<資料5−3>

氏名  里屋 和彦     職業  会社員 

 今後の原子力(原子力発電の意で用いる)のあり方について、私が主張したいことは以下の3点である。

  1. 政府は、技術をベースにした議論が一般に広がるように、啓蒙に努力すること。その方策の一つとして、専門家と一般人を繋ぐような議論を展開できる人材の発掘に努めること。
  2. 政府は、社会科学的な知識を総動員して、今日の閉塞状況の原因を突き止め、その処方箋を書く努力をすること。
  3. 政府は、原子力発電をやめる場合のシナリオを真摯に描き、その際に起こる様々な問題を国民に提示すること。
 以上は、行政力を持つ政府に対しての要望であるが、そのまま民間、特に電力会社に対しても当てはまる。

 原子力についての閉塞状況は、今日揺るぎ無い所与のものとして、日本社会にその根をおろしている。そのことに対して本来は、高度な知識に持った科学技術者達の真摯な討論が常に行われることが最も大事なことである。それには、まずそういう技術者を尊敬する社会風土を醸成する必要がある。先般の脳死が人の死かという命題に対し、日本社会に最も欠けていたのは、医学的知識をベースにした一般人の言論である。専門家の間では様々な議論が行われていたが、結局、ジャーナリストの立花隆氏の議論に褒貶されていたのは記憶に新しい。立花氏は、専門家の間でさえも恣意的な議論が行われていた空気に一石を投じた。
 今日の、原子力の問題に関しても同じ問題点が指摘できる。技術論抜きで、原子力の問題の本質を見定めることはできない。しかし、一般の人は、日ごろは単に直観で感じる以上のことをわざわざ考えようとしない。今日の行政機構は複雑極まりなく、多くの人は受け身の対応にあくせくしている。そんな忙しい世間の人に対して、原子力発電の必要性を考えろといっても簡単にはいかないだろう。私もその一人である。ただ、原子力なしで、今日の日本のエネルギー需要を支えきれないだろうという直観的な認識を持っているに過ぎない。
 多くの人間にとり、社会的正義の実現よりも、生活の現状維持を望むことに対して、非難はできない。しかし、行政や民間の効果的働きかけによるなら、今よりもずっとましな世論の形成を期待することはできる。その方策の第一歩として、立花氏のような専門家と一般人を繋ぐような議論を展開する人材の発掘が欠かせない。

 そして、今日の問題点の解明のためには、自然科学もさることながら、社会科学の動員がなされねばならない。今日の閉塞状況は、すぐれて社会的課題といえる側面を持っている。エネルギー業界の左派?ともいうべき再生エネルギー派の人達は、原子力なしではどうするのかという問いに流暢に答えることだけはできるかもしれない。しかし、社会全体としてはそうなってはいかないだろうということは、かなりの確度で一般の人でも想像できる。このギャップを埋めるには、あらたな学を構築せねばならないが、社会科学の中においては、社会学による分析がもっとも有効であると思われる。
 日本社会の特質の一つとして、社会的な問題に対する議論が弁証法的に止揚されないことがあげられる。ある人の意見を批判する場合においても、欧米においては、批判は、止揚が行われることが前提であるので、元々の議論の中核部分は継承されるということになる。このことは、批判は継承であるという言い方で人口に膾炙している。日本社会が、何故そういう風土がないかということについては、社会学による分析が最も有効であろう。安保闘争、公害問題等で示された、日本社会の作動法則というべきものをしっかりと解明した上で、今日の原子力に関する閉塞状況の解明と打開のためのプランを考える必要がある。その結論を述べると、冒頭の命題に述べているように「政府は、原子力発電をやめる場合のシナリオを真摯に描き、その際に起こる様々な問題を国民に提示すること。」である。このことによって、世論にバランス感が生じ、結果的に建設的な議論が行われることが期待できるのである。

以上