。
エネルギー政策を考えていくとライフスタイル、教育、建設など幅広く議論を行う必要が出てくる。今の文教科学委員会や科学技術委員会といった常任委員会だけでは検討範囲が狭い感じがする。特別委員会を設置し、超党派、超省庁で議論すべきである。イデオロギーの対立は以前はあったが、今はなくなっており、そういう議論ができる状況である。
特別委員会を設置することは結構だと思うが、常任委員会の機能を十分発揮させ、じっくり議論する必要がある。
国会での議論は時間制限等制約が多く、また、常任委員会ではその時々の政党間の利害関係などに影響され、弊害が出てくる恐れがある。議員連盟のような場の方が自由に議論できる。
国会は立法府であるとともに、行政を監視し政府に意見する機能も担っている。常任委員会で議論を行うことは当然だが、参議院には調査会制度があるので、ここでじっくり検討するというやり方がある。
エネルギーや原子力は国会で相当議論しているが、外にうまく発信されないことが問題。テレビなどで公開もしているが、さらにどうすればよいかが今後の課題である。
国会で議論はしているといっても、今まで事故の対応に追われ、エネルギー政策の視点での議論は不十分であったと思う。
衆参両院議員の「新エネルギー促進議員連盟」が発足したが、ここでの議論に期待している。かつて、原子力という当時の新しいエネルギーの開発に積極的に協力した東海村が、同じように新エネルギー分野でも果たせる役割はあると思う。
原子力について、どれくらい安全にして欲しいかは国民の問題であり、専門家が決める話ではないので、国会で議論して欲しい。一方、その安全を達成するためにはどうするかという話は、専門家に検討してもらう問題である。社会の要望は国会、技術的な問題は専門家というような、国会と行政で役割分担ができるのではないか。
原子力を含めたエネルギー長計については、国会で議論した方がマスコミにも注目されやすく透明性が高いと思うが、一方で政治家は原子力の議論をすることにより、選挙で落選することを心配して、本音で議論されない可能性がある。
政治家は選挙期間中、高浜発電所第3、4号機のプルサーマル計画について白紙としていたのに、現在では、前向きの発言をしており、県民の声を反映せずに政策決定が行われていると感じられ、そのプロセスが納得できない。
地球温暖化防止に関して議論した際には、学校や郵便局にソーラーシステムを導入する案など、関係方面からいろいろなアイディアを出してもらったが、そういった場を作る努力が必要である。


3-3 行政システム

国の行政の縦割りを超えるため、横割り型の組織を考えるべきである。また、原子力行政については、個別省庁とは独立した組織が実施していくべきである。
国の体制を一元化することには賛成だか、私は原子力行政ではなく、エネルギー行政の一元化という見解を持っている。
いろいろなエネルギーの専門家に集まってもらいオプションを議論してもらう場が必要である。
決定のプロセスとして、専門家が複数のオプションを提示し、そのオプションに対し、責任を有する利害関係者を交えた議論の場で決定するといった2段階による決定方法を採るべきである。
行政側の対応を見ると、通商産業省の総合エネルギー調査会や、原子力委員会の長期計画策定会議においても、評価軸を含めた議論が行われている。行政側で、エネルギーの評価軸の問題について議論していないのではなく、関係者間である程度のコンセンサスがあることを前提としている。ただし、そのコンセンサスが国民の意識と合っているかについては、議論してよいかも。
総合エネルギー調査会の需給部会等は各エネルギー相互の関係について議論することになっている。新たな仕組みを考えるより、今ある仕組みを有効に使う方がよいのではないか。
総合エネルギー調査会の各部会は、各々が独立して議論しており、総合的に扱われていないのではないか。
総合エネルギー調査会でも、ドラフトを作成した後にパブリックコメントを求めるのではなく、議論のテーマ自体にコメントを求めることをやってみたが、いろいろ難しい点があった。いずれにせよ審議会自体が国民の信任を得る努力をする必要があることを認識すべき。
官僚機構や特殊法人などの組織の運営方法等のシステムに関する議論が必要であり、一般市民の視点も必要である。したがって、これらの運営システムを抜本的に見直すため、懇談会など第三者的な組織を設置し、政策評価を行うべきである。
民主政治の枠の中で選挙で変わる人と長期的に検討する専門性を持った人の組合せはローマ時代からあった。官僚が政を乗っ取っているのは問題だが、官僚が政策決定プロセスを公開し、国民の意見を聞きながら進めるという方法が最良のシステムではないか。今後は、成熟社会への過渡期にある社会情勢、規制緩和への流れなどを踏まえて、行政システムのあり方について検討する必要がある。
戦略とルールの中で市場を運営して行くべき。現状は、国家レベルで「官」が「公」を乗っ取っていることが問題。「官」は過去を絶えず正当化し、表面的な秩序を重視する傾向がある。日本的な「ムラ社会」には良い面もあるものの弊害もある。「公」の側面を重視すべきではないか。
原子力の運営体制について民間にまかせるべき部分と公共にまかせるべき部分がある。具体的には、原子力発電と使用済燃料貯蔵は民間にまかせるべきである。一方、環境安全性の確保、長期的なエネルギー開発、平和利用への限定、核不拡散の推進などについては公共にまかせるべきである。
全原発に地元自治体の職員を24時間派遣し、事故の監視と自治体との連絡、通報を行わせ、将来は幹部に登用させるべきである。
日本政府は事故時の混乱時に、いろいろ対策等を決めるが、その内容の妥当性は、何年か後に議論し評価すべき。フィードバックするメカニズムを作っておく必要がある。
MOX燃料の輸送、使用済燃料の再処理に係わる条約は、外務省が関与するなど原子力利用は多方面にわたる問題であり、総合的に検証すべきである。
エネルギーに限らず、我々の周りには無駄が多いが、それを抑制するため、厳しい規制をすると、失業者が沢山発生することになる。
規制により失業者が増えるという議論は極論で、例えばかつての日本での公害対策のように規制と経済成長がうまくいった例もある。
石油危機、経済成長等の社会状況が変化しても、原発の設備容量は年2基のペースで直線的に増えてきた。原子力政策は変わらない点、政策決定システムがわかりにくい点が問題ではないか。
現状の運営システムを抜本的に見直すべきという考え方がある。その反対に、新たなシステムを構築すれば状況が改善されるという考えには疑問とする意見もある。


3-4 専門家・利害関係者の位置付け

今日の原子力は基本的に政治の問題であり、この点を事業者は軽視してはならない。また、原子力にはもっと政治学、行政学の専門家が関与すべき。例えば住民投票を例に取ると、我が国の現行の議会制民主主義の枠の中では、住民投票は補完的なものに過ぎないことを認識すべきだろう。
専門家がいないと議論はできない。しかし、事業者、行政、学識者等の利害関係者が原子力政策の議論に参加すると、推進が議論の前提となる。利害関係者以外で、原子力についてよく勉強している人が議論に参加すればいい。
専門家はみな推進派となっている印象がある。また、原子力推進派の掲げる理念には反論が難しい状況がある。「素人」は議論をする余地がない。
原子力委員会では、エネルギー問題だけではなく、放射線利用などの広い分野について議論している。各省にまたがる領域を統合して判断し、ものを言うには、少なくとも5人の見識を持った人が必要。原子力委員会については、内閣府に移った後に十分な機能が果たせるよう運営の改革を行い、国民に見えるようにしていくことが重要。
運用については、専門家が採用可能な選択肢を複数用意して、議論を透明にして、ステークホルダー(利害関係者)の間で政治的な決着をつけることが現実的だ。これが代議制民主主義の基本である。


4.電源三法交付金等

4-1 電源三法交付金のあり方

電源三法交付金を地域振興に活かすべきという考え方と、あくまでも全国的な国土開発の一環として行うべきとの考え方がある。
交付金等の使途については、例えば、鉄道の電化や国道の整備などに使いたいが、現状は使途制限が厳しい。
立地地域と周辺地域で交付金がもらえる、もらえないの問題がある。また、発電所の運転期間のみが交付の対象期間とされているが、解体、撤去の期間も交付期間に含まれるべきである。
電気料金の割引は有効であるが、現状一家庭当たり千円程度であり、少額である。また、全県への適用実現も要望する。
三法交付金制度を一旦やめて地域全体の産業基盤や生活基盤を上げる交付金とするというようなことを考えるのが原子力委員会の役目である。金をばらまく政策をやめて、原子力委員会は廃棄物、廃炉対策、使用済燃料に重点を置いていくべきである。
消費者が電源開発促進税をいくら課税されているのか分からず、生産地の本当の痛みを、消費地が理解する上で問題である。電源開発促進税を(電気料金の)領収書に明記したり、TVなどを活用して広報すればよい。
事故の後でも電力の需要は減少しないものであり、どこかの地域からは電力が供給されなければならない。他地域の原子力発電所で、緊急停止があっても、市民は心配して説明を求めるものだ。この様な事態は原子力特有のものであり、その意味から原子力立地地域への交付金を火力等他の電源と同じ扱いにすることには反対する。
東海村の収入は電源三法交付金はそれほど多くなく、原子力施設の固定資産税が主である。これまで電源三法交付金は、使用用途に制限が多く使いづらかった。
電源三法交付金を防災のために使用できないのか。
防災無線の全戸配備の体制は整ってきた。防災のために、交付金等を使用すれば、避難所、核シェルターなども整備できるが、防災の整備を進めても、何ら地元にメリットがない。これまで原子力は安全とされ、防災の経費は不要とされた。交付金の主旨は地域振興である。


4-2 立地・地域振興のあり方

地域振興においては、まず地方自治体のビジョンがあって、それに対して交付金が必要という考えが重要である。積極的に地元から「こうしたい」というビジョンを出す事が重要である。
地域振興策については、積極的に地元から「こうしたい」というビジョンを出す事が重要である。
立地地域とこれに隣接する周辺地域の地域振興の格差が大きい。恒久的な地域振興策や核燃料税の引き上げを考えてほしい。
敦賀では港の整備、高速道路、鉄道の電化等の問題があり、それらの地域振興策について国全体として議論してほしい。
原子力発電の立地は国民全体で受け入れるべき国策である。敦賀市はその立地に協力しているにもかかわらず、原子力関連のトラブルが起き、地元ばかりが苦しんでいるというという不平等がある。
原子力の立地問題は、経済性、安全性、コミュニケーション、政治等々、多岐にわたる問題であることに留意してほしい。
原子力発電所の立地に当たっての許認可に知事と市町村長の同意を義務付けるべき。また、立地については、申請者と自治体のみの問題であり、国は関与すべきでない。
地元で住民参加型で進めていく方が重要ではないか。
将来の原子力発電の新規立地を考えると、敦賀市を見た他の都市が「このような状況では問題である」と思ってしまうことは良くないのではないか。既存の立地地域が良くならない限り、立地は進まない。
原子力発電は、立地地域において、争いや遺恨を残し、民主主義を破壊してしまったという側面もあるのではないか。
電源立地地域に在住していることから、原子力発電により立地地域の民主主義が破壊されているというのは良く分かる。例えば福井県には原子力発電に関連する産業に従事している住民が多く、その意味で原子力発電に頼っている部分が大きい。そのようなところで原子力発電について自由な討論を行うことは難しい。
原子力発電が危険であるために、金銭的に立地を確保しようとしていると感じる。
現状のままでは、エネルギー政策は上手くいかないと思う。自治体には、原子力行政に協力したい人もいるが、原子力に反対の人もおり、首長としてはそれらの最大公約数を選択していく必要がある。原子力立地の推進には、地域振興を推進し、最低限の文化的な生活の確保が必要である。
原子力発電所の建設に当たって環境影響調査を行うとき、推進側だけでやるのではなく、調査費を出して地元の人にも責任を持って実施してもらってはどうか。
原子力発電の公開ヒアリングは、形式化している。立地に当たって1年位とことん議論すべき。
日本にとってどんなに大事なことでも、地元が決定権を握っており、了承が得られないと先に進まない。


4-3 生産地と消費地の対話の必要性

生産地と消費地の両者間の対話をもっと行い、消費地は生産地の痛みをより理解し、消費地の者がエネルギー消費、電力消費についてもっと自覚することが必要である。
玄海町に原子力発電所を作ろうとした時、地元の若手から、電力の消費地と供給地の首長サミットを開催するという条件が出された。このサミットは今でも毎年開催されており、消費地の首長から、供給地に対して謝意が表されている。消費地と供給地のコミュニケーションを持ちながら進めていくべきである。
電力生産地は地球温暖化防止、地域の振興を願いながら国の政策に協力してきた。また、自分たちで発電した電力が他地域の経済発展を担っているのだという自負も感じている。
電力生産地、電力消費地の問題に対しては、1:2程度の電力料金格差を設けるべきである。
生産地の中でも住民の間に温度差がある。両者の対話がもっと必要である。
電力をふんだんに使用している都市に住む者が、原子力発電に対し、賛成、反対の意見を軽々しく言うべきではない。
消費地の者として、栗田知事、河瀬市長にお礼を言いたい。関西の産業界としては福井県との交流を進めていきたい。


5.原子力教育

5-1 学校・社会教育における原子力教育のあり方

学校教育でより原子力を取り上げて、将来を担う子供に対して教育を行い知識を広めるべきだ。
日本は資源に乏しいためエネルギー自給が困難であり、原子力発電は必要であるという認識を広めることが必要である。そのためには、省エネルギー運動、エネルギー教育等により正しい知識の提供に努めることが重要だ。
日本の中学校では、2002年から「総合的な学習の時間」が設けられるが、この時間を使って、環境エネルギー教育に本格的に取り組んでいく必要がある。そこでは自分で問題点を見つけ、調査し、話し合いを進め、自分なりの意見を持てるようにしなくてはならない。
日本の若者は省エネルギーに無関心な層が多く、電気の利便性の享受はするが、それを得るためのプロセスには関心が低い。ただ経験がない分、省エネを神聖な面白いものと捉えることができるかもしれない。
最近の若い人は、科学技術に対する興味を急速に失いつつある。この点について、国として考えていく必要がある。
日経の調査では、特に20代の若者が将来について暗い予測をしている。しかし、努力する意志はあるはずであり、それを活かすために必要な制度、仕組みについて議論をすべきではないか。
原子力については、恐い、危険という人が多いが、より深い学習を進めて、これからのエネルギー問題について自分なりの考えを持てるようにしなくてはならない。今の子供達の意識の中では、原子力という言葉を原爆に結びつけてしまい、だから怖い、危険と連想される。このようなイメージを払拭することが必要であり、問題をどう解決すればよいか、議論すべきである。
議論が分かれているのであれば、様々な議論がある事実をそのまま子供達に伝えるべきである。安全性だけを主張しても、誰も責任を持てない。
英会話学校などで日本人が不得手とされるのが、ロールプレイである。反対賛成の立場を逆転すると、議論が成り立たない。ロールを変えた場合にも議論できるように、我が国の将来の教育も大切である。
我々の行った世論調査によれば、原子力に対する知識が平均かそれ以下の場合に原子力に対する恐怖感はほぼ一定であったが、知識が平均より高い場合には、男性については知識の増加とともに原子力に対する恐怖感が減少する傾向があり、逆に女性については知識の増加とともに原子力に対する恐怖感が増加する傾向が見られた。公衆に対して、一元的にメッセージを発信するというPA活動の手法について、見直しが必要ではないか。
放射性廃棄物については我々の世代だけでは処理しきれない問題であり、このことを含めて子供達に伝えて行くべきである。
今日の原子力を巡る問題の閉塞的な状況を解決するためには、自然科学だけでなく、世論間にあるギャップを埋めるといった社会科学的な知識が必要である。
原子力に対する人々の知識量が不足しているのではないか。従って、社会教育の強化が必要だと思う。
一般の人々により大きな責任感を持たせることが必要であり、それが現在の原子力のあり方を巡る議論の解決にも寄与する可能性がある。
「原子力」という言葉が非日常的な分野で語られることがおかしい。より日常的な中で原子力が語られるような状況にまで持っていきたい。
日本の理科教育では、結果や言葉だけを教えており、プロセスを教えないことが問題である。


5-2 マスコミによる情報提供のあり方

事故が起きた場合だけ騒ぎたてるようなマスコミの体質は改める必要がある。
原子力はイメージが悪い。一方、新エネルギーには明るいイメージがあるというアンバランスが生じている。マスコミの報道には言葉じりを悪く捉えたりセンセーショナルな部分が多いので、公正な立場で事実を報道して欲しい。そのために、わかりやすく説明し、タイムリーに情報を出せるようなエキスパート集団を作っていかなければならない。
メディアから流されている原子力に関する情報が分かりにくいのも問題である。一般の人々にとって分かりやすい報道の方法を検討すべきであり、また、情報の送り手が分かり易いブリーフィングや特別の教育を行うことが必要である。
正確な情報の提供は当然だが、世論を形成するマスコミは情報をきちんと伝達することも重要である。出し手、伝達者、受け手の3者とも改める必要がある。マスメディアの誤情報・誤報道に対し反論や反証していく姿勢が必要である。
メディアの報道量の調査によれば、20~30年程度の期間で比較すると、ネガティブな報道とそうでない報道はほとんど同量であった。人々はネガティブな情報に対しては強く反応し、いつまでも覚えているため、長い目で見ると、世の中の人はネガティブな印象だけを持ってしまう。
知識の量と原子力賛成反対の別との間には、相関はないと思う。知識がない人は、上位の権威者に判断を委ねることになるが、それでセンセーショナルな報道に左右されることになる。報道については、取材対象を最初に判断してから事態を見る。いかがわしいと思ったものに対して人々は怪しげな目をもって見るが、メディアはそれに合致した報道をする。大衆迎合であるが、それを支えるのは私達自身である。メディア批判は大衆批判である。
正確さについては分かるが、報道する側には価値判断がある。原子力については、特に事故があったときに重ねて報道するのはやむを得ない。マスコミには読者の啓蒙という役割もあるが、商売である以上、読者に対して迎合もする。マスコミだけに頼っていていいものか考えるべきであり、ミニコミ紙などの役割もあると考える。
報道は公平、正確でなければいけないが、最近は原子力を叩いておこうという傾向があるのではないか。正確さ、公平さという点については、原子力に限らず報道の点数は低くなっている。
原子力モニターの意見の中に、日本の原子力発電の抑制を主張する新聞が、KEDOに拠出金を出せと主張しているのは、矛盾ではないかというものがあった。我々はもっと広い視野で物事を考えなければならないと感じた。
IAEAでは通常運転と事故とに分けており、レベル4以上が事故である。日本では通常運転、異常行為、事故に分けており、異常行為を「事象」と言うようになった経緯がある。もんじゅの事故の際はこの事が問題になったが、これはマスコミが受け付けなかったためである。
外国ではやっていて、日本ではやっていない習慣がある。国が原子力発電所を認可した責任を果たすため、独自のチャンネルで直接国民に訴えていくことである。これをしていないことが、日本の原子力を特殊なものとしている。ただ、これができないのは、マスコミの性急さもあるのではないか。


6.核燃料サイクルの今後の方向

6-1 核燃料サイクルの方向性

ワンススルーと再処理のどちらが良いかについて、専門家だけでなく十分な議論を尽くし、国民に示すべきである。
ワンススルーは使用済燃料の永久貯蔵を意味するが、中間的に貯蔵しておき、将来再処理できる選択肢を残しておくべき。使用済燃料として保管、再処理してプルトニウムを保管、MOX燃料として使用のどれか一つの方策ではなく、混合的な解決しかない。三つ全てやっていく必要がある。
再処理については、放射能による環境汚染もあり、中止すべきである。それに伴って余剰Puの発生も抑えるべきである。
軽水炉や湿式再処理がそれぞれ実証済み技術という前提で導入されてきたが、実際にはトラブルが生じ、国民の不信を招いてきた。
サイクル政策についても、全量再処理については再検討が必要。また、余剰プルトニウムを保有しないという方針だけでなく、世界の信頼を得るためには外交努力も必要である。
核融合の困難さ、新エネルギーの限界を考えると、100年も経てばエネルギー資源が足りなくなる。その時のためにもプルトニウムは人類に必要な資源だ。
現状はローカルオプティマムでしかなく、軽水炉の効率は30%しかない。電力会社はその範疇で大型化を図り、ABWRを増やそうとしている。20世紀の遺物とならないよう、考えを転換する必要がある。
国内初の原子力発電所の廃炉の処分法については、現在検討されているので明らかにされるが、廃炉については、全国的な課題として考えるべき。
核燃料サイクル開発機構からの技術移転等、開発体制のあり方についても検討を行うべきである。


6-2 高速炉の開発の必要性

FBRについては将来の非化石エネルギーの有力な選択肢と理解しており、実用化可能性追求のための研究開発は必要である。ただ、軽水炉と異なり技術的難易度は高いのだから長期に取り組んでいくべきである。
高速増殖炉の研究を進めて、プルトニウムの利用を進めるべきである。プルトニウム抜きの原子力利用では、その魅力が半減してしまう。
原子力全体において高速増殖炉は必要であるが、高速増殖炉なしの原子力でも、かなりの間成り立つということも考える必要がある。
高速炉開発はエネルギーセキュリティの観点から必要である。高速炉と海水ウラン利用の両方について、ある程度の技術的ポテンシャルを確保していることが、エネルギーセキュリティにつながる。
諸外国が高速増殖炉開発から手を引いたから日本も手を引くというのではなく、むしろチャンスだというくらいの気持ちで高速増殖炉開発に取り組んでいくべきなのではないか。
高速増殖炉は、未来のエネルギー資源確保のためにも素晴らしいものが開発されなくてはならない。そのための新たな高速炉として、米国アルゴンヌ研究所で研究されている金属燃料を利用した小型高速炉と乾式再処理が有効である。この新しい概念を採用した高速炉は、固有の安全性を有し、運転員が不要であり、さらに負荷追従運転が可能であるという点で優れている。電中研もカリフォルニア大学等とともに共同研究も考えられる。
小型の固有安全炉については、出力密度が低くコストも割高になる短所もあり、人工的な安全装置を信頼し大型炉を選択するか、小型の固有安全炉を選択するか、判断を行う必要がある。
プルサーマル、再処理の問題を議論するためにも、高速炉開発の位置づけを明確にする必要がある。「もんじゅ」がだめなとき高速炉路線をどうするのか、「もんじゅ」と高速炉開発は区別して議論すべきである。
高速増殖炉は「資源問題を低コストで解決できる」というのが開発当初の考え方であったが、それも今は状況が変わっている。現在のエネルギー情勢の中で高速増殖炉を実現することの意義、そのための費用、資源の節約効果等について議論し直さなくてはならない。
21世紀の中頃までを考えると、新エネが一定の役割を果たすのは、エネルギー需要が横這いかマイナスの場合だと思う。高速増殖炉についても、評価の基準をはっきりさせるべき。
高速増殖炉を実用化するとしても、さらにどのようなタイプの高速増殖炉の実現が可能なのか、ということも議論されるべきである。
高速炉は、何が何でも必要不可欠な物と位置付けられるべきものではなく、経済性、資源制約、国際動向等を踏まえて検討されるべき。
高速炉開発のあり方は、資源問題によって変わってくる。海水ウランの回収が50年で実用化するならば、高速炉は当面いらなくなるかもしれない。旧動燃はやはり硬直化した計画を与えられていたといえる。
高速増殖炉は「もんじゅ」の延長上で実用化できるのか、経済性があるのか、核不拡散性の高い小型炉が良いのではないか等について、検討を行うべきである。
実用化というためには、経済性も大切だが、まず工学的な信頼性を獲得することが必要ではないか。ユーザーが惚れ込んで発注しなければ、実用化できない。
高速炉と高速増殖炉と2種類の呼称があるが、国策としての高速増殖炉開発はやめるべきである。コスト的に引き合わず、増倍時間が40年~90年というのも、国の目標として適切ではない。高速炉のように先の見えないものに投資するよりは、制度的な問題を解決して、省エネ、新エネに力を入れるべき。
私自身はFBRには反対だが、研究、議論することに異議はない。
人類は軽水炉によりローカルオプティマムを追求してきたが、高速炉でなければグローバルオプティマムは達成できない。しかし、いったんローカルオプティマムに達すると、それより優れたところへの移動は困難である。
高速増殖炉では、燃料の利用効率を軽水炉の100倍にできる。また、海水ウラン利用が実用化しても、廃棄物の問題が残ることは認識すべきである。
増倍時間とは、再処理等サイクルの時間も含めて、自らが必要とする燃料を生産する時間で、再処理能力等状況によって変わっていくものであり、決定的なファクターではない。
FBRは何十年か先に必要になってくると思うので、FBRの研究のためにプルトニウムが必要である。


6-3 プルサーマルの必要性

回収されたプルトニウムは、プルサーマルにより速やかに使用すべき。
プルサーマルは、プルトニウムの使い方としては無駄使いだと思う。安全に利用できるのなら利用すべきだが、現在のFBRではそれができない。プルサーマルをやるために再処理するのではなく、必要な量だけ再処理すべき。
プルサーマルについては、安全性・経済性に問題があり、ウラン節約効果も乏しいため、計画は中止すべきである。
再処理はこれ以上行わずに、プルトニウムの発生を抑えるべき。既に再処理で生じたプルトニウムは、プルサーマルで使うのは危険である。ガラス固化処理して再利用できないようにすべきである。
米国及び露国は、核兵器解体によるプルトニウムを再利用できないようにするためMOX燃料として燃やそうとしているが、日本は大量のプルサーマルを行うことで、プルトニウム社会の引き金を引くつもりなのか。


6-4 もんじゅの取扱い

もんじゅについては開発時点で十分な検査、検討の上、これまで多大な開発資金を投じてきたこともあり、実験を行うべきである。
もんじゅについては、動かせば相応のデータが得られるだろう。運転を再開するのか、やめるのか、その判断が早く下されるべきである。
「もんじゅ」が研究用として利用できることは理解できるが、あくまで副次的な効果であり、期待していた主目的が達成できないからといって、理由をすり替えて推進するという議論はおかしい。
もんじゅを動かしてデータを取ればいいではないかとの意見があるが、何に使うかの目途を立ててからデータを取らないといけない。将来の核燃料サイクルのあるべき姿から必要なデータをもんじゅを動かして取るべきである。
もんじゅは中止すべきである。これまで、ウランが高騰すると言われ続けてきたが、いつまでたっても高騰せず、その論理が破綻したということではないか。旧動燃は累積赤字が1兆6千億円あり、今までは誰も「中止」と言い出せなかった。が、今なら言えるのではないか。
6000億円かけたから動かすべきと言うが、福井では合意ができていない。メリット、デメリットの議論をすることには賛成であり、それを踏まえて地元合意を作って欲しい。「もんじゅ」は、燃料を取り出し、ナトリウムを抜き取れば、100億円はかからず、その上で判断すべきである。
もんじゅの運転再開については地域住民の合意はもとより、安全審査、技術的検証が必要である。
実用段階というのは、電力会社が2つ以上原子炉を作る段階だと思う。「もんじゅ」は早く動かした方がよい。但し、「もんじゅ」の延長線上に実用化がないのなら、途中で方向を切り替える必要がある。「もんじゅ」を動かす場合のメリットとデメリットについて、比較し、地元に示すべき。
「もんじゅ」では、放射性物質が漏れた訳ではない。ただ、地元に「ナトリウムは漏れません」と説明したのは、適切ではなかった。今後は「何度か漏れることもあり得ます」と説明しないといけない。ただ、地元の賛成をいただくことは、選挙との兼ね合いもあり、技術開発とは別の次元の問題となってしまっている。
漏出したのは二次系ナトリウムであるが、放射性トリチウムが含まれているので、放射性物質が漏れていないということには異論がある。
「もんじゅ」は実用化に向けた原型炉と位置付けられているが、資源制約、国際動向等を踏まえて、この際、見直すべきではないか。実用化とはこれまでのものを外挿するのとは違う。研究開発とは自ら実用化の条件を探し、いろいろな物を試す期間であり、「もんじゅ」で知見を積むことは有益である。
MOX燃料、ナトリウム冷却材でよいのかを議論するに当たっては、外国がこうであったからという議論ではなく、エンジニアリング上の経験の蓄積が必要であり、そのためのプロセスとして「もんじゅ」が必要という主張は理由のすり替えではない。
もんじゅについては、ナトリウム漏れによる火災対策や海外の経験に学ばなかった点など、当時の科学技術庁、原子力安全委員会等の責任が明確にされるべきである。
もんじゅについては、安全審査に取り組むべきであり、ナトリウム以外の金属による冷却も含めて研究開発するべきである。日本がFBRのトップリーダーとなることを目指すべき。


6-5 高レベル放射性廃棄物処分:全般

ガラス固化された高レベル放射性廃棄物の発生量は1mg/kWh程度であり、この位の少量であれば、技術的に安全な貯蔵は可能である。
最近の状況を見ると研究施設の設置のめどはついているのではないか。また、一時的に保管するにしても、次の搬出先の保証がなければ、それもできなくなる心配がある。
核分裂エネルギーを有効に利用するシステムとして必要な研究(放射性毒性を持つ物質の分離、消滅)の推進体制の整備が不十分である。これらの研究は着実に進められなくてはならず、大学等にも予算措置を講ずべきである。
研究施設が最終的に処分場になるのではという点は大きな問題ではない。県には建物建築の許認可権があり、廃棄物を入れるかどうかは地元との契約、約束により決まるものである。
いやがるものを無理矢理押しつけるのは駄目であり、六ヶ所では安全だと判断し核燃料税も有りメリットが有るから受け入れた。また、これと並行して現在の六ヶ所村の貯蔵場所以外の新規貯蔵場所の選定も進めるべきである。仏での地下研究所に関する調査でも同様の傾向が見られたが、高レベル放射性廃棄物処分の研究施設の立地の自治体受け入れにおいては、当局が自信を持って説明を行ったことが成功につながった。
何万年か後の人にとって資源としての価値が有るかという議論はあるが、廃棄物を埋設したことについて倫理的な問題が残る。
高レベル放射性廃棄物の処分方法を検討する際は、処分の期間はせいぜい数百年を視野におくべきである。政策を論じるのに数万年後までを考慮してというのは無理がある。
高レベル放射性廃棄物の処分については、現在の世代が責任を持つべきである。次期通常国会では高レベル廃棄物事業について関連法案の審議ができる見込み。
過疎の貧しい所に廃棄物を持っていって、将来住民に障害がでるのではという不安が一般人の最初の反応である。
東海村内には最終処分地が決まるまでの一時的保管という名目で、高レベル、低レベル放射性廃棄物が集められ、その中には自前での発生分以外からの廃棄物もある。しかしながら一向に最終処分場が決まらず、また、高レベル放射性廃棄物の中にはガラス固化体ではなく、液体の状態のままにされているものもあり、これらについても不安だ。
すでにあるプルトニウムはガラス固化体にして、地上管理で直接処分を行うべき。とりあえず地上で管理することを基本政策とし、その後どうするか、研究や議論を進めるべき。
これまで原子力政策は先行的に決定されてきたが、技術的な裏づけが不足している。このような政策と実際の技術の乖離はサイクルの下流に向かうほど著しくなっているので、高レベル放射性廃棄物処分の問題もこの点を考慮して検討されるべきである。
使用済燃料の最終的な処分方法が不明確なままであり、さらには使用済燃料そのものが処分対象となる可能性もある現状において、急いで政策を決定するべきではない。
高レベル放射性廃棄物の処分に際しては、慎重、確実、安全が重視されるべきである。
各国の計画でも回収可能性についてある期間を考えることとなっている。日本の原子力部会での議論でも、同じではないが300年程度は監視を続けることになっており、ある意味で回収可能性を意味している。
安全性の担保が重要であり、リスクが許容範囲であれば倫理的にも問題はない。どの位安全なら安心なのかが問題であり、安全と安心を近づける努力が必要である。
MOXの利用は我が国の原子炉で地道に実証試験を行い、その信頼を回復させる。プルトニウムを今使ってしまうのではなく、使用済燃料は中間貯蔵し、科学技術の進歩を待って、将来の技術に委ねるのがよいのではないか。
高レベル廃棄物、もんじゅについても国際的な専門家を集めた会議を開くべきである。
使用済燃料や放射性廃棄物の問題がはっきり示されていないことが、反対意見の根拠となっている。
仏では回収可能なオプションを残すような方向性がある。専門家ほど、地下のことが分からないことを強調する。地下何千メートルのことは分からないというのが科学の現状であろう。
高レベル廃棄物処分については、深地層処分は放射能汚染の可能性があり、浅地層処分、地上保管等の他の方法についても再検討されるべきである。
現在以上の放射性廃棄物の発生を抑え、その総量が確定してから、これらの処分方法についての議論を行うべきである。
海外の原子力発電事情を見ると、高レベル放射性廃棄物保管計画が確立している国はまだ無いようだ。技術の早期確立とともに、廃棄物が将来再び資源化されると良いと思う。
処分方法の選択肢を示した上で議論が行われるべきである。ただし、群分離、消滅処理が有効かというのは疑問だ。
高レベル放射性廃棄物、核燃料再処理の問題等、現在の原子力政策は問題を先送りしてきた。
安全確保、安心確保のための研究が重要であり、国際的な共同管理構想も含めた施設の整備が重要。事業化において、最終処分場の建設が自治体にとって魅力的となる条件整備が重要。また国民、地元、有識者、ジャーナリストなどがイメージできるような情報を多く提供すること。これらを包括して計画し、並行して進めなければならない。


6-6 高レベル放射性廃棄物処分:処分の方法

専門的には、長期安定性を考えると地下が優れている。多くの人が納得するためには、地下を見てもらう必要がある。
現在、技術的には100点ではないが合格点であると思う。アメリカ等の例を見ると、技術的には成果はあるが社会的には受け入れに至っていない状況。回収可能性は技術的評価も重要であるが、社会的に受け入れられるかが問題。
スウェーデンのストリーパ計画は、国際的プログラムとしての研究施設であるが、地層は処分に適しておらず処分場にしないことを明示している。研究は厳しい条件で行った方がよいので日本でもそのような場所に研究施設を作ればよいのではないか。
アメリカのヤッカマウンテンでは、地下水位は600m下であり、日本の地下構造と状況が異なる。
欧州が地下を選択したことに加え、地下であれば人間環境から隔離できるから専門家は地下の方が安全と思うが、素人は逆に地下では不安になる。素人の発想でこの問題に取り組んだ方がいいと思う。
研究所の処分場への転用は心配である。核燃料サイクル開発機構の第二次とりまとめを見ると、処分する地層をあらかじめ決めている。報告書では結晶質岩としているが、幌延は堆積岩であり、なぜ研究するのか疑問である。
地上に高レベル放射性廃棄物を置くのは処分ではないが、回収可能な状態で地下に置けば、いずれ処分に移行することもできる。回収可能性を保証した地層中の保管であれば受け入れられるのではないか。
地層研究を先行して行うことについて、どこも同じ地層はないので、研究の結果、適切と分かれば、そこが廃棄物処分場になるのではないかという不信感が地元にはある。ルールを作り廃棄物政策法のような枠をはめて進めていく方がスムーズではないか。
高レベル放射性廃棄物を急いで地下に埋設するのは適切ではない。一定期間、地上で保管している間に、並行して新たな処分技術が進展することが期待できる。
地下については検討し、研究する必要があるが、日本では地下研究施設を作るのにも地元などから賛成してもらえない。立地問題であり難しいが、研究が進んでいないと処分の具体性は出てこない。
技術的に合格点なら、なぜ研究所が必要なのか。処分場として有望な場所の方が研究所として望ましいのではないか。
とりあえず、原子力発電所のプールに保存しておいて、消滅処理の研究をする。地下に埋設するのは、日本のプレートを考えると将来まで保証できない。プルトニウムは2万4千年が半減期であり、埋設により2万4千年先の子孫に責任を持たせる訳にいかない。
地層処分の議論では後世の人に影響のないようにというが、事前評価のみならず後世の人がモニターできることが必要である。地上処分というのはそういった考え方の反映ではないか。
地層処分が既に基本政策として推進されていることが疑問である。処分方法についての十分な議論が済むまでは、放射性廃棄物は地上で保管して、回収可能な状態で長期管理されるべきである。すでにあるプルトニウムはガラス固化体にして、地上管理で直接処分を行うべき。とりあえず地上で管理することを基本政策とし、その後どうするか、研究や議論を進めるべき。
最終処分については、青森県知事の公約もあり政治的には時間がない。処分場の候補地が見つかれば、後は時間をかけて技術的問題に対処すればよい。地上で50年程度貯蔵するというのであれば、場所が見つかるであろう。
貯蔵場所として適切なのは地上なのか、地下なのかという議論は、地下貯蔵が本当に安全なのか否か実際に調べて明らかになったときに結論が出る問題である。従って、そのためにも地下の状態を調べる施設を作って研究するべきである。
青森の貯蔵施設で50年、更に新しい地上貯蔵施設で50年貯蔵すると、合計100年貯蔵でき、その間に色々な技術が生まれる。高レベル放射性廃棄物を急いで地下に埋設するのは適切ではない。一定期間、地上で保管している間に、並行して新たな処分技術が進展することが期待できる。


7.国民への情報提供および意見収集

7-1 情報公開のあり方

現状の情報公開はまだ不十分である。情報に客観性をもたせるとともに、アクセスの自由度を高め、前提条件等も含めて分かりやすく、繰り返して情報を開示する事が必要である。
情報公開については、「技術の部分ではきちんとしている」「情報量は多いが信頼性が低い」「前提条件等データの中身がわかりにくい」「部分的に公開されていない情報があり特に経済性に係わるものが少ない」等の意見がある。
現在、国の法律として「情報公開法」が無いのは大きな問題だ。法律が無ければ情報の請求を行うことができないし、そのような環境で原子力関係者が「(情報を)公開しています、これからも公開を進めます。」と言っても説得力がない。現在、法律化が進められている「情報公開法」は例外規定ばかりで話にならない。
事故があれば、まず隠そうという原子力関係者の体質の影響が大きい。今までのごまかしを覆すような、信頼を得る仕事をして欲しい。推進側は、プラスのイメージの情報と同様に、マイナスのイメージの情報も出して欲しい。マスコミにも努力してもらい、正しい情報を出して、正しい知識を広めて欲しい。
負のイメージには、マスメディアの影響が大きいが、それを増殖させてきたのは原子力政策や、事故時の虚偽報告等であり、それはメディアの責任ではない。原子力発電は安全であると言っても、負のイメージ、不信感はなくならない。
原子力の世論は情報の質量により大きく変動するが、現在はネガティブな原子力報道に強く反応する情報不足社会である。安定した原子力世論に導くためには、恒常的な情報提供が必要である。
反省点としては、わかりやすい広報をしていくことが必要であるということである。
市民として、原子力政策決定の背景と実態、市民の疑問に対する回答方法などを納得する形で得たい。
世論調査の解釈は設問や結果の見方による大きく変わりうる。
議論をしていても互いの根拠とするデータが異なる点が問題となることが多いことからデータは検証可能なものでなければならない。しかし現状の公開データだけでの検証は無理である。
国民も発電所見学等により原子力がどの程度安全か自ら確かめることが重要。
知識を伝えても、受け手の準備がなされていないと受け入れられない。誰でも、責任のある立場につけば、不都合な情報も受け取らざるを得なくなり、責任ある決定を行うようになるが、全ての人にその機会を与えることは不可能である。そのため、エネルギー問題について正確な情報を盛り込んだシミュレーションゲームを製作配布し、エネルギー問題について考えてもらってはどうか。
情報公開こそ最も重要なものであるといっても、原子力に関しては、事故などのリスク情報のみがマスコミに取り上げられ、ポジティブな情報は取り上げられない。情報の受け手が備えるべき節度の重要性も訴えたい。
動燃の教訓を踏まえ、事業者は透明性、モラル向上等の意識改革を進めてきた。敦賀2号の事故では、情報を全て公開している。放射性廃棄物の問題については、相当な報告が出ている。インターネット、図書館で見られるようになっている。
現在、日本のエネルギー自給率は原子力を除くと6%しかなく、原子力発電は日本にとって欠かせないエネルギーである。その理解を広めなくてはならない。
国民の大部分は、原子力に対し「良く分からないが不安」というイメージを持っており、そのような人々への説明が重要である。安全でないものを、どう安全に使っていくかの説明が必要である。
日本は原発のリスクを隠すという体質があると思われるが、リスクを公開しながら、引き受けるという考え方について議論を行う必要があるのではないか。
間違いを恐れず、必要な時に迅速な情報提供を行うことが重要である。間違えたら、後で訂正すれば良いと考えることも必要である。公開できない場合にはその理由を正直に言えば良い。
フランスでは、原発の広報部長が独立した権限を持ち、全ての情報が広報部長に集まるようになっている。日本のように現場と本社、現場と役所を頻繁にやりとりしていると、遅れるのは当然で、日本でも工夫の必要がある。
原子力について全国民的な議論の必要性の提案があったが、全国的に議論をしてもまとまらないし、まとまれば大政翼賛会になる。原子力政策の決定を国民に委ねる様な意見もあるが、国民は新聞等マスメディアに影響を受けやすく、新聞が必ずしも正しいとは限らない。
市民側から、どの程度のリスクならば十分安全と考えるのかを逆に提示することが必要である。
国際条約もあり、必ずしも全ての情報公開が可能なわけではなく、その場合には理由を正直に言えば良い。意識改革、カルチャーがどのように変わっているかを外に向けて堂々と発言することも必要である。しかし、それに紛れて意味が不明なまま非公開とされている情報があることも事実である。
原子力発電所の現場で働いている職員は、安全確保のために努力しているという事実をまず理解してほしい。


7-2 国民意見の反映システムのあり方

政策決定システムに市民の意思がより反映されなくてはならない。そのための体制として、全国民的な議論の場を設けるなどの方法が考えられる。
デンマークの例のように、政策決定への市民参画、具体的には市民が専門家から情報を得て判断を行うコンセンサス会議の設立を提案する。
原子力政策について全国民的な議論の場を設けてもまとまらないし、仮にまとまれば大政翼賛会になる。また、市民も方針を誤る可能性があることも念頭に置く必要がある。
国民合意とはどういった状態を指しているのか、明確にするための議論が必要である。そうでないと、原子力を巡る議論は最後には感情的になってしまうだけではないか。
政府は、専門家と一般人を繋ぐような議論を展開できる人材の発掘により、技術をベースにした議論が一般に広がるよう啓蒙に努めるべきである。
原子力政策に関する情報提供に関して、なかなか市民には理解が難しいと考えられがちだが、やり方次第では理解できるのではないか。その工夫が必要である。
国民がエネルギー問題に関するリスクの情報を持つべきであり、その上で国民の意見を求め決定していくことが望ましい。
円卓会議で出された意見は、聞き放しではなく、随時、原子力研究開発利用長期計画の審議に提出されるべきである。また、国民の意見を随時審議に取り入れて、双方向的な公聴会を開くべきである。
フリーライダーの抑制が必要である。対策は、法律による規制、補助金等による誘導、一般人の政策決定への参加による決定単位の縮小である。一般人の行政への参加は、一般人の意識改革につながる。
原子力推進論では地球温暖化防止問題への対応、小資源国の日本がエネルギーを確保するためといったことが強調されてきたが、国民はそもそも物質の大量廃棄、大量消費に疑問を感じ始めている。従って、原子力推進か反原子力かといった二極的な議論ではなく、より大局的な議論を始めて、国民的合意を形成すべきである。
原子力発電所の立地の民主化のため、一人一人の市民の意志表示ができる制度として、法的な拘束力を持つ住民投票を検討、活用すべきである。制度を保証し、その効力をどう評価するのかは、政治が決める。


7-3 円卓会議のあり方

基本方針に「徹底した議論を行うこと」が挙げられているが、年度内で全5回の開催では決定的に時間が足りない。常設化の検討も含めて、来年度以降も継続して開催していくべきである。
原子力委員会には、円卓会議における検討内容をぜひ政策に反映させてほしい。
今回のような議論はそれ自体、数年前まではできなかったことを考えれば意義がある。
結果として井戸端会議になっても、議論は大いにやるべきだと思う。昔、円卓会議に出た時は、閉鎖的で推進派の色が強い印象を受けた。また、原子力の存在は常識かもしれないが、批判的立場の人に対する敵対関係は異常だと感じた。専門知識がなければ井戸端会議にならざるを得ない。
多くの費用と時間をかけている原子力政策円卓会議を井戸端会議にするのは反対である。円卓会議では、利害代表と専門家が一緒の場にいるので、不満がでるのはないか。
エネルギー問題の中で原子力を特別に扱うべきかは議論があるが、防災、核拡散、放射性廃棄物の処理については特別に扱うことが必要。円卓会議が、これらについての議論の枠組みを提供することも有効なのではないだろうか。
国際世論の動向を正確に把握し、それを政策に反映させるということが日本は不十分であった。例えば国際原子力政策円卓会議のような場を設置することが有効である。
日本のエネルギー政策がどのような形で決定されているのかというのは、常に批判されている点なので、そのあり方について円卓会議から提言が出るよう希望する。また、その提言では、原子力政策への国民の参加、省エネ、将来の日本の社会像などにも言及されるよう期待している。
円卓会議は原子力委員会から独立した立場をとっており、原子力研究開発長期計画の審議等、原子力委員会の活動に逐一ものを言うことは考えていない。本年度の円卓会議は来年早々にも提言をまとめる予定である。その段階では原子力研究開発長期計画は議論の最中であり、円卓会議からの提言については尊重されることを期待している。円卓会議には原子力委員をはじめ関係者も出席傍聴しており、何らかの形で原子力委員会側に伝えられると考える。
政府、原子力委員会、総合エネルギー調査会、国民等の関係を具体的に絵を描いて議論したほうがよい。絵を描くために、総合的に評価するための懇談会を設置するべきである。
原子力研究開発長期計画については、予備的検討という形で骨子が作成されている。円卓会議においては、原子力委員会へ原子力政策の方向性について積極的な提言を行うことを目指しているのだから、これまでの円卓会議で出された意見を原子力長期計画へ反映させるよう働きかけるべきである。
円卓会議への出席者として、「専門家」とともに「素人」を含めるべきかどうかという議論がある。「素人」を含めるならば、「素人」に理解できる議事運営をする必要があり、女性参加者も増やすべきである。また、「専門家」の中には原子力推進派に偏らないように留意する必要がある。
原子力政策円卓会議の場ではなく、別の場を設けて、そこに専門家を集めて、エネルギーの評価軸について議論すれば良いのではないか。


8.その他

8-1 原子力委員会

原子力を含むエネルギー全体を対象とした「総合エネルギー委員会」のような組織を各省庁から独立した形で設立し、エネルギー政策全般に対する企画立案機能をもたせて、検討を行う方法が考えられる。逆に、「総合エネルギー委員会」は経済産業省の所管で十分という考え方もある。このように、「総合エネルギー委員会」に対するイメージは人によって様々であるため、まずはその機能について検討する必要がある。
原子力委員会は科学技術庁や通商産業省に対するイニシアチブをとることが重要である。この点では内閣府に置かれることは評価できるし、さらには国会に原子力特別委員会を作る方法も考えられる。
原子力政策についてなぜ原子力委員会という委員会形式で検討を行うのか、という原点に立ち戻って検討する必要があるとともに、原子力委員会そのものに対する評価が必要である。さらに立ち戻って、なぜ原子力が必要なのか、という点も検討が必要であるが、現在の原子力委員会もそのような点について検討する機能は備えている。
原子力委員会は単に産業界の追認をするだけであり、何もしてこなかったため、存在意義がない。廃止するべきという考え方もある。
原子力委員会における議論のプロセスや活動内容が、国民全体から見えて理解してもらえるように、透明性を確保し、説明の責任をもたせるべきである。また、円卓会議における検討内容をぜひ政策に反映してほしい。
原子力委員会には、日本だけでなくアジア全体へのエネルギー安定供給に関する点など、幅広い観点から検討してほしい。また、今後の検討内容としては、放射性廃棄物、使用済核燃料、廃炉などの点を重点的に行ってほしい。
省庁再編で、原子力委員会、原子力安全委員会は内閣府に移るが、機能は現状維持であり、これでよいのか。


8-2 原子力研究開発利用長期計画(長計)

長計の役割は原子力政策のビジョンを示すことである。核燃料サイクルの将来を明確にした長計の見直しを行ってほしい。
長計については「検討対象」「委員の選考方法」「運営方法」「政策判断の客観的方法論」「タイムテーブル設定の方法論」「長計自体に対する評価方法」について再検討が必要である。
長計については、硬直的にならないように、複数の選択肢をもたせるなど柔軟性をもたせる必要がある。長計はこれまで適宜修正はされてきているものの、社会経済情勢の変化、技術開発の進展に追いついていないという見方もある。
長計の中で多様な技術開発について議論されているが、それが外から見えていない点が問題である。また、技術開発には試行錯誤が重要であり、段階的なチェックアンドレビューが行われることが必要である。
日本のエネルギー全てを原子力発電に託すといった考えは、現在の長計においても全くないが、現在、策定中の長計の中で、新エネルギーの可能性についても評価し、総合的にエネルギー全体の中での原子力の位置付けを議論することになっている。
長計は閣議了解事項であり、政府の問題である。国会が関与するなら、例えばエネルギー基本法のような法律を作らないと、単に意見を言うのみになってしまう。
長計ではプルトニウム利用については、FBR、新型転換炉、プルサーマルの順の位置づけであったが、新型転換炉は中止になり、FBRの実用化は50年先となり、脇役であったプルサーマルが主役になってしまった。見直しが必要である。
エネルギー長計を閣議了解事項にしておいていいのか疑問であり、国会で議論できるように国会報告を義務づけるべきである。


8-3 国際・歴史・社会的視点

政府のエネルギー需給見通しが"原子力増設ありき"なのが問題。今日の議論では、増設賛成の人は少なかったのではないか。欧米では、原発は減少傾向にあるが、この現実をどう見るのか。
第三次石油ショックが起きれば、日本が如何にエネルギーを確保するかを本気で考える機会となる。
廃炉については、既に世界で十数台の実績がある。日本でも既に経験もあり、その費用も建設費の1割程度で、必ずしも次世代への負担にはならない。また、原子力発電所から排出される廃棄物の量も非常に少ないため、それなりにお金をかけて、しっかり処理することが可能だ。
超伝導技術の実用化や米ソのデタントにより核兵器が不要になった等の例からも分かるように、現在の知識、状況から先の事を決めてしまうのが良くない。
日本の常識と海外の常識とは大きなギャップがある。
日本だけでなくアジア全体へのエネルギーの安定供給も考慮すると、今後原子力エネルギーへの依存が進むと考えられている。安全保障も踏まえて、協力できることは積極的に協力していくべきである。
中国等のアジア諸国が日本並の産業力を有するようになった時、日本がこれまでのように石油が使えるのかという問題もある。将来にわたっての石油の入手可能性について検討すべきであり、低コストで良質なエネルギーの確保は産業界にとって不可欠である。
欧州では原子力廃止に動いている国が多いという指摘があるが、これら各国間では電力を始めとしたエネルギー供給ネットワークが充実しており、日本とは異なる状況にあることを認識すべきである。
原子力発電に反対の意見があるのは、日本、ドイツ、フランス等の電気を贅沢に使っている国。電力確保が困難な国では、多少安全性に不安がある型の原子炉でも発電を止められないという現実がある。このような現状に対し、西欧諸国は有効な回答を持っていない。
21世紀後半には、途上国の人口増加に伴い、エネルギー需要が増大する。その結果、石油の高騰、石炭発電による環境汚染が懸念され、原子力シフトが起こるだろう。世界では、運転中が32ケ国、建設中は20ケ国で、例えば、アジアでは45基の原子力発電所が計画建設されている。現在ウラン価格は安定しているが、高くなる可能性は強い。
原子力発電所は米国の電力供給量の20%を賄う重要なエネルギーであり、既設プラントは稼動状況も好調なことから、コスト競争力を有していることは明らかである。しかしながら、初期投資が大きいこともあり、新規発注が無い。
ドイツでは、連邦政府と電力業界との間でコンセンサス協議が行われているが、脱原子力の情勢は混沌としている。原子力をやめて足りない電力は、原子力に依存しているフランスから買うと言っている。
日本のエネルギーだけを考えればいいのか、世界のことを考えなければならないのかを考える必要がある。その中で原子力の役割を捉える必要がある。原子力に限らず、自然エネルギーなどを含めて途上国へ提供する技術に取り組むべき。
原子力利用技術は成熟しているわけではなく、世界の中で最も必要としている日本が積極的な技術開発に取り組むべきであり、他の国の動向に左右されてはいけない。
スウェーデンは1980年頃、フィンランドに対して原子力発電設備の輸出を計画していながら、国民投票で国内の原子力発電所の段階的全廃を決めていた。
1992年に開催された「国連環境開発会議」で、原子力は未解決の問題とされ、エネルギーコスト、リスク、ベネフィットが明確化されない限り、それらを基にしたエネルギー政策も正当化し得ない、という意見があった。日本の原子力政策も、その観点から検証されるべきだ。
20世紀は人口の増加、エレクトロニクス等の科学技術の発展が急激に進んだ時代だった。その結果、エネルギー消費も大幅に伸び、「環境」と「人間の営み」のぶつかり合い(Conflict)が激化してきた時代でもある。
廃炉済となっているのは、数百あるうちの十数台であり、残りのものについて今後の処理が問題。
原子力発電は放射性廃棄物の問題もあり、エネルギー政策は次世代への責任も考えて決定されるべきである。
"原子力の半世紀の歴史を検証し、問題点を抽出した後に、議論すべきではないか。また原子力の運営体制について各時点で最前の判断がなされたか考察を行うことも重要である。
評価方法については、タイムフレームなどの枠組みを定める必要がある。"
日本は被爆国ということもあり、原子力放射能に対する抵抗拒絶感が強い。そのような状況もあり、原子力発電はその発足から不幸な環境にあったと思う。
ダイオキシン問題、放射性廃棄物等、今の世代は後世に対して負の遺産ばかりを残した世代であると思われるのは避けなくてはならない。原子力発電は長期的には負の遺産が多いと思われ、その政策について時には立ち止まって考えて、軌道修正することも必要である。
許可手続きをワンステップライセンスにする、ABWRなど次世代炉の開発を進める等により、改善が進んでいる。放射性廃棄物の処理についても超ウラン元素の地層処分(WIPP)を開始しており、ヤッカマウンテンも進展しつつある。このようなことから、米国の原子力発電に変化の胎動を感じている。
石油については、100万年分の太陽の恵みを人類は一年間で使っている。また、地球全体の生物量のうち、約半分は人間および家畜など人間に関わるものである。地球の人口が現在ほど多くなると、その生活による環境負荷が小さいはずが無い。
原子力発電は子供にとって負の遺産となるものであり、人類と共存できるものではないという確信を得たのは、チェルノブイリ事故がきっかけだった。
日本はムラ社会であるが、その弊害を認識して、見直そうとすることが重要である。
日本では「タテマエ」と「本音」、即ちダブルスタンダードが固定化している。このことが電力コスト、原子力の立地問題について顕著である。
日本には「見えるもの」が過剰に重視される一方、「見えないもの」が軽視される、いわば物神信仰がある。このことが特に原子力の事故という危機へのリアリティを欠いている背景となっている。
日本の社会の中で、支配的な操作意識、愚民意識に代表される「トップダウン社会観」と、近年の市民派に代表される「ボトムアップ社会観」という2つの社会観がある。これら2つの社会観をすり合わせる努力が希薄である。
肩書きや専門性から人を選ぶと結果として女性が少なくなる。選ぶ基準を非専門家で、バックグランドを問わずに選べば女性は増える。
原子力に関する有識者の調査が行われた際、女性の比率は3%だけであった。本当に国民の総意を得るつもりなのであれば、女性がもっと参加する必要がある。
「専門家」の議論では、生活者としての専門家という部分もある。
日本では、問題が生じても「なし崩し的に元に戻る」という現象が起こる。過去を風化させないための方法を考えるべき。
原子力発電と社会との関係において、利便性と幸福感の違いを考える必要がある。
大きな問題なのは、無関心層、フリーライダー(社会的ただ乗り)が多く生まれ、欲求の無際限な膨張が充足されるという現代の社会構造である。
原子力技術を利用するに当たっては、現代社会において安全性、経済性がどう捉えられているのか、国民的合意とは何かといった基本理念に基づき行うべきである。
原子力発電の在り方を、原子力の中のみで考えるのには無理がある。社会の在り方にさかのぼり、議論をすべきではないか。国際的視野が大切なことはわかるが、前提として、まず日本の社会がその基本システムとアイデンティティを確立することが必要である。


8-4 核不拡散の問題

プルトニウムの利用については、社会的安全性も含め、核不拡散上も問題である。
核不拡散は日本の信用に係わる問題である。単に余剰プルトニウムを持たないといった方針で対応するのでなく、日本のエネルギー政策とは別に、外交努力により信頼を得るべきである。
核不拡散の問題に関連した外務省の内部文書によれば、日本は核兵器を保持しないが、潜在的な製造能力を有するとの検討を行ったことがある。その意味で、プルトニウムの取扱について、国会で透明性のある議論をするべきである。
核不拡散の問題は、外交努力により解決されるものというが、外務省によるそういった活動というものが見えてこない。
日本は核拡散防止条約の優等生であるべきで、世界のリーダーシップをとるべき。外国から査察を受け入れるだけでなく、査察官の派遣など人的貢献を行い、世界の核不拡散に寄与すべき。
国内では、情報の公開を徹底し、核不拡散技術開発を進めていくべき。国外では、ロシアの核拡散リスクの低減に積極的に協力すべき。
核不拡散は原子力の軍事利用と平和利用との矛盾である。平和利用のためには核廃絶が必要であり、平和利用を担保するために学術会議が自主、民主、公開の原則を提案した経緯がある。また、核不拡散の手段として、保障措置と核物質防護があるが、核物質防護が行きすぎると国際的な透明性が下がる。
原子力に関しては、発電利用と兵器利用を混同して議論されているという問題がある。