<資料5-3>

〔原子力政策円卓会議資料〕

平成11年10月30日 森山文彦

原子力への誤解を解くために我々は何をすべきか?

―“言靈(ことだま)の幸(さきは)ふ國”日本の現状を踏まえて ―

はじめに
 今回のサブテーマ「電力生産地と消費地のあり方」には、電力消費量の大きい大都市とその電力を大量生産している原子力発電所立地点の、それぞれの住民が原子力をどう判断すべきか、が含意(がんい)されていよう。しかし、そういう「あり方」まで局外者が云々(うんぬん)するなど誠におこがましい話であり、先ず一般国民が原子力発電をどう見做(みな)しているのか、かなり誤解されてはいまいか、その難問をどう解けばいいのか、などの諸点を踏まえて考えたい。

1. 原子力発電は、本当に要(い)らないものなのか?
(1)原子力発電は、単に‘原子力のために’存在するものでなく、無資源国日本で使うエネルギーを確保する供給手段中での選択肢(し)の一つに過ぎないという認識を必要とする。
(2)世間は太陽光・風力など新エネルギーに大きく期待するが、厖大(ぼうだい)な需要自体をどう賄(まかな)うか、中東に過度依存する輸入石油を将来ともどう安定的に確保するかが、より重要。
(3)地球環境問題中で最も喫緊(きつきん)な温暖化対策が運輸・民生部門で遅々として進展しない現状から、せめてエネルギー部門だけでも炭酸ガスを排出しない発電方式を優先すべきだ。

2. 原子力発電は、どれほど危険なものなのか?
(1)JCO事故は原子力発電所に直接無関係でも少なくとも原子力関連事業の出来事で、杜撰(ずさん)極まる管理不在に起因することから、全体的な「原子力安全文化」の不備は免れまい。
(2)ただ、一般国民の側でも、原子力発電所における安全確保の実態を認識して欲しい。いわゆる反対派の言う「安全神話」も彼らが唱える「危険神話」も言葉の上だけの問題だ。
(3)より根本的には「利には害を雜(まじ)えて考える」という『孫子(そんし)』の兵法が重要で、現代社会を覆う私的安楽追求の風潮を排し、“現に存在するものの有難さ”をこそ考えるべき。

3. 原子力発電を、社会にどう組み込むべきか?
(1)いわゆる反対派と開発側が自己主張を並べ立てても問題は解決しない。日本が間接民主制を採(と)る以上、エネルギー・環境問題は国民を代表する国会での徹底議論こそが本筋。
(2)しかし、それが機能せず将来とも期待できない以上、供給サイドによるエネルギー需給計画が信用されない現状を打開するため、需要サイドからも計画を策定してはどうか。
(3)その策定作業に対し、関係諸機関は情報提供面での協力を、マスコミは検討過程を具体的に検証して逐一(ちくいち)正確な報道を、得られた判断を国は政策に反映させる覚悟を要する。

要約すれば : ――――
原子力を云々する人の間で「空虚な言葉」のみ浮遊し世間が不安に陥っているのに反し、「それでも、原子力発電は着実に動いて」必要な電力の約半分を供給しているのが実状。
 この現実を直視し、原子力発電を正当に位置づけるエネルギー計画を策定すべきである。

以上

表題(サブタイトル)への補足
◎言靈の幸ふ國(『万葉集』):言葉の持つ霊妙な力によって幸福がもたらされる国、の意。今の日本人は余りにも言葉を安直に使ってはいないか。言葉にもっと敬意を払うべきだ。

1(1)への補足
◎日本の1996年度一次エネルギー総供給量(石油換算5.97億kl)中で石油は55.2%の3.29億klで、殆んど全量を輸入。これも殆んど輸入依存の石炭・天然ガス等を含めて、エネルギーの輸入依存度は79.9%に達する。残り20.1%中には原子力発電12.3%を含むため、純国産分は数%に過ぎない点に注意。(1998年総合エネルギー調査会資料による)
◎輸入石油の中東依存度は、第一次・第二次石油危機当時の77.5%、75.9%から順次減少してきたが、最近10年間は急激な増勢に転じ、1997年には82.7%まで達している。

1(2)への補足
◎前記の1996年度一次エネルギー中、新エネルギー等の分は685万klで1.1%。ただ、その中で490万kl(比率71.5%)はパルプ工場で発生する黒液の燃焼による点に注意が必要。太陽光発電と風力発電の寄与は合計約2万kl分に過ぎず、これらが全体に占める比率は1.1%のさらに0.3%に相当する。(1998年総合エネルギー調査会資料による)
◎同調査会の基本政策小委員会が1996年12月に中間報告として発表した炭酸ガスの削減シナリオにおける試算では、2030年までに排出量を1990年レベルに戻す(2010年に6%削減でない点に注意)対策として8,000万kl相当の新エネルギー導入を提案しているが、そこで太陽光発電は同年まで新規着工等の住宅で2軒に1軒に設備し約4,000万kl相当を、また風力発電は国内適地に直径約40㍍の風車約14,000基を設備し約300万kl相当を賄うというイメージを提示している。しかし、これらは到底実現不可能であろう。

1(3)への補足
◎温暖化防止条約(気候変動に関する国際連合枠組条約)・COP3(第3回締約国会議)の「京都議定書」で定めた目標のうち日本の分は、周知の通り2010年(2008-2012年)温室効果ガス総排出量の1990年レベルからの6%削減である。しかし、その主力となる炭酸ガスの1997年度排出量は、逆に1990年度に対して9.4%増で、部門別の増加率は、運輸部門21%増、民生(家庭)部門14%増、産業部門0.6%増。(環境庁資料による)
◎上記の中間報告では5,000万kl相当の省エネルギーも提案しているが、運輸部門中で自家用乗用車の分は、6大都府県(東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡)で公共交通機関への約3割の振り替えで約600万kl相当を、一人乗り禁止で約1,200万kl相当を節約するという厳しい対応の必要を提示している。これらも非常に難しい課題である。

2(1)への補足
◎「原子力安全文化」という言葉はチェルノブイリ事故を教訓に生まれた言葉で、原子力発電所に関係する組織や個人が原子力の安全性に対して最大限の配慮をし、そういう気風というか文化を組織的に育てていくことを意味する。特にリーダーの役割が重要となる。

2(2)への補足
◎原子力発電の安全対策は会議の主題でもないため省略する。この点については、例えば拙著『原子力屋の呻吟(しんぎん)語 ― 開かれた議論に向けて ― 』(海鳥社)を参照されたい。

2(3)への補足
◎「利には害を雜(まじ)えて考える」という言葉は『孫子』から出たもので、出典の岡田武彦著『孫子新解』(日経BP社)の関連箇所は次の通り。
《「九変第八」第4節/書き下し文「この故に、智者の慮(おもんばか)りは、必ず利害を雜(まじ)う。利に雜(まじ)わって務(つと)め信(の)ぶべきなり。害に雜(まじ)わって患(うれい)解くべきなり」/訳文「だから、智将は必ず利を見ては害を考え、害を見ては利を考える。利に思いを致すから仕事がはかどる。害に思いを致すから禍がなくなる」/評「利害といっても、その見分け方は容易ではなく、利だと思っても害であることがあり、害だと思っても利であることがあり、また利の中にも害があり、害の中にも利がある。利害を考慮するといっても、利害を見分けるだけでなく、利に導き、害を避けるようにすることが大切である。これもまた容易なことではない。変化妙用の兵法は、要するに、害を転じて利とするの一語に尽きるといっても過言ではない」》
◎私的「安楽」追求が全体主義に転ずる危険性については、藤田省三著『全体主義の時代経験』(みすず書房)で鋭利に分析されている。その関連箇所は次の通り。
《現在の「高度技術社会」を支えている精神的基礎は〔中略〕私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全(すべ)て一掃して了(しま)いたいとする絶えざる心の動きである。〔中略〕不快を避ける行動を必要としないで済むように、反応としての不快を呼び起こす元の物(刺激)そのものを除去して了いたいという動機のことを言っているのである。〔中略〕かつての軍国主義は異なった文化社会の人々を一掃殲滅(せんめつ)することに何の躊躇(ちゅうちょ)も示さなかった。そして高度成長を遂(と)げ終えた今日の私的「安楽」主義は不快をもたらす物全てに対して無差別な一掃殲滅の行なわれることを期待して止まない。》 〔注:文中、ルビは引用者による〕
◎“現に存在するものの有難さ”の分かり難さという見事な論点は、堺屋太一著『日本人への警告』(新潮文庫)から引用した。その関連箇所は次の通り。
《“現に存在するものの有難(ありがた)さは分らない”――これは人類社会の普遍的公理らしい。洋の東西、時の今昔、対象のいかんを問わず、“現に存在するものの有難さ”が、正しく評価された例は、まずないといってよいほどである。〔中略〕つまり、“現に存在するものの有難さ”は分り難(にく)く、それがもたらす煩(わずら)わしさばかりが目立つわけである。要するに、人間の想像力などというものは実に浅はかなものなのだ。一方に“現に存在するもの”の欠如という想像を置き、他方に現に見られる害悪や被害という現実を置くと、われわれの議論も判断も、公平と均衡とを著しく欠くことになるわけである》

3(1)への補足
◎1998年9月9日の原子力政策円卓会議における小沢モデレーター発言(議事録p.16)
《今のところ日本の国民は原子力発電所建設には反対しているわけですよね。ところが今まで議論されたものを読んでみると、情報公開されていない、科学技術庁は秘密主義だとかいう議論はしているのですけれども、片方では、日本では原子力はどうしても必要という反論で終わっている。》
◎現状は確かに上記の通りだろう。しかし逆に「日本では原子力はどうしても不必要」という議論、それも技術的論拠をもつ議論に乏しく、心情的・感覚的論議が横行している。
◎原子力関係者に対して「日本では原子力はどうしても不必要」という技術的論拠をもつ正当な判断を提示されさえすれば、関係者は何時でも止める覚悟があると自分は考える。
◎一般の個々人にとって、いわゆる“迷惑施設”は堺屋氏が言うような“煩(わずら)わしさばかりが目立つ”代物(しろもの)に違いない。世に言うNIMBY(ニンビー)( not in my back-yard 、俺んチの裏庭でだったら嫌だ!)現象は、ある意味では至極自然な人間的反応だろうと思う。
◎しかし、原子力発電所などエネルギー関連施設はじめ“公共的”国家的性格を持つ施設の開発は、基本的には国会での徹底的な議論のもとに方向性を決めるべきであろう。本来、事の大小軽重を問わず多種多様な利害対立に至る案件の調整が“政治”の役割ではないか。それが十分になされたなら、問題のNIMBY現象もかなり緩和されるに違いない。
◎官庁資料等では「原子力発電は“国民的議論のもとに”進めるべきだ」とよく書くが、その場合、“国民的議論の場”として具体的に何を考えているのか甚だ不得要領である。

3(2)への補足
◎現行制度でのように供給サイドからだけでなくでなく需要サイドから、また一般市民の立場から現実的なエネルギー需給計画を策定すべきではないかという提案は、『産経新聞』平成8年4月度「オピニオンプラザ」に応募した拙論(別添の参考1)を参照。
◎拙論は米本昌平著『地球環境問題とは何か』(岩波新書)にも触発されたが、末尾引用の「構造化されたパターナリズム」に関し、米本氏は同書で次のように分析している。
《わが国においては、政策立案や社会的決定に関してパターナリスティック(父権主義的)なイデオロギーが共有され、これが構造化されている〔中略〕この政策立案作業の官僚独占という現象の下地には、確実に江戸時代以来のお上意識がある。〔中略〕日本のジャーナリズムは、「口うるさい叔父」の位置にある。〔中略〕日本の市民は、先進国ではめずらしく、実質的に政治的に去勢された「高関心、低行動」という心理状態のままにあり、これが、構造化されたパターナリズムというイデオロギー社会に対応した、個人意識でもあった。》
◎また、新潟県巻町での原子力住民投票に対する考え方の例は、『西日本新聞』「FUKUOKA経済」欄に‘八斗’名で投稿した拙文2篇(別添の参考2)を参照。なお、この参考1、2とも約3年前の古い資料ではあるが、基本的な事実関係と考え方は今でも変わらない。
◎ただ、本文で示した需要サイドからのエネルギー需給計画策定を具体的にどう進めるかが課題であろうが、そういう問題をこそ原子力政策円卓会議で議論すべきではないか。

3(3)への補足
◎原子力発電の真実の姿は、意図的にであれ心情的にでもあれ誤解させられている。一般国民の誤解が解ければ、「生産地と消費地のあり方」などという考え方は無用になろう。
◎ジャーナリスト自身による全体的反省の弁として、原寿雄著『ジャーナリズムの思想』(岩波新書)の次の記述が一つの参考になる。
《社会の底辺の痛みや願望をジャーナリストが共有することなしに、真のジャーナリズム活動はできない。しかし、行動のバネとしての正義感や衝動やエモーションを、一度、理性的に昇華させた次元のクールな客観報道でないと、歴史の歳月に耐えうる有意義な報道は望みえない。〔中略〕日本のジャーナリズムは、これまでの客観報道を根底から問い直し、再出発すべきときではないかと思う。》
◎なお、この“客観報道”主義というものの大きな陥穽(かんせい)とそれに伴う悲惨な弊害の実例は上前淳一郎著『支店長はなぜ死んだか』(文春文庫)*に詳しいが、ここでは紹介を省略し、佐伯啓思著『現代民主主義の病理』(NHKブックス)にある次の指摘の引用に留める。
《ジャーナリストが良心や倫理をもつべきことは言うまでもない。問題はもちうるかである。あるいは発揮できるかである。〔中略〕取材という名の暴力がわれわれの生活を脅かすことも大いに起こりうる。〔中略〕事実を報道すれば客観的であるなどという簡単な論理は通用しないという問題なのである。厳密な意味で、事実の客観的報道などという概念は自己矛盾以外の何物でもなく、さらに言えば、「報道された事実」という言い方さえ、あるいかがわしさをもっている。事実とは、報道されるかぎりで、現実のある側面を切り取ったものであるから、いずれにせよ、暗黙の価値を含んでいることになる。》
*注:同書巻末の柳田邦男氏の解説によると、「ある報道機関のニュース・デスクは、この作品を読んだら、怖くてデスクにつけなくなったと語った。」そうである。

〔 要約 〕への補足
◎1997年度分の国内の原子力による発電電力量は約3,191億キロワットアワーで総電力量の35.6%。電力の上位3社は九州55.4%、関西53.9%、四国49.6%。新エネ発電の比率は全国大で約0.2%。(出典:資源エネルギー庁『原子力発電関係資料』平成11年3月版)