<資料5−2>

応募レポート用紙

氏名  佐田 務     職業  会社員 

 原発推進の論理の中には、人々がエネルギーに対してもつ欲求をできるだけかなえることを善とする発想がみえる。そのエネルギー需要を、少しでも長生きしたいという言葉に置きかえれば、それは臓器移植の推進の論理となる。
 これらを推進する人々は、ともに人間のもつ欲求の拡大とその充足の過程を善とみなし、自然や環境や人体を資源とみなす合理主義的な態度が優勢だ。先端的な科学技術の中で、その是非について賛否が分かれがちなテーマの中で、その選択は自然をより高度に、そして有効に利用しようとする態度、言いかえるならば自然に対する不遜に近い態度と、人間讃歌の発想とが共通してみえる。
 さらにこの問題に対する政策決定にあたって彼らは、それが広くて深い知識と高度な判断力を要するとの前提にたって、その能力をもった専門家に決定権が付与されていると考えがちだ。そこでの発想には、パターナリズムが貫徹しているといえよう。
 一方、市民運動型の反原発運動の主張は、中央による地方の支配や専門家支配への批判、先ほどのパターナリズムに対抗したインフォームド・チョイス、あるいは権力ゲームという要素を含みながらも、その背景には原発を近代の社会システムのひとつの象徴としてとらえ、これらが巨大な管理装置を通じて人々に一定のライフスタイルを強要しているという認識が無意識のうちにひそむ。そこには原発に代表される産業社会がもつ価値に対する批判、あるいは不器用な異議申し立てという、ある種の文化運動としてのにおいが漂うのである。
 そして原発論争は、皮相的には工学的あるいは経済的なテーマで議論されることが多いものの、この問題で根底的に問われようとしているのは、私たちがこれからめざそうとしている社会はどうあるべきかという、とても哲学的なテーマではないかという気がする。その中核には私たちの生活の自律性のありようとその対極にあるフリーライド(社会的ただ乗り)、そして欲求の無際限な膨張が自動的に充足される今の世の中の価値観の問直しが含まれていよう。
 原発問題をめぐっては、社会的現実を直視したうえで原発推進を主張する秩序志向の人々と、社会変革の可能性を楽観的に考える変革志向の反対派との間には、これらの問題が潜在的、根底的に横たわっているような気がする。そしてもし、根底にひそむ問題がそのように共有されたものであるならば、両者の今日の対立は目標解決へ向けた手段の選択あるいは社会運営に関するものでしかなく、その共有された問題の所在とその解決をめざした志向とを十分意識することによって、両者の対立は相補的分業に変わる可能性がありうる。今後の原子力のあり方をめぐる議論は、こうした顕在化していないすそ野の広い分野に、和解と解決の糸口がひめられているように思えるのである。
(注)この文章は拙著『原発論争』(1996、電気タイムス社刊)の本文内容の一部を要約したものです。