平成11年度 第4回原子力政策円卓会議 議事録

平成11年度 第4回原子力政策円卓会議

1.開催日時:1999年9月27日(月) 13:30〜17:00

2.開催場所:東京ビッグサイト 会議棟6F

3.議題:今後の原子力のあり方について(2)

4.出席者(敬称略,順不同):

 オブザーバー

 お招きした方々

(敬称略,順不同)

5.議事録
【事務局】それでは大変お待たせいたしました。定刻の時間になりましたので,ただ今より平成11年度第4回原子力政策円卓会議を始めさせていただきたいと思います。本日はご多忙の中,傍聴の方々をはじめ多数ご参加いただきまして,大変ありがとうございます。事務局より御礼申し上げます。
 なお,開催に先立ちましてお願いでございますが,傍聴の皆様方におかれましては円滑な会議の運営にご協力賜りますよう,よろしくお願い申し上げます。
 それでは早速ですが,原子力政策円卓会議モデレーター会議座長の木村孟先生に議事進行のほうをお願いしたいと思います。木村先生は東京工業大学学長を勤められた後,現在学位授与機構長の職におられます。それでは木村先生,よろしくお願いいたします。

【木村(学位授与機構長)】ただ今ご紹介賜りました木村でございます。一言ご挨拶申し上げます。
 本日は平成11年度第4回目の原子力政策円卓会議にお集まりいただきまして,ありがとうございました。この原子力政策円卓会議のスタンスについて皆様方に,冒頭少しだけご説明させていただきたいと存じます。
 わが国の原子力政策の方向性をめぐり,昨年平成10年度に原子力委員会からの要請に基づき,第三者的立場から,行政の評価,提言を行う機関としてこの原子力政策円卓会議が設置されました。5回の審議を行いましたが,その結果に基づき「エネルギー源の中での原子力の位置付け」「立地地域の振興についての対応」「国民に見える形でのエネルギー政策の議論」「政策決定プロセスの公開」等について提言をいたしました。その中で最も重要な項目の1つが,この円卓会議の継続的開催の要望でした。
 今回の円卓会議は,この要望にこたえて設置されたものです。ここでは,国民各層の間の原子力に関する議論を徹底して行うとともに広く公開し,原子力問題の状況をより明確に国民の皆様に把握していただくために,原子力委員会に,原子力政策の方向について積極的な提言を行うことを目指しています。このような円卓会議の目的が達成されるためには,国民各層の皆様の広い範囲からのご意見をこの円卓会議にお出しいただき,それについて十分な議論が行われることが必要だと考えています。ご協力のほどお願いを申し上げます。
 それでは引き続きまして,毎回慣例としておりますが,円卓会議に直接お出でいただきました皆様方からご意見の紹介をさせて頂きます。今回は8月23日から9月24日までを期間としてご応募いただきました。会場内の傍聴者から18通頂きました。またその他一般の方からのご意見もいただくことにしていますが,そのような傍聴者以外からのご意見が11通,合計で29通でした。内訳ですが,性別は男性がほとんどでした。年代別では,いつもは60歳以上の方が多いのですが,今回はちょっと珍しくて,30歳代から50歳代までが大変多く,全体の半分以上を占めています。職業別では,会社員の方から多くご意見をいただいていまして,これはいつもと同じです。地域別では,東京や大阪など電力の大消費地が多いということで,これも毎回同様です。
 ご意見の内容ですが,かいつまんでご報告申し上げますと,第1回ならびに第2回のテーマでありました核燃料サイクルならびに放射性廃棄物処理の関連では,「放射性廃棄物処理・処分に関して,特に技術的にわかりにくい部分が多い」というご意見が多く出されていました。「処理・処分の安全性を立証することが必要ではないか」という意見もたくさんいただきました。それから第3回の会議のテーマでありました,今後の原子力のあり方についての関連では,「やはり正しい情報開示と環境エネルギー教育の必要性を痛感した」というご意見,「脱原発シナリオを国及び環境団体が一緒になって,この円卓会議のような場で議論すべきではないか」というご意見がありました。
 毎回この円卓会議の運営に関してのご意見をいただいていまして,「会社員や学生の皆さんのことを考えて,土日等,休日に開催すべではないか」というご意見,それから前回の3回,この4回では一般の方から出席者を募りお加わりいただいていますが,「それによって考え方議論の幅が広がって,非常によかった」というご意見もいただいています。以上が29通いただきましたご意見の主な項目です。
 引き続きまして,本日の出席者のご紹介を申し上げます。先ほど司会のほうからモデレーターという言葉がありましたが,この原子力政策円卓会議はできるだけ原子力委員会から独立した形で推進するということで,われわれ5人のモデレーターにこの運営が任されています。ということで,まずモデレーターをご紹介申し上げます。原子力発電技術機構特別顧問の石川迪夫様。社会評論家の小沢遼子様。慶應義塾大学教授の茅陽一様。元中央大学教授の中島篤之助様。それに私,木村です。それから毎回,原子力委員会のほうからオブザーバーとして木元教子様にご出席いただいています。
 次に本日議論にお加わりいただいています方をご紹介申し上げます。愛媛県の団体職員の嵐英憲様。次に京都大学大学院客員助教授,若狭湾エネルギー研究センター主席客員研究員の大西輝明様。それから会社員で千葉県からお越しいただきました佐田務様。同じく会社員で福岡県からお見えいただきました里屋和彦様。日本経済新聞社論説委員の鳥井弘之様。科学ジャーナリストの中村政雄様。早稲田大学大学院教授で毎日新聞社客員編集委員をお勤めの原剛様。神奈川県の大学院学生ですが,山本挙様。福井県からおみえいただきました会社役員の吉田久美子様。以上の方々で議論をお願いすることになっています。
 それから,毎回この円卓会議ではその時々の司会者と副司会者を決めさせていただいて,その司会者と副司会者に司会進行をお願いするということになっています。本日の司会は茅陽一様と副司会石川迪夫様,お二人にお願いすることにしています。それではマイクロフォンを茅座長にお渡しいたします。よろしくお願いいたします。

【茅(慶應義塾大学教授)】茅でございます。今日5時まで3時間半ほどありますけれども,司会を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。
 この円卓会議の場合,2つやり方がありまして,1つは一般的に原子力というものをどう考えるかという広い議論をする場合と,先ほど木村座長のほうからもお話がありましたように,放射性廃棄物であるとかあるいは核燃料サイクルというようにある程度絞って議論をする場合と,今まで2通りやってきています。
 後者の場合には多少専門的な知識が必要になりますので,そういう方々をお願いしてやっていますが,今回は公募でお願いした方が半分,それからジャーナリストの方々,それから大西さんは専門家ということですが,という形でお願いしていますので,前者のタイプ,つまり原子力全般についての皆様方からご意見を伺うという形になります。そうは申しましても,ただ一般的にあちこちということになると,やや議論が散漫になろうかと思いますので,私としましては,やはりわれわれの今後の社会の中で原子力をどう位置付けるかという,原子力の今後ということについての皆様のご意見を中心に議論をしたらどうかと考えています。
 やり方ですが,この中には鳥井さんあるいは中村さんのように何度かお出でいただいた方もあるのですが,やはり最初ですので,他の方々に意見を知っていただくという意味で,今申し上げましたような原子力の今後という点についてのご意見を,お1人約5分ぐらいで話をしていただきたいと思います。実際には9人おいでになりますので,単純計算をしますと,45分ということになるのですが,初めておいでになった方は5分では済まないという方もあると思いますので,若干のことは認めますが,あまり長く,例えば倍ということになりますと一挙に会議の時間がなくなりますので,その辺は自制をお願いしたいと思います。
 そんなことで,前半は9人の方にとりあえずご意見をまず言っていただいて,そこで休憩をする。そして休憩の後,たぶん約2時間近くあるのではないかと期待していますが,そこで今度は皆さん方の発言をベースにして,ある程度焦点を絞っていろいろ議論をしていただきたいと考えています。後半の議論の仕方は,皆様方のご意見を伺い,その前提条件で休憩時間に少しモデレーター側で相談をして,後半の最初に,このようにやりたいということを申し上げたいと思います。そんなことで全体の流れを動かしていきたいと考えていますが,何かご意見はありますか。よろしいですか。では,そういう形でやらせていただきます。
 発言の順番というのもいろいろあるのですが,やはり一番簡単なのは,席に並んだ順と同じのアイウエオ順ということになりますので,嵐さんはいつもたぶんそういうことで最初になってしまうのでお気の毒だと思いますが,名前のせいだと思って勘弁していただいて,まず最初の発言をお願いいたします。よろしくどうぞ。

【嵐(団体職員)】嵐です。アイウエオ順ということなので,先にやらせていただます。まず初めに私の略歴としまして,自己紹介をさせていただきたいと思います。私の意見のバックボーンとしてお聞きいただきたいと思います。
 まず,14年間原子力発電所に電力の社員として勤務していました。その後労働組合の役員として,現在外のほうから原子力の情勢を見させていただいています。根っからの電気屋でして,いろいろ細かなことが大好きなのですけれども,特に働く人の幸せを願う労働組合としての視点で注視をさせていただいているところです。
 まず私の意見として述べさせていただきますが,まず原子力発電所に働く人々は非常に真面目に取り組んでいるということです。第一義にノントラブルを目指して真摯な努力をしている,これをわかっていただきたいというのがあります。特に作業に従事する人間そのものが安全を心がけて安心して働ける職場を作る,こういった心がけがない限り皆不安になるわけでして,結果的に作業・職場の安全を心がけること自体が,原子力発電所の安全に繋がっているものと考えています。
 原子力は生い立ちから非常に不幸な生まれつきをしています。特に広島,長崎への戦火における被災者,被爆者,これは非常に膨大な数に上り,その原子力とか放射線に対する抵抗,あるいは拒絶感といったものは,特に日本では類を見ないほどひどいのではないかと思っています。若干のジョークですけれども,潜在的には映画に出るゴジラ辺りも,ひょっとして,何かバックにあるのではないかという気はしているのですが。そういったものが原子力に対する非常に大きな障害になっていると考えています。
 ただ,日本としては,現在加工貿易で国が成り立っている資源のない国です。エネルギーがなく,食糧の自給率も4割程度です。そういった中でわれわれがきちんと生活をし,安定した生活を求め,お腹一杯物を食べることができる。これは加工貿易が成り立っているという上での部分です。そういったことを無視して,原子力だからダメとかというのは,あまりに無責任ではないかと考えます。
 特にヨーロッパあたりでは原子力は撤退をしているという言われ方をよくしていますけれども,ヨーロッパそのものが電力網,送電線で繋がっていて,ドイツ辺りでもやめる方向に行っているということですが,実際にはフランス,フランスは特に原子力発電所の比率が高いですが,フランスから輸入をして電力をまかなっている。
 日本はどこともケーブルで繋がっていません。電力の輸出入というのはできない状況にあります。日本のエネルギーを考える時,その現状と原子力の必要性というのは,きちんと広く認識をしていたただきたい。そういったことを認識する運動というのが必要ではないかと考えます。
 そのためには,原子力が信頼されることです。原子力の実務経験のエーキスパート集団等による迅速なトラブル対応チーム,これは野球の解説者ではありませんけれども,「こういう事象があった」「いやそれは大丈夫ですよ」「いや,これはもっとこういうところに注意しなければならない」,こういったことが言えるようなチームのようなものができないものか。これがやはりマスコミの方,あるいは一般の方への適正な情報提供というものになっていくのではないかと考えます。
 また省エネルギー運動の推進によるエネルギーの重要性,それから原子力の必要性などの教育宣伝等も必要ではないか。それから学校教育を含めたエネルギー教育,特に「物作り日本」と言われながら,その技術力が現在空洞化をしている中で,そういった技術力の認識評価,その継承も含めた教育というのが必要ではないか。
 それから,サマータイム等の制度を考えることによって,より省エネルギー,こういったものに対して皆の認識を,あるいは意識を向けていく,こういったことが必要ではないかと考えます。
 原子力を取り巻く環境については,地球温暖化を促すガスを出さないクリーンなエネルギーである,追い風もあります。ただ,新規立地の困難性,うちにはほしくない,うちの近所には来てほしくない,こういった向かい風の狭間で大きく揺れていると思います。ただ,現状で日本がどのようなエネルギーを安定確保し,どのように発展をし,あるいは現状を維持していくかということを考えた場合に,原子力の必要性を訴え続けて理解を求めていく姿勢こそが,21世紀エネルギーを支える根幹だと考えています。私も,微力ながらもこういった理解活動に取り組んでいきたいと考えていますけれども,どうか皆様方のご意見もいただけたらと思います。以上です。

【茅】ありがとうございました。
申し忘れましたが,この会合の中での呼称と言いますか,他の方を呼ぶ場合ですが,実は私を含めまして大学の教師が何人かおられますが,そのことは忘れていただいて,すべて「さん」で呼んでいただくということにしたいと思います。そのほうが話が簡単ですので,そのようにお願いいたします。それでは次に大西さん,よろしくどうぞ。

【大西(京都大学大学院客員助教授,若狭湾エネルギー研究センター主席客員研究員)】大西です。私はOHPを使って説明させていただきます。

−−大西OHP(1)−−

 前回までの円卓会議というのは,政策だとか技術についての原子力だったわけですけれども,人々と原子力の関わり合いということについて一応考えたということです。私の言いたいことは,小さい字ですがここに書いてあります。こういったことです。
 原子力に関してまず最初に,人々の知識量というのが必ずしも豊富ではないということを指摘しておきたい。そういうことから来る具合の悪いことがいろいろ出てきて,それに関して社会教育などをもっと強化する必要があるのではないかということを,まず指摘しておきたいということです。
 世の中の人たちがどれほど原子力に対して知識を持っているか,あるいは持っていないかということを,私は若狭湾エネルギー研究センターというところにいて,そこで私どもが調査した結果があります。見ていただきたいと思います。

−−大西OHP(2)−−

 それがこれです。原子力の知識量分布ということで,この絵は横軸に原子力の知識の程度を−3から3というリッカート指標という指標で表したものです。縦軸に知識の量を,それだけの量を持っている人たちの割合のようなものをプロットしています。黒い線が男性,細い灰色の線が女性に対応する知識の量の分布です。0というのは大体知識が真ん中辺りということです。+3が知識の量が非常に多い。−3はまったくないという分布です。
 そうすると,普通の人たちは大体0ぐらいの,自分でもよくわからないというぐらいのところにピークがあって,両側に知識の量が分布しているような格好で人々は原子力に関する知識を得ているわけです。それから,女性に関して言えば,よく知っている,知識を持っているという人は非常に少ない。0から−のところに階段関数的に分布するという格好で,非常に知識の量が貧しいというか,乏しいという状態になっているということがわかりました。

−−大西OHP(3)−−

 そういう知識の量というのが,原子力に対する態度に直接出てくるということもわかりました。横軸に今の知識の量を−3〜+3までとって,縦軸に原子力に対する恐ろしさのようなものを指標としてとったものがこの絵です。線が何本か出てきますけれども,原子力発電と高速増殖炉に対する恐ろしさのようなものを,知識の量に対してプロットしたというのがこの絵です。
 −3というのは一番知識がない人たちです。知識が増えるにつれて,大体中間どころまでは恐ろしさというのはそんなに変化しないわけですが,知識の量が増えると,恐ろしさというのが減る人と増える人と両方出てくるということがわかった。この辺りから原子力に対する知識というものをPR活動などで与えてあげたとしても,必ずしもそれは原子力に対する恐ろしさというものを低減させるような方向に働くとは限らない人たちがいるということもわかった。こういうことなのです。

−−大西OHP(1)(再使用)−−

 それから,原子力に対しての知識の量というのは,原子力だけが非常に知識の量が少ないというのではなくて,それ以外の一般的な科学技術に対する知識というのも,普通の人たちは非常に乏しいということもわかりました。そのような傾向というのは,普通の人たちでけではなく,若い人たちについても,それから未成年者についても,一般的に言えるということがわかりました。こういったことから,社会的な一般的な科学技術の社会的な教育システムというか,教育制度,社会教育というものがどうしても必要であるということが言えるのではないかと思います。
 それから,2番目に言いたいことは,原子力に対する知識というのは,そんなに豊富ではないということであるにもかかわらず,メディアが報ずる原子力の情報というのは非常に難しいということなのです。そういうメディアの情報というのは,普通の人たちが読んだり聞いたりしてすぐに理解できないくらい難しいのではないかということを,2番目に指摘しておきます。

−−大西OHP(4)−−

 これも同じような調査なのですが,この絵はメディアの報ずる原子力報道のわかりやすさというものを調べたものです。テレビと新聞と普通の広報,電力会社が出すような広報,それから公共団体,自治体が出すような広報,それから雑誌について,上向きになるほどわかりやすいということです。ちょっと絵が小さくてわかりませんけれども。そうすると,新聞というのはテレビに比べて半分ぐらい,わかりにくいということなわけです。活字体というのは,何というか最近は活字離れということが言われていますけれども,活字体にすると非常にわかりにくいということを皆感じているわけです。そういうところについて,ぜひ改善していただきたいということを指摘したい。

−−大西OHP(5)−−

 これは一月ほど前の例の敦賀の事故なのです。普通の朝刊なのですが,全国紙で第1面の一番右上の所に出てきた,その日の一番重要な記事ということなのですが,これを普通の人たちが見てすぐにわかるような内容であるか,書き方であるかというと,必ずしもそうではないわけです。非常に難しいのです。このような新聞の書き方をされたときに,普通の人たちはなかなかわからないわけです。
 そういうことも含めて,メディアの報道の仕方は,全く原子力の知識のない人についてもわかりやすいような報道の仕方をまずしなければいけない。

−−大西OHP(1)(再使用)−−

 それからそういうこととはまた別に,情報を流すような立場の人たちは,メディアからニュースを送る送り手に対して,わかりやすいブリーフィングをやるということだとか,そういう人たちに対して別の教育をやるということが必要なのではないかと,いうことも言えるのではないかと思います。
それからあと3番目なのですが,こういったことに関係することなのですが,PR活動のようなもので提供するような情報の質だとか量に依存して,原子力世論が変わるということなわけです。それからネガティブな原子力報道に強く反応する情報不足社会,情報が不足していると,ネガティブな原子力報道に非常に強く反応するということです。それから後,安定した原子力世論を導くということのためには,恒常的な情報提供ということが必要だということも強調しておきたいと思います。以上のようなことです。

【茅】ありがとうございました。それでは次に,佐田さん,お願いいたします。

【佐田(会社員)】電力関係の業界紙の記者をしています。原発を支持する立場ですが,ここではその話は留保して申し上げたいと思います。個人的には現象よりもその背景にある構造に関心をいだいていまして,原発問題に即して言うならば,推進・反対のどちらの意見に合理性があるかということではなくて,推進とか反対の人たちが持っている価値規範とか文化のほうにより関心を持っています。
 原発推進の論理の中には,人々がエネルギーに対して持っている欲望というものをできるだけかなえることをよしとする発想が見えます。そのエネルギーという言葉を,少しでも長生きしたいという言葉に置き換えれば,それは臓器移植の推進の議論になると思います。これらを推進する人たちというのは,ともに人間の持つ欲望の拡大とかその充足の過程を容認しています。そこでは,自然とか環境とか人体までをも資源と見なす合理主義的な態度が優勢です。先端的な科学技術の中で,その是非について賛否が分かれがちなテーマの中で,そこでの選択というのは,自然をより高度に有効に利用しようとする態度,別の言い方をするならば,自然に対する不遜というか,あるいは昔風に言えば少し罰当たりの態度が見えます。そしてそれは欲望を際限もなく駆り立てられている今のアノミック(無秩序)な,そういった世の中の文化を後押しするのに一役買っていると思います。
 さらに原発問題に対する政策決定に当たって,推進派の人々は,この問題が広くて深い知識と高度な判断力を必要とするという前提を持っています。ですから,その能力を持った専門家にこそ決定権が与えられているという考えを持っているようです。そこでの発想には,最初に専門家と一般の人々の間にある能力の差を大きく見る態度があります。それから今流行の,保護とセットになった支配というパターナリズムが貫徹していると思います。
 一方で立地点型ではなくて,市民運動型の反原発運動の主張の中には,例えば中央による地方の支配に対する批判だとか,あるいはそういった専門家支配への批判だとか,あるいは先ほどのパターナリズムに対抗したインフォームド・チョイス,要するに大衆にももっと政策決定に参加させろという指向,あるいはもっと広くには原発に代表される今の近代の産業社会が持っているいきすぎた合理主義的価値に対する批判とか,あるいは不器用な異議申し立てという,ある種の文化運動としての臭いを感じます。この話はちょっと広くなりすぎるので,これ以上立ち入りません。
 さらに一般の人々は,基本的には原子力に関わる政策決定過程の埒外に置かれていまして,そんなことに不満を抱き,例えば反原発運動のように強引に政策決定に参加することを望むこともできますが,それは一種の強引なインフォームド・チョイスです。しかし,多くの人々はそのような面倒くさいことは通常はしません。一般の人々の政策決定に関われない無力感というのは,通常は無関心へと変化していくようです。もちろん無関心はそれだけが原因ではありません。
 さらにそうした無関心は,義務は最小限にしか果たさない一方で,権利だけは最大限に享受しようとするフリーライダー(社会的なただ乗りをする人)の増加を招いています。またフリーライドの根底にあるミーイズムが集団単位で拒否権を起こすと,NIMBYになります。こうした人の増加が,エネルギー分野だけではなくて,教育とか福祉とか,財政などで,さまざまな問題解決を難しくさせているのは周知の通りだと思います。
 エネルギー問題に立ち返れば,原発の推進派も反対派もエネルギーを心配するという意味では,目標はむしろ共有する部分が多いと思うのです。両者の本当の共通の対象とか,あるいは共通の敵というのは,エネルギーに対して自覚や責任感なしに,それを放埒に使っているフリーライダーとか,あるいは問題解決に対して無能化し始めている人々の増加であり,またそれらを構造化した社会の仕組みのほうにあると思います。
 ご承知のように季節はずれのタケノコというのは,地面の中にニクロム線を埋めて,それを温めて作ります。けれども,今の社会はそれを異常だと思っていません。今の社会はむしろそんなことを当たり前だと思っていて,そんなことを前提としてエネルギー需要が伸びている,省エネは難しい,だから原発などの発電所をもっと造らねばという話がまかり通っています。
 推進派の人々は,基本的には社会的現実を見据えた上で,つまり人々の意識や構造などというのはなかなかそうやすやすとは変わらないと考えて,原発推進を主張しています。一方の反対派の人たちは,社会変革の可能性を楽観的に考えるラジカルな変革指向が優勢だと思います。原発推進の論理が正当性を持っているというのは,フリーライドとか大量消費といった重要問題を先送りにした中での話でしかないと思うのです。本当の環境のことを考えるのであれば,エネルギー源の一部を原発にシフトすると同時に,あるいはその前に,エネルギー需要の膨張そのものをまずくい止めることが先決になると思います。大切なことは原発を使って後の世の負担を減らすといった小手先の話ではなくて,人々に責任能力を持たせる文化を築いて,それを伝えることだと思います。この点で両派は一致できると思います。
最後に推進・反対両者が,最終的には推進とか反対とかという名前すらもなくなって,単にエネルギー問題を心配するグループとしてお互いが分業して協力するほどの関係になるほどの変化が両者に起こることを,個人的には将来の理想像として描いています。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは次いで,里屋さん。

【里屋(会社員)】里屋です。今日はこのような機会をお与えいただきまして,ありがとうございます。私は今後とも原子力は慎重に推進していくべきという立場なのですが,その論拠をとうとうと述べる力量はありませんので,今日は別の観点から述べさせていただきたい思っています。
 これまで円卓会議だけでなく,原子力については相当にぶ厚い議論が行われているのは一応承知していますので,そういったつもりで私のレジメを作成しています。私のレジメはちょっと失礼な書き方をいろいろしていますが,その辺はご容赦いただきたいのですが。
 まず第1点は,各論で定量的な技術論をもっと知識層にということです。知識層が弱いのは日本社会の特質であると思うのですが,私は一般の人の啓蒙というのは,基本的には無理だと思っています。今日,原子力についての閉塞状況というのは社会現象になっていますが,もともと因果関係で考えてみると,根本的には技術論があるわけで,あえてこういう言い方をしますが,反対派のプロの方たちというのは,どちらかというとバックエンドに関する状況にその反対の論拠を置いていると思うのですが,私は事故の問題の方が第一義的であると思っています。
 先般の脳死の問題で,そこ(レジメ)に私が立花隆さんのことを書いているのですが,「脳死は人の死と思いますか」という単純な質問で,イエス・ノーと答えるような質問というのはよくなされていたのですが,そもそも脳死の定義をはっきりさせないままそういう設問がなされていたことに,立花さんというのは一石を投じたのではないかと思っています。それが原子力についても同じような形で言えると思うのです。単純にそういう設問をするというのは,やはり危険なことだと思っていまして,それなりに段階を踏んで行ってみると,ほとんどの人がやはりよくわからないというのが正直なところだと思っています。
 10年ほど前,圧力容器等についてのいろいろな技術的な討論というのをTVで何回か見た覚えはあるのですが,その時に推進・反対の両派のいろいろな主張というのがなされておりましたが,その両面の間をうまく繋いでくれるような人材というか,そういう人がどうしてもやはりほしいなと思いました。残念ながら自分でもそこができないのですが,そのような人材というのを国家で発掘してほしいというのが第1点です。
 それから第2点については,今日の閉塞状況というはスリーマイルとかチェルノブイリによって引き起こされた社会現象ともいうべきものですが,こういう空気というか,そういうものを押さえるというか,対応するためには,はっきり言って言論とかそういう力ではなかなか対応できないと思っています。どうするかというのは,社会的な外力を使うしかないでしょう。政策とか,教育とかも当然挙げられると思うのですが,それからエポック・メーキングな本が出るとか,そういった形で何らかの社会科学的に有効をみつけてそれを作用させないと,なかなかその空気に対応するのは難しいと思っています。
私なりの考えが,3番目に書いてあることです。「原子力発電をやめる場合のシナリオを真摯に描け」ということで,第3回の円卓会議の議事録を拝見した時に,脱原発の話というのが話題になっていたのですが,私の言うのは少しニュアンスが違っています。あえて推進側の方からということを主張しています。少し大げさな言い方をすると,日本の言論空間というのは,大きな問題については両派のスローガンが膨らむというところがあります。例えば安保賛成・反対,古いところになると開国か尊皇攘夷かと,無条件降伏か一億総玉砕かという形で膨らむような形にどうしてもなりがちなところで,それが弁証法的な展開を遂げないというのが日本社会の特徴だと思います。それを嘆いても仕方がないですが上記の経験を踏まえて考えれば,反対側の大きなスローガンをしぼませる1つの手段として,逆に推進側があえて脱原発のシナリオを示して見せる,そういうことによって,フワッと反対する人たち,フワッと賛成している私のような者もそうかもしれませんが,そういう人たちがそぎ落ちて,もっと建設的な議論が行われるのではないかと期待します。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは,鳥井さんお願いいたします。

【鳥井(日本経済新聞社論説委員)】いつも似たような議論をしていますので,また繰り返しかと思われるかもしれません。少し観念論的な話をしたいと思います。
 例えば石油というのを微生物が1億年かかって地球で作ってくれて,地球の中に溜めておいてくれた。これは本当に1億年かどうかわかりません。でも,1億年かかって溜めておいてくれた。こう考えるわけです。それをわれわれが百年で使ってしまうと,百万年分のエネルギー,太陽の恵みをわれわれは毎年使っている。単純な計算をするとそういうことになるわけです。
 それから地上には,動物量というらしいのですが,動物の平均的体重と個体数を掛けた動物量というのは30億トンぐらいの動物がいるのだそうです。一番その中で多いのは牛で 6.5億トンぐらいいる。その次が人間で,その次が豚,羊,鶏,全部,人間を含めて,人間と人間に絡んだ動物,これで15億トンだそうです。残りの野生の生物は15億トンしかいないのだそうです。それだけ人間絡みの生き物が増えれば,野生の生物が減るのもむべなるかなということです。
 かくかくしかじか,われわれ人類というものが60億人も住むようになると,環境にいいわけがないわけです。うまくやってなどいう話ができるような,百万年分,生物量の半分,うまくやってできるというような話ではどうもなさそうだという感じがするわけです。
 そういうわけで,ではいかに減らすかということを考えなくてはならないわけです。1つは,いろいろ生活を切りつめたり,貧困で人がたくさん死んでしまったりして,それで毎年の太陽の恵み1年分で,つまりストックを使わずにフローで生きていくというのが1つの選択肢です。もう1つの選択肢は,非常に自然界とのやり取りというのを減らして,何とか隔離してやっていくというのが2つです。これもどちらかということではなくて,たぶん両方やることだろうと思います。一番よいのは、たしかにフローで暮らせる話でしょうから,新エネルギー,太陽だとか風力を一生懸命やる必要はあるわけです。でも,それで足りないのはどうするのか。途上国の人たちは死んでもいいよとは言えないわけで,そこでやはり隔離型の技術も必要だという話になる。
 隔離型の技術というを考えてみると,原子力が最たるものだと思うのですが,例えば 100万kWの原子力発電所を1年間運転した時に,石油を使うとすると大体 140万トンとの物量を燃やすわけです。そして廃棄物として出てくるのは,CO2で見えませんからわれわれは気にしないわけですが,これの約3倍くらい,つまり 520万トンくらいの廃棄物を,これはCO2だけですが,パカパカ出しているわけです。
 一方原子力発電所を考えると,大体30トンぐらいの燃料が入ってきている。 140万トン対30トンです。万がついていない30トンです。それが入ってきて,それが外に出ていくという格好になっているわけです。そうやって考えてみると,やはり隔離型というのが必要だとすれば,原子力というのは意外とよいかなという感じがするわけです。
 さてそこでですが,では今の原子力の技術で本当によいのかというと,なかなかそうも言えないところもあるかもしれない。つまり,原子力の技術というのは何十年か進んできたわけですが,多くの技術を考える時に,どこかで非常に大きな転換が起こって改良される。自動車を考えても,最初は電気自動車だったわけですが,それが内燃機関にいくという格好で,何回か変換を繰り返して非常に完成されたものになっていくわけです。原子力はどうもそこが,1つはどうもあまり転換したことがないということで,やはり技術のコンセプトの革新というのが生まれるような環境を作っておく必要があるのではないか。今まではなかなかそれができなかった。
 それにあたって,私が思いますのは,例えば安全であるとか,経済性であるとか,国民的合意というのは,こういう言葉を1つ1つの施設について,「ここに原子力発電所を造ります。これは安全ですか,安全ではありませんか」という議論をするのではなくて,われわれは,現代社会は安全という問題についてどういう思想を持っているのかとか,経済性ということについてどういう思想を持っているのか,国民的合意ができた状態というのはどういう状態だとか,そういったことについて,基本的なことについて社会的な合意を作って,それをきちんと達成するというような形で,技術革新を進めさせていくことが大事なのではないかという気がします。
例えばその安全ということを言いますが,安全というのは「今の原子力技術は安全でしょうか」という問いかけをされると困るのです。安全というのは何だかわかっていないわけです。私はそういうことを聞かれた時,「では,あなたは今の自動車は安全だと思いますか。砂糖は安全だと思いますか。コーヒーは安全だと思いますか」と聞くわけです。これも程度で,絶対に安全で,絶対に危険だったりしない。この辺になったり,この辺になったりするわけです。そういうことで,やはり安全ということについて,もう少し社会的コンセンサスを作っていくという努力があった上で,それを達成する方向で技術革新が進むような仕組みを作っていく。これが原子力のこれからに対して,非常に重要なことではないかと考えている次第です。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは中村さん,お願いいたします。

【中村(科学ジャーナリスト)】今後の原子力のあり方について,3点申し上げます。
 1つは,私は原子力は日本にとって欠かせないエネルギーだと思うのです。日本のエネルギーの自給率は18%だと通産省は言っていますが,そのうち12.3%は原子力で,原子力を除けば6%もないのです。そういう状況で将来石油がだんだん値上がりをしていく時に,いったい日本はやっていけるのかどうか。私は自然エネルギーを含めて原子力も,できることなら石油や石炭,ガスなどに代わって増やす必要がある。特に石油・石炭というのは,世界的にみると化学工業の原料としてやはり先細りですから,できることなら燃やさずに化学工業に使いたいと思います。それから地球温暖化防止の点からみても,原子力は全地球的に必要であるということです。そういうことについて,もっと私たち国民は理解を深める必要があると思っています。
 この原子力についての不安を七十数%の人が持っているわけですが,最大の理由というのは,放射線は少しでも体に有害だと思っているからなのです。本当にそうなのかどうかということを,もっと解明する必要があると思います。つまり自然界には放射線が存在しますし,人類は発生した時から放射線に曝されてきたわけです。大量の放射線というのは明らかに有害ですけれども,少量の放射線については,むしろ必要なのではないかと思います。
 紫外線もその1例ですが,少しでも有害だという方もいますが,昔は紫外線を浴びなければいけないと言われたわけです。その辺すらはっきりしていないということは,非常に問題ではないかと思います。広島,長崎の被爆者の平均寿命は一般の人より長いわけです。この事実は,放射線が人間の健康にとって有用かもしれないということを示しています。中国でも,ある地域では,自然放射線の強い所の人たちは寿命が長いという中国の科学者による調査があります。
 それから,放射線は体の免疫力を高めるという研究も出ています。それは本当かなという感じで世の中に受けとめられていまして,本当かどうかはっきりしないわけですが,少量の放射線は人間にとって有害ではないということがはっきりすれば,この原子力の利用に対する不安というものもずい分和らぐと思います。ですから,放射線と国民の健康の関係をもっと解明してもらいたいと思います。
 それから,原子力のエネルギー利用というのは,これまで考えられた,つまり現在利用されてきた範囲内におさまるものなのかどうかということなのです。高速増殖炉とか核融合とかもありますが,例えば原子力発電炉というものについては,多少の改良をする程度で終わりなのか。つまり,水力発電や火力発電と同様に,原子力発電の技術というのは,成熟した技術になりつつあるのかどうかということです。私は,原子力エネルギーはとてつもない大きい力を秘めていて,その利用の仕方が今の状態で成熟するということであれば,あまりにももったいないと思います。
発電炉にしても,南アフリカは新しい小型炉を開発中ですし,アメリカも新しいタイプの炉の実用化を目指して,今研究に取りかかっています。世界のどの国よりも原子力を必要とする日本が,先進国の顔色を窺いながら後をついていくという状況では,若い人たちにとって魅力がないし,原子力そのものに対する魅力もないのではないかと思います。ですから,若い人の共感を得るように,若い学生さんが原子力に情熱を再び燃やすような,そういう方向に向かっていただきたいと思っています。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは原さん,お願いいたします。

【原(早稲田大学大学院教授,毎日新聞社客員編集委員)】私は現在早稲田大学の大学院,アジア太平洋研究科というところで,環境と持続可能な発展というプロジェクトを担当している者です。しかしながら元来は1961年以来,毎日新聞社の,主として社会部の記者を勤めてきました。環境問題を都市問題と農業と関連させ取材をしてきました。水俣病の初期から30余年間現場を見てきた,いわば環境ジャーナリズムの1期生と言えるかと思います。その体験に基づいて,今日の課題である今後の原子力のあり方について述べてみたいと思います。
 ずい分長いこと環境ジャーナリストの経験があると申しましたが,外からご覧になって不思議に思われるでしょうが,いわゆる原子力問題の取材体験はゼロです。同時に,例えばタンカーの廃油で海が汚れる重油汚染,このような問題についても取材経験はゼロです。重油火力発電から生ずる窒素酸化物や硫黄酸化物の汚染は,大気汚染防止法の最も中心的な課題です。しかし原子力発電から発生する放射性物質の環境へのリーク,あるいは貯蔵問題というのは,原子力関連法により環境行政の対象外とされてきました。タンカーによる重油汚染もそうです。
 新聞社というのは,他のセクト,派閥を攻撃するには急ですが,実は大変セクショナリズムの強い存在でして,したがって私は科学技術庁も担当しなければ運輸省も担当していなかったわけですから,この2つの環境問題は見事に筒抜けになっているというしだいです。いわば記者としてこのテーマにはオフ・リミットであるというわけです。
 そうは言いながら,こんなことは外国ではまったく通用しません。従って,それなりの勉強をせざるを得なかったというわけです。原子力発電所にも何度も赴いています。
 私は特異な体験を持っています。1986年の4月28日,ご承知のチェルノブイリの原発事故がありました。その折に,運悪く私はスウェーデンに滞在してしまして,数万ベクレルの非常に高濃度汚染の続いた地域を約3か月間取材をしました。つまり,私はチェルノブイリの灰を最も被った日本人の1人です。そしてそのことが,スウェーデンという社会にいかなる現象をもたらしたかということも間近に,つぶさに経験することができました。
 ジャーナリストというのは最初に「ねばならない」という演繹的な思考ではなくて,とにかく無手勝に,あらゆる先見を除いて,現場に出て,そこにあるいくつかの現象からある共通性を見いだすという,いわば帰納法的な考え方をするものです。そういう例に倣い,1,2ご紹介したいと思います。
 スウェーデンは現在12基の原発を持っていて,おそらく42%前後の電力は原子力発電によってまかなっています。世界でも最も先進的な原発国です。ちょうどこのチェルノブイリの事故が起こった時に,隣のフィンランドに原発の設備1式を輸出する準備が進行中でした。パルメ首相が暗殺された直後ですが,その安全性を問われたカールソンという首相がこういうことを言いました。「ソ連の黒鉛型の炉というのは,おもちゃ箱のようなものである。あんなものとスウェーデン製の原発を一緒にされては困る」と。大変失礼というか,本当というか,よくわかりません。
 しかし一方では,非常に注目すべきことは,79年のスリーマイルズ・アイランドの事故の後で,1980年のことですが,スウェーデンは国民投票で原子力発電所の全面廃止を決定しています。この全面廃止を決めた理由は少し古いのですけれども,ラスムッセンレポート,「 100万個の原子力発電所が稼動している。その時に1年間で1回の大きな事故が起こるであろう」という,いわゆるラスムッセンの確率と言われるものが,79年,80年の当時は原子力を考える時の基本だった。まあ大丈夫だろうということで,スウェーデンは原発を大量に採用したというわけですが,スリーマイルズ島事故に続くチェルノブイリの事故によって,原発全廃のスケジュールを前倒ししようということが問題になり,カールソンはエネルギー協議会にもっと早く原発をやめるべきだということを諮問したわけです。
 つまり,一方で原発を輸出し,他方で自国の原発の廃止を進めようとする,この矛盾した政策に,私は今日の原子力の安全性,ならびに政治性,経済性を巡る状況が集約されているように思います。すなわち,安全性と原子力政策は相対的な域を脱し得ないであろうということです。
 スウェーデン製原発の安全性に大変自信を持っているスウェーデンの人々が,私は大変驚いたことに,チェルノブイリの事故で意外な反応をみせます。折悪しく北東風が吹いていて,雨を伴ってスウェーデンの上空に大量の,ポーランドを上回るような放射性物作をもたらし,大騒ぎになりました。町の中であちこちに人が行列を作っていて,私も野次馬で並んだのですが,こういうものが出てきました。これはクリーム,こちらはヨードカリの錠剤です。これを飲むとセシウムが頚部に溜まってガンになるのを防ぐことができるのです。私の知っている大学教授は日本をよく知っていまして,「君はしょっちゅう海苔だの昆布を食べているから,こんなものは飲まなくてもいいのだ」と言いましたが,これは 280円で10錠入っています。こちらは塗ると灰に対して強いと。長蛇の列ができていて,町中の薬屋さんでそういうものを売っていたということを大変印象的に覚えています。そういうものであるかなという感じです。
 したがって,私自身のこのような現場感覚が,物事を見る時の原点になってしまっていたということがあります。その上で,今日の課題について結論を申し上げると,私は常にこの問題を考える時に,1972年のストックホルムの国連環境会議,その10年後に開かれたケニアでの同様の会議,1992年のリオデジャネイロの地球サミット,この3つの大きな地球サミットのちょうど中間に位置するナイロビの会議のあとで猛烈に国際世論が分裂して,戦争が始まりそうだ。原子力の爆弾のほうですけれども,10年間に五十数回大気圏内を含めた実験が行われるという激しい状況の中で,これではとても国際社会は持たないということで,日本政府,この間亡くなった原文兵衛さんが長官をなさっていた環境庁の提言,それから国連の決議で,ご承知の「環境と開発に関する世界委員会」,ブラントラント委員会という21か国の賢人を集めた会議ができて,有名なブラントラント報告「われら共有の未来」というものをまとめわけです。その中で確か21か国から大臣や政治家が参加していますので,原発に関する意見はさまざまでした。しかし,注目すべきことはこういうことを言っています。「原子力発電はこれにより生ずる未解決の問題に関するはっきりした解決策即ち,未解決の問題とはエネルギーのコスト,リスク,ならびに便益( benefit)が明快に示されない限り正当化し得ないという点につき,委員全員の一致を見た」という指摘です。
 これは日本に引き替えてみると,いったい原子力のエネルギーのコストはいかなるものであるか,リスクはいかなるものであるか,便益はいかなるものであるか,さまざまなもの,しかも単にコストというものを固定的に考えることなく,例えば補助金とか税の操作によってコストはいかようにでも変わるものですが,そういう変動関数を置いた上で原子力について相対的な価値判断をすべきではないか,これが第1点です。
それから第2点は, 550万台日本には自動販売機があります。外国を旅行されて,これは異常だということは万目の認めるところです。1台の自販機というのは標準家庭の大体70%ぐらい電力を消費します。こういうものを際限なく作っておいて,2010年は電力が足りなくなる,したがって原子力発電所を20基増設しなければならないという,政府の考え方については,私はまったく同意できません。需要があるから供給せねばならないという論理に対して,環境問題を追ってきた者として,天然資源や環境資源の有限性というものを重々注意しなければならないと考えます。議論をしている間に,事態は先行する。しかも,それは irreversible changeだ。不可逆変化になるかもしれない。そういう現状においては,需要があるから供給するというこの思想は,人口と食糧,エネルギーと原発,すべてに及ぶ1つの警戒すべき議論ではないか。つまり,原子力エネルギーも抑制的に考え,原子力政策は抑制的に行われるべきであろうというのが私の見解です。

【茅】ありがとうございました。それでは山本さんお願いいたします。

【山本(大学院生)】山本です。よろしくお願いします。
 原子力は本来エネルギーなわけですが,最近その名前を聞くのはCO2削減問題に関する地球の温暖化の問題です。そこで使っているのは軽水炉でして,軽水炉はしょせんウランを用いています。ウランというのは鉱物から採るので,結局化石燃料の一種のようなものになります。ということは,これはエネルギー問題として考えた場合には,このウランを使っている限りは何も解決になりません。いずれそれは枯渇するものになります。ただ,海水中のウランを用いればということもありますが,これはそれほど現実的とは言えません。
 そこで原子力が一番注目されているのは,高速炉でのプルトニウム利用だと思います。高速炉というのは将来性は十分であるということは比較的言われているのですが,「もんじゅ」の失敗やらいろいろありまして,今止まっているのかどうかわかりませんけれども,あまり進んでいない状況になっています。そして,諸外国も比較的高速炉からは手を引いています。だからと言って,日本が外国に倣って手を引くのはどうかと思います。他がやらないからと言って,日和見的にやめるというのは,逆に他がやらないからこそ,今日本がやっていくチャンスではないかと思っています。
 ただ,ただやるというのではなく,ここではやはりプロジェクトとしてやっていくのが必要だと思っています。それは,軽水炉というのは比較的断片的な技術を集めているので,それに付随する技術というものがいまいち一貫性がないというようになっています。ただここでプロジェクトとして高速炉を始めていくと,そこに一貫性のプロジェクトして行うことから,例えば安全とかは,本来全体としての安全というのを皆は求めているのですが,科学者というか研究者は個々での安全を比較的論じがちになりますが,そういうものも,一貫したプロジェクトとして行うことで避けられると思います。
 ここで高速炉というのは,思い切って小型炉からスタートするというのがよいと思います。今新しく高速炉を始める場合に,大きい物を造ってから小さくするという,大きい物ありきの小型炉という考え方だと思うのですけれども,初めから小型炉として,大きい物は考えずに,軽水炉ではないので,もう新しいものとして進めていくことが必要とされていると思います。そして,小型炉とすることで,ワールドワイドな,アジアなども見据えたエネルギー問題というものも解決していくと思います。
ただ,原子力というのは比較的,放射線というものがあるので環境にとけ込みづらいというものがあります。それも個々に安全性を評価している状況では,どうしても専門的な言葉を用いなければいけなくなります。そのために一貫した全体としての安全性を,エネルギー問題,環境問題に交えて,解決策の1つとして考えていくことが必要ではないかと思います。原子力というのは,どうしてもエネルギー問題や環境問題の解決策の1つの手段に過ぎないということの地位を築くのが,意外と難しいように思います。どうしても原子力だけで片づけてしまいたいというか,そのような考え方が多いと思いますが,この解決策の1つとしてこれからは進んでいき,そして新しい一貫性を持ったプロジェクトとして小型炉というものを推進していくのがよいのではないかと思います。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは最後になりましたが,吉田さん,お願いします。

【吉田(会社役員)】今回このような場所に発言できるチャンスをいただきまして,ありがとうございます。それでは,意見を述べさせていただきます。
 私は原子力発電所が集中しています福井県より今回参加しました。現在思っていることとしては,高浜原発の3,4号機のプルサーマル計画,敦賀原発3,4号機の増設,「もんじゅ」の運転再開の即時中止を,県民として私は求めていきたいと思います。実際声は出ていませんけれども「福井県内にはもう原発はいらない」というのが福井県民の声だと思っています。また,1995年の「もんじゅ」の事故の際,この後ですけれども,福井県内35市町村あるのですが,その30自治体で「もんじゅ」に対する永久停止,そしてそのうちの7自治体では,廃炉を求める要求を議会が意見書として国と当時の動燃に出しています。
 また,私の住んでいる所は原発から30キロ圏に入る距離にあります。これは事故が起こった際に約1時間で放射能がたどり着く距離にあります。1995年の「もんじゅ」の事故から後,私たちの自治体では全住民に行き渡るだけのヨウ素剤を各地区の公民館に常備し,いざという時に備えています。これは福井県内外のいくつかの自治体にも同じように備えているところがあります。また,阪神淡路大震災をきっかけに見直された防災計画では,原子力発電所で事故が起きた際の対策も盛り込まれて作成されています。
 それからこれは,これに参加するということで最近聞いた話なのですが,「もんじゅ」,敦賀の1,2号機,それと「ふげん」が実際にある敦賀市の市民の方が,自分たちの子供たちが就職とか進学とかで敦賀市を出る際には,「もう敦賀には帰ってこなくていいよ。あなたたちはできるだけ安全な場所で生活しなさい」ということを言う方がいるそうなのです。これは特異な人ではなくて,少なくないそうです。これは本当に私自身も驚きました。
 次に,原子力発電所は地球温暖化防止対策にならないと思います。なぜかというと,原子力発電所は化石燃料と違ってCO2をほとんど出さないから温暖化の防止になると言われていますが,実際発電だけを比べれば,言われているようにCO2は非常に少ないと思います。しかし本当に意味でCO2の発生量を比べるのであれば,ウラン燃料の採掘から高レベル廃棄物の処理までを含めた上での費用を含めて,1kWh につき排出したCO2の量を比べなければ正確な数値ではないのではないかと思います。
 それと,原子力は石油の代替エネルギーと言われていますが,それも違うのではないでしょうか。それはなぜかというと,原子力発電所で実際発電を行うためには,ウランの採掘から始まって,加工,濃縮,海外からの輸入ですから輸送,原子力発電所の建設,使用済み燃料の保管,再処理,廃棄物の冷却保管など,それをすべてまかなうのは原発ではなく,石油エネルギーを使っているという事実を知らせるべきではないでしょうか。そうしないと,原発は石油エネルギーの代わりになるということは言えないのではないかと思います。
 そして,放射性廃棄物のことをおっしゃる方はあまりいらっしゃらなかったのですが,実際1年間 100万 kWの発電所が運転すると,約30トンの使用済み燃料が出ます。それを再処理した後に15トンの高レベル放射性廃棄物が発生するということになっています。その高レベル放射性廃棄物は,現在ガラス固化体として地中に埋めて処分する方法が予定されていますが,保存期間はとりあえず1万年とされています。しかし,このように途方もなく長い期間,どうやって安全に管理していくかという答えは,いまだに関係者からは出ていませんので,これはあくまでも非現実的な話ではないかと思います。
 それと,これからの原子力の方向性を打ち出して行くとき,原子力発電所は本当ならばなくても電力が不足しないことを,放射性廃棄物の管理は技術的に困難な上膨大な資金とエネルギーがかかること,平常運転中でも放射能は出され続けていること,それから1993年現在の資料なのですが,運転するために,正社員ではなくて,下請け,孫請けの方の従業員が30万人以上の人が原発被爆労働者となっていること,そして事故発生時の人的経済的な被害についてははかり知れず,環境にも重大なこと,そして,これは極論なのですけれども,原発は核兵器と直結した技術であること,そして,世界は脱原発に進んでいること,また,新エネルギーの最新の情報を国民に対して科学技術庁と通産省は,マスコミに対して全国の国民にわかりやすく情報を出していく義務があると思います。その上で推進か撤退かを問い,原子力の進むべき方向を決めていくのがよい方法ではないでしょうか。またこれは期限をすぐに決めるのではなく,じっくりと話し合っていってほしいと思います。
最後に1つ資料として,今年の8月に総務庁が行ったエネルギーに関するアンケートでも,原発増設に同意する意見は国民の中で10%あまりにすぎないということも,国民の声として出ているということを配慮して,これからの政策に取り組んでいただきたいと思います。また,国は今後2010年までに20基の原発の増設をしたいと言っていますけれども,もう原発は田舎に造るのではなくて,本当に消費する所,大阪,東京,どうせ建てるのでしたらそこに建てていただきたいというのが県民の声です。以上です。

【茅】ありがとうございました。それでは,これで今日の招へい者の方々のご意見のお話が一応終わりましたので,最初お約束したようにとりあえず休憩をとりまして,そのあとで今のご意見をベースに議論を展開させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

【事務局】それでは,この辺でいったん休憩に入らせていただきます。円卓の皆様方がご退場になられますので,その間に事務局のほうからご案内がございます。休憩時間は20分間ですので,15時10分に再開させていただきたいと思いますので,よろしくお願いいたします。膨張の皆様方は事務局より若干のご案内がありますので,恐れ入りますがそのままご着席下さい。
 

−−休憩−−


【事務局】それでは,円卓の皆様方もご着席になられましたので,本日の原子力政策円卓会議,後半の議論にむけて再開させていただきたいと思います。茅先生よろしくお願いいたします。

【茅】前半の9人の方々のご意見を伺ってみますと,アイウエオ順で発言をされた前半という意味ですが,前半のほうでは原子力の知識というものが必ずしも一般に普及していない,それにはいろいろな問題点があって,例えばそういうものの広報というものも必ずしも十分ではないとか,あるいはやり方が問題だとか,何らかの形での知識の仲介をしてくれる人がいるのではないかといった,原子力の知識を一般化するという問題についてのご意見が多かったように思います。
 後半というか,鳥井さん,中村さんあたりからの方々のご発言は,今日最初に私が申し上げましたような,原子力の今後をどうするかということについてのご意見がやはり中心でした。それについては原さんのように, 550万台の自販機があるのを野放しにしたままというのと原子力の推進を重ね合わせるのはおかしいから,需要の抑制ということと原子力の抑制を並列的に考えるべきだというご意見とか,あるいは世界的に脱原子力傾向にあるのになぜ日本がやるのかという議論であるとか,さらには具体的な原子力として,今のタイプのものではなくて,もっと小型炉をやるべきだというようなご意見があったように思います。
 いずれにしても,最初の知識の普及という問題も大事なのですが,冒頭に私が申し上げましたように,今後原子力をどうするかというのがとりあえず第1の主題ですので,後半に出てきた議論を中心にまずはご議論をいただいて,その後で具体的に原子力の知識という普及の問題を取り上げようと,このようにやらせていただいたらどうかと思います。
そこでやり方なのですが,今後の原子力のあり方ということについて,今申し上げたような招へい者の方々からいろいろご意見が出たのですが,やはりおいでになった方々のほうからもそれに対する反論なり,賛成論なりいろいろご意見があろうかと思います。そういったことをスタートに,しばらく今後についてのご議論をいただきたいと思います。なお,発言される方は手を挙げていただいて,それに対して私が指名しますから,それから発言をしていただけますでしょうか。そういう順番でやらせていただきたいと思います。それでは,よろしくお願いします。どなたからでもどうぞ。

【鳥井】よろしいでしょうか。

【茅】では,鳥井さん。

【鳥井】私は吉田さんに1つご質問を申し上げたいことがあります。そういうご質問でもよろしいですか。

【茅】もちろんいいです。

【鳥井】「福井県にこれ以上原発はいらない」「それはそうだろうな」という感じがするわけですし,「『もんじゅ』の再開をやめてくれ」というのも「うん。『もんじゅ』の延長線上にどういう技術的な展開があるのかな」という疑問もあるわけです。おっしゃることの半分は私はわかるような気がするのです。残りの半分でちょっとご質問があるのですが。
原子核からエネルギーを取り出すということについて反対なのか,それとも福井県にこれ以上造るということについて反対なのか,それとも今の技術というのが嫌だとおっしゃるのか,それとも,今の決め方だとか,そんなことについて嫌だとおっしゃっているのか。その辺はどうかなという感じがするのですが。どんなところが。いろいろなご意見が混ざっていたような感じがするので,少しお話しいただければ。

【茅】吉田さん,どうぞ。

【吉田】一番言いたいのは,今回の敦賀の原発の3,4号機増設のことを言いますと,福井新聞だったか世論調査として,県民の4割近くは「もう原発は増やしてほしくない」という結果が出たと思うのです。それが春の統一選挙の時には,候補者の方は原発には一切触れないし,知事さんにしても「現在白紙の状態です」と言っていたのです。それで,選挙が終わって,選挙の結果が出て,現職の知事の栗田知事になったのですが,そのなった時点で,県民の意見を反映してやりたいようなことを言っていらしたのですが,6月にプルサーマルのほうは前向きに考えていこうかと,まだ決定はしないみたいですけれども。敦賀の市長さんも商工会議所の方もなのですが,「やってほしい」という形で言ってらした。言い方が悪いのですけれども,県民の声を聞くようなふりをして,実際に決める時はそれを背景に決めていないなというのが一番です。

【鳥井】そうすると,決め方が。

【吉田】決め方ですね。「県民の合意を得てから決める」と言っていたのですけれども,決定はしていないのですが,実際に前向きにやっていくというようなことをおっしゃったというのです。

【茅】鳥井さん,どうぞ。

【鳥井】そうしますと,例えば原子核からエネルギーを取り出すということについてはどうなのですか。

【吉田】その点に関しては,一般の人は知らないと思うのです。原子力に関してプラスの面ばかりを県民に出す時は言ってらして,本当には原子力のマイナス,負の部分というか,都合の悪い部分は言わないというのが,言ってくれないというかがありますから,県民というとちょっと幅が大きいのですけれども,私が受けた印象からでは,まず広報的にも都合のいいことしか知らせていないというのが一番だと思います。

【茅】吉田さん,県民のご意見というのを紹介していただくのはありがたいのですが,この円卓会議はあくまでも個人として招へい者の方が参加しておられますので,ご自分がどうお考えになるかを返事していただけますか。

【吉田】どうも申しわけありません。私としては,原子力をエネルギーとした場合に,発電できる段階までウランを持っていく,年間必要なのは30トンと先ほど鳥井さんはおっしゃたのですが,それを作り出すためにどれだけの石油エネルギーを消費して作り出しているのかという数字が出ていない。それも出して比較していただきたい。つい先日敦賀の原発に見学に行った時に,職員さんの方に聞いたのですけれども「今ちょっとわからないから,後ほど数字のほうは出していきます」とおっしゃったので,今その結果待ちということなのです。実際,石油がなくなったら原子力発電所は維持していけないのではないかと思って,このまま推進していくと,結局行き詰まってしまうのではないかと思ったのです。

【茅】中村さん,どうぞ。

【中村】船で燃料を運ぶ場合に,石油を運ぶのとウランを運ぶのは,要するにウランのほうが少なくてよいわけですから,同じ電力を出すのに1万分の1か2万分の1で済むわけですから,船の燃料の積み荷としても少なくて済むわけです。ですから,運ぶエネルギーも少なくて済むし,石油がなくなったら原子力船で運べば船は動くわけです。自動車も電気自動車になって,その電気を太陽エネルギーか原子力か水力か,そういうもので充電をすれば電気自動車は動くわけですから,私は輸送は可能だと思うのです。
 基本的に私たちの多くは「原子力はなくたって何とかなるわ」と思っているのだと思います。ですから,原子力がなくても,今も50年先も何とかなるのかならないのか,その辺をわかりやすく一般の人に知っていただきたいと思います。
 いろいろ議論をしてみて,皆で検討してもやはり必要だというのか,なくても済むのか,その辺が専門家はもう十分検討してわかっているつもりでいるのですが,なかなかおわかりにならない方が多いと思いますから。
 私はこれだけ自前のエネルギーが少ないという国で,将来大丈夫かどうか,非常に不安に思います。原子力がなかったから,自給率は6%ないわけで,食糧で言えば6%と言えば1日ジャガイモ1個ぐらいしか3食合わせても食べられない。自給率がそんなに低いという状況で,将来石油が枯渇をしたり,値上がりをしたりということにも対処できるかどうか,私は非常に心配です。
 大体今はたくさんドルがあるけれども,ドルがなくなったら買うお金もないのではないでしょうか。ドルは確かに今まではたくさんありましたが,日本の産業がドルを稼ぐ力というのはだんだん落ちているわけです。製造業は途上国のほうにだんだん移っていますし。
ですから,私はやはり,そのようなところをよく理解されていないなと,吉田さんの話を伺いまして思いました。ですから,吉田さんだけではなくて,うちのかみさんも含めて,そういう人が非常に多いわけですから。やはりそれは将来重要なことだと思います。いりもしないのを無理をしてやる必要はないわけですから。私は必要だと思うのです。

【茅】中島さん。

【中島(元中央大学教授)】今中村さんがもうおっしゃいましたからいいのですけれども,この円卓会議でもこの議論は何回か出てきているのです。それでよく言われることなのですけれども,例えば再生エネルギーを主張される方は,再生エネルギーのチャンピオンである太陽光発電に必要な,太陽電池を作るのにはエネルギーがいるわけです。これは相当高温にしないといけませんから,相当エネルギーがいります。それと原子力発電と比べてみますと,原子力は少ないのです。これはもうたくさんの人がそういう研究をやっていまして,科学者ごとに,その分析された方が使ったデータによって多少差はありますけれども,傾向としてははっきりしているのです。
ところがソーラーのことをおっしゃる方は,ソーラーを作るのにそんなにエネルギーがいるという話はあまりされないのです。たしかにできあがった太陽電池があれば,フローだけで,太陽からのエネルギーだけで発電ができるというのはその通りなのですけれども,それを作るのはやはり科学技術を利用して,実際のいろいろな生産に導入されるエネルギーを消費して作っているわけですから。その点でちょっと不正確な点があったのではないかと思います。
【茅】今の議論はあまり長くしても仕方がないのですが。一応私はたまたま自分で,大学でそういうことをある程度仕事としてやってきています。今の吉田さんのご意見というのはよくわかるのですが,実はそれとまったく同じご意見が,1973年,原子力が始まった当時に出ていました。一番有名なのがイギリスの物理学者チャップマンの議論なのです。つまり原子力を作る場合には,燃料の製造を含めて化石燃料を非常にたくさん必要とする。したがって,原子力発電所を造って電気を出しても,結局は化石燃料の消費になってしまうのではないかと。つまり,原子力発電所は化石燃料のイーターだ,食べてしまうものだという意見が出たわけです。それで世界的に原子力というのは本当にそうかという議論が沸き立ったのですが,そのチャップマンが自分でその問題をそれから研究しまして,その論文が発表されたのは1975年なのです。その時に出した結果というのは,まったくわれわれの予想とは違っていて,「やってみたら,原子力発電所の場合には,明らかに出てくるエネルギーのほうが,ライフサイクルで使うエネルギーよりもかなり多い」と。これは数字がいろいろありますが,当時一番使われていたもので,大体1のエネルギーを投入して15エネルギーが作られるという結果を自分自身が出したわけです。
 それ以来,「発電所のエネルギー収支」とわれわれは呼んでいますが,こういった作業は,原子力発電所の新しいものを考える際には必ずやるというのが一種の慣行になってきていまして,これがもういわば当たり前の形にずっと来ているわけです。最近は,それは,言うなればある程度済んだ話であるということで皆さん口にしなくなったのですが,それが十分広報が行き届かないために,たまたまそういう誤解が今でも残っているのではないかというのが,実は私の感じです。
 これはたまたまそういう分析が過去にあったということをご紹介するのが義務だと思って申し上げているだけで,これはこれでやめさせていただきたいと思います。
それでは,他にいかがでしょうか。里屋さん。

【里屋】今のお話はそれなりに展開したと思いますので。
先ほど,需要があるから供給が必要というのはおかしいという話が原さんからあったと思うのですが,それはその通りだと思います。ですけれども,需要の変動というのは,もうこれはものすごい社会的な運動というか,そのようなどうしようもない,なかなか制御できるものではないと思うのです。それに対して具体的にどのような対応ができるのかというのが,私も考えてもよくわからないのですが,二酸化炭素問題とかで,将来的にはライフスタイルの何らかの強制が最終的にはやはりなされてくると思うのですけれども,そういうことでしか私は解決できないと思っているのですが,そこら辺はどのようにお考えか,ちょっとお尋ねしたいしたいのですが。

【茅】原さん,どうぞ。
【原】需要がある。だからサプライしなければならない。人口が60億になって,穀物がこれこれしかるべき量がないといけないから,熱帯雨林を切り開いて傾斜地の土が流れるのを承知で畑を作る。これは途上国の現状です。
 私が申し上げたのは,需要というのは無制限に,コントロールされずに,経済成長のために是認されるべきなのか。そういう経済成長にサステイナビリティ(持続性)はあるのか。需要がまるで神話のごとく「ねばならぬ」という格好で受け取られると,技術は重荷を負い,クライシスコントロール不可能な現象が生じかねない。需要にどう応じるかということよりは,なぜ需要が生じざるを得ないかというところを,われわれは基本的に問題にすべきである。どういう性格の需要なのか。ウエィストフルな,消費のための消費の需要なのか。そこに私は非常に大きな疑問を持っているということです。
【茅】今の里屋さんのご意見というのは,そういう原さんのご意見はわかるけれども,同時に供給もそれに対して考えなければいけないのではないかというご質問だったと思いますが,違いますか。

【原】それは需要が増えていった時にどうするかという議論ですね。ですから,私は逆に,例えばなぜ人口が増えるのかという途上国の貧困の問題にわれわれが取り組むべきであって,増えるから途上国の森林を開いて畑を作るべきだという論は私は採らない。そういう意味です。
それからもう1つ言いますと,例えば政府の白書というものが初夏に各記者クラブで発表になるのですが,常にそこで繰り返し繰り返し指摘されたことは,需要が増えるから上方修正をして数字をどんどん伸ばしていく,こういう議論だったのです。ところが今いっせいにそれは下方修正です。つまり,上方を伸ばしてきたものを,今度はそんなに実は需要はなかった,水もすべてのものもエネルギーすらも減ってきているわけです。そういう事態を,逆にどう考えるのか私は質問したいです。

【茅】では,里屋さんもう一度。

【里屋】減っていくにはよろしいのでしょうけれども,増えてくる場合に,供給している人たちからすれば,供給は需要に対応せざるを得ないという面があると思うのです。要はゾルレン論と言った「べき論」として,需要がどうあるかをまず考えるべきであるということは,私もそう思います。ですけれども,需要の変動のような社会現象というのはとてつもないもの,ですから,私は言論では決して解決できないと思います。やはり,何らかの政府なり何なりの強い啓蒙とか,何らかの大きな外力を提示しないと,とても増える需要というのを抑制できる処方箋とは言えないと思っています。ですから,そのような社会科学的な外力の方策というのを我々は模索すべきではないかということを言いたいのです。
【原】私もかつて新聞に身を置いたものとして,需要喚起をやったのは広告ですので,フリーハンドで偉そうなことを言うつもりは毛頭ないのです。ただし,そういうことを繰り返し見ている間に,環境と,例えば持続可能な発展,明日ある社会ということを考えたときに,今のようなブレーキを踏み抜いたようなディマンドサプライの政策が長続きするはずがないではないかと考えます。私は非常に厳しい言い方をしますと,この経済状況は来るべくして来たと思っています。そういう意味で,環境サイドから見た場合には,非常に大きな疑問点があるということを申し上げたかったのです。
例えば水道事業法でも電力事業法でも,1つ疑問なのは,一番ピーク時電力をどうするかとか,あるいは水道法第1条が「水は事業者として必ず安定的に供給しなければならない」,そういうことを書いています。これははたしてそういうところに揃えて設備投資をし,技術を考えるべきなのか,あるいはそのピークというものを下げる側において社会のシステムを考えるべきなのか,これは1つの大きな問題点ではないかと思います。

【茅】佐田さん,どうぞ。

【佐田】先ほどの需要の問題なのですが,その需要の問題は,例えば道路の渋滞を解決するために,より快適なバイパスを造る発想と少し似ていると思うのです。それだと短期的に渋滞は解決されるのですが,かえって車は減るどころか増える可能性があると思うのです。本当に必要なことは車そのものを減らすことであり,そのためにはわざと渋滞を解決しない,わざと需要にこたえないという,そういう理屈もあり得ると思うのです。これが原さんに私が賛成するところなのですけれども。
先ほど里屋さんがおっしゃられた需要を前提にする発想というのは,経済学で言う「消費者合理性」とか「消費者主権」を認める態度そのものでありまして,これは要するに消費者が常に合理的に行動し,そのことが消費者にとって最終的に最も望ましい結果をもたらすという前提があるわけなのですが,今の消費社会を見ると,はたして消費者合理性とか消費者主権が本当に成り立っているかどうかよくわからないのです。車にしてもワープロにしても洋服にしても,皆はるかに寿命よりも短いサイクルで買い換えて,そしてその後におびただしいゴミを私たちは残しています。本当にこの消費者主権,消費者合理性,つまり消費を善と見なす発想そのものを内在化した今の消費社会が,よりよいものだとは私は到底思えない。というよりは,そこのところに切り込んでいかないと,環境問題はどうしようもないところにまで来ているのではないか。私はそのように思います。

【茅】中村さん。

【中村】私は自販機が 500万台もある状態は決してよい状態ではないと思いますが,原さんのご意見にその点ではまったく賛成なのですけれども,それではどうやって減らすかというのです。いったいゼロにしたほうがいいのか, 100万台ならいいのか。どこで線を引くかというのは難しいのです。私たちの身の回りを見ても,無駄はたくさんあるのです。ネクタイなどでも10本もあればいいのに,また買ったりするわけでしょう。無駄なのです。ネクタイを作るのにいろいろな材料やエネルギーが使われるわけです。食べ物にしても同じわけです。ですから,無駄を省くというのは全く賛成ですが,どこから線を引くのか。仮に厳しいところで線を引いたら,失業者がたくさん出るのです。いったいその失業者をだれが食わせるかという問題があります。
 例えば30年前の経済に戻ったら,30年前は今より働いている人が 2,000万人少なかったわけですから, 2,000万人があぶれ出て失業するわけです。それをだれが食わせるかという問題もあります。残念ながら,この過密社会の日本というのは,タコの足を食って生きている。
 そういうのは過密社会の日本だけではなくて,人間社会全体がそうで,それではどうやって無駄な需要を押さえるかというと,残念ながら,やはりある程度充足をしてから,そこで考えて,これではいけないという反省に立たないのでしょう。やはり途上国のように,先進国に何とか追いつきたいと言っている段階では,「無駄だからやめておけ」ということはできない。
 日本はどうかというと,何とかアメリカに追いつきたいと願って追いついてきたわけです。ある程度ゆとりができたから,そこで考える段階に達していると思うのですが,まだそれでも車が買いたいとか,そういう人がいるわけです。ですから,それをうまいところで折り合うには,残念ながら低位で押さえるというのは,今の段階では非常に難しいと思うのです。
 ですから「無駄はやめましょう」という議論を大いに言って,皆をその気にさせなければならない。そういう無駄を排除するというのは,キャンペーンが必要だと思いますけれども,ではそういうことをやっている新聞社はページ数を減らしているかというと,これまた増やしているのであって,放送局は放送時間を延ばしているからなかなか難しいですね。これは日本の経済が優先しているからで,しかし,人間というのは食うほうがまず優先するわけですから,これはおっしゃる通りなのですけれども,非常に難しい。それに対して傍観していないで,いろいろな議論を出していかないといけないと思います。
人間も減ったほうがいい。ところが,日本は少子化といって人口を増やさなければいけないという意見がもっぱらでしょう。こういうおかしな意見が大手を振って歩いているわけですから,もっと議論をして皆の意識を高めないと,おっしゃるようなところには追いつかないのではないかと思うのですが。

【茅】原さん,もう一度どうぞ。
【原】よくそういう議論で,30年前に戻るとか,あるいはなにか現存しているものがなくなればどうこうと言うのですけれども,それはちょっと極端な仮説かなという感じがするのです。市場経済というのはたぶんそんなものではないだろうということを感じます。
 OECDがかつて日本の環境政策のレビューをしたことが過去に2回あります。結論として日本の公害対策が非常に成功した。しかも経済成長と両立した。そういう評価をした最大の理由というのは「1つはまず非常に厳しい規制を引いたことである。それに対して企業が技術開発をし,かつ投資を行った。同時に社会の見えない舞台裏で実に数万の地域公害防止協定が住民と企業の間に結ばれていた。そういうことが日本の非常に激しい環境破壊への対策を成功に導いた基だ」と言っています。私も全く同感です。そういった状況の中で,インビジブル・ハンドということは申しませんが,1つの良識が働いていくのではないか。
71年の車の排ガス規制がその典型でして,労働組合の委員長は「こんなことをしたら失業する」ということを霞ヶ関に言って歩きました。しかし逆でして,そのことで日本の内燃機関は徹底的に性能を高め,省エネルギー,そして今日のフランクフルトモーターショーに見られるような,大企業がこぞって環境政策を今後のサステイナビィリティの旗印に掲げる,企業統合のモチーフにすらなる,そういう時代状況になっているのではないかと考えます。

【茅】山本さんどうぞ。

【山本】少し先ほどのに戻ってしまうのですけれども,需要と供給で下方でとかおっしゃいましたけれども,結局どこかで線を引くというのは,だれが線を引くかということなると,結局日本国民全員がというか,日本として線を引かなければいけないことになります。そうすると,結局それはすべてを理解するということから,結局は教育とかそういうものに行き着くのではないかと思います。

【茅】よろしいですか。吉田さん。

【吉田】今需要と供給ということで,エネルギーの削減というのは皆さん非常に難しいという形で,結局その背景には,原子力は必要であるということがおっしゃりたいのかなと感じたのです。
 本当にエネルギーのことを考えるのであったら,原子力1つに絞っているというのがどうなのかと思うのです。日本の技術であれば,世界を相手に大きな企業が世界と争って技術革新をやっていく中で,ヨーロッパなりアメリカなりは本当に環境にやさしいエネルギーというのに力を入れて,ものによっては今日本より先に進んでいるのではないか。まだ詳しいことはわかりませんが,そう感じるのです。
今需要を減らせと言ってもできないと思うのです。では,それならば他のエネルギー源も同じように,太陽光とかは効率的にどうかなとおっしゃっていますけれども,エネルギー的には燃料電池というのが今注目されていますし,火力,風力,水力でも非常に小さいマイクロ水力というのも技術的に開発されてきているそうです。ですから,需要の問題を今言っているよりも,だから原子力が必要だという説得力に欠けるのではないか。もっといろいろな分野に,原子力はエネルギーの選択肢の1つとして議論していただきたいなと思うのですけれども。

【茅】今まで出ているご意見というのは,これは一番基本のところですけれども,エネルギーの需要と供給という問題で,その問題に対する答えとして,1つは需要をできるだけ押さえるべきである。押さえるための方法を考えるべきであるという見方と,やはりある程度それには限度があるから,供給のほうに対して手を打つべきであると。その背景には,おそらく原子力ということがあるだろうと思いますが,明確にはおっしゃっていないのですが,そういう考え方があると思います。それから,もう1つのチョイスは今吉田さんが言われたように,ある程度需要を押さえても多少供給の側も対応しなければいけない。しかし,その場合に原子力ではなくて,他のクリーンエネルギーがあり得るのではないか。それへの努力をもっとすべきであると。
 大体皆さんのご意見はこの3つの範囲ではないかという気がしますが,この辺もう少しご議論をしていただければと思います。
中村さんどうぞ。

【中村】私は,それぞれの国によって地理的な特質が違いますので,その国に応じたエネルギーをまず使うということが基本だろうと思います。自分の国の中にガスや石油がたくさんあればそれを使えばいいし,風力に適したところがあれば風力発電所を増やせばいいし,太陽についても同じです。
残念ながらこの日本という国は,山が多くて,なかなか自然エネルギーを利用する適地というのが少ないように思います。ですけれども,いやあるのだとおっしゃる方はぜひ造っていただいて,増やしていくことが必要だと思います。増やしてみると,限界とか欠陥とか,あるいは長所ももちろんいろいろわかってきますので,適当なところに落ち着くだろうと思います。落ち着いて,さあそれで原子力の代わりになるかというと,私はならないと思うのです。大体,照ったり曇ったり,風が吹いたり吹かなかったり,そのたびに停電がしたり周波数が狂ったりしますから,やはり基本になる電力というのがある程度ないと,そういう電力に頼るわけにいかない。ヨーロッパに比べて,この狭い日本では一人当たりの自然エネルギーは少ない。土地が少ないということから自然エネルギーの利用には限度があると思っています。

【茅】鳥井さん。

【鳥井】先ほどからのご意見を伺っていると,これも私がよく言うことなのですが,需要が今たくさんあることを,これをダメだと言っても始まらないのです。私はよくいろいろなシンポジウムに行きますと,省エネしましょうと,皆必ずどこの会場に行ってもそこだけは意見が一致するのです。だけどうまくいった試しがない。
 原さんが言われた,需要があるから供給するのはおかしいというのはその通りで,われわれはこうあるべきだという理想はある。そして現実があるわけです。理想だけを言って現実を認めないと,これは教条主義なのです。それから,現実だけを言って理想なしに現実,需要があるから供給しましょうと,こういうのはある意味では日和見主義なのです。これは両方ともダメなのです。現実と理想を結ぶ道を考えるというのが,実は一番大事なことなのです。そこをどうしていくかというのを,ぜひ日本社会が考えられるようになりたいというのが1つです。
もう1つ,今までの議論を聞いていても若干の疑問があるわけです。それは日本のエネルギーのことだけを考えればいいのか。日本という国,自分の国のエネルギーのことだけを考えればいいのか。それとも世界の2%の人口の国が世界のGNPの15%か20%とか稼いでいるわけですが,そういう国の人は世界全体のエネルギーのことをやはり考えなくてはいけないのか。私はそこは議論の余地があるような気がするのです。今行われている議論のほとんどは日本のことだけを考えているのです。日本はこれ以上エネルギー消費をしなくていいよと。それはそうだろうという感じはするわけです。けれども,途上国は人口増加はどうするのと言ったら,とたんにエネルギーの供給が必要になってくるのです。その時に化石燃料をバンバン焚けばいいと言って,そんなことを言ったら世界のCO2の排出量というのは一挙に3倍とかそういうオーダーで増えてしまうわけです。そこのところに原子力の役割はあるのかないのか,そういう議論も当然出てくる。やはり少し世界のことにも責任を持つ日本でありたいと私は思っていますし,現実か理想かだけどちらかだけではない,ちゃんと筋道を立てられる国になりたいなという感じがいます。

【茅】今の鳥井さんのお話は最後のほうのロジックがちょっとわからなかったのですが。おっしゃる意味は,日本は原子力の技術をある程度やって,それによって発展途上国に原子力を供給しろという意味なのか,そうではなくて別な意味があるのか。ちょっと意味がよくわからなかったのですが。

【鳥井】いや,それは新エネルギーでも同じわけですが,途上国に供給できるような技術をきちんと築く,日本が責任を持って築きなさいと言いたいわけです。

【茅】そうですか。はい,わかりました。
吉田さん,どうぞ。

【吉田】今太陽光の資料しか持っていないのですが,先ほど中村さんが太陽光について,日本は狭いからできない,非効率だから実現的ではないと言われたのですが,電力中央研究所の試算の中で,これは94年に確か出されているはずなのですが,太陽光のパネルを日本全体の使えるところに使うと,計算すると 2,474万kW出るそうです。そのうち,住宅の屋根を利用した部分ですと 833万kWの電力が得られるそうです。 833万kWというのは,これは原発にしてみたら何基分ですか,原発は 100kWとしても約8基分のエネルギーを作ることができるという,数量的な部分ですけれども。これは家だけで,あと公共施設とか工場の屋根,会社のビルの壁面とか,高速道路とか新幹線,あらゆる建物に付けることによって 2,400万kWの電力が得られるというのは,原発が現在発電している総量が 3,700万kW出ているそうですが,それの3分の2にあたるエネルギー,違うのですか。

【茅】中村さん。

【中村】いやいや,それは少し誤解があるのです。例えば 800万kWを屋根の上に付けたとしても, 2,400万でもいいのですが,太陽光発電というのは太陽の光を受けて,そのうち電力に変わるのは12%なのです。ですから,設備がそれだけあっても,その12%の設備がフル稼動した電力量しか出ないのです。曇ったり,雨が降ったり,夜はだめでしょう。原子力発電は大体稼働率が80%ですから,同じ 100万kWの発電設備も,原子力は80%の80万がフル稼動したぐらい年間電力が発生する。太陽光発電装置は 100万kWあっても,12万kWがフル稼動したぐらいしか電力は出ないのです。ですから,これだけあればそっくり原子力の代わりになるというわけにはいかないのです。
 それからもう1つの問題は,これも電力中央研究所の研究結果ですけれども,日本で最低必要な発電設備は 6,000万kWというのです。これだけは最小限必要だ。その 6,000万のうちの10分の1の 600万以上が自然エネルギーの発電装置になると,バックアップが必要になるというのです。つまり,風が吹かなかったり,日が暮れて照らなくなった時に,電力がないということでは困るわけです。自然エネルギーで電力を作る装置が増えると,風が吹かない,日が照らない時に備えてバックアップが必要になるというわけです。バックアップが必要だということは,二重投資なのです。ですから,あってもなくても同じだということなのです。
それを防ぐためには,電力の貯蔵装置を造ればいいわけです。貯蔵装置としてどのようなものがあるかというと,揚水発電がありますが,これもなかなか限度があって増やせない。そうすると電池で溜める。電池で 600万kW以上のものを溜めるというのは,今のところ非常に高くつくし,難しいことです。

【茅】吉田さん。
【吉田】太陽光パネルが一番動くというのは,やはり太陽が照っている時というのは間違いがないです。そういう時というのは,太陽光が一番フルに使えるというのは,やはり夏場だと思うのです。ではその力をどこに利用するかというのは,電力消費のピーク時,夏の何日間の昼間2時か3時,そのピーク時を太陽光発電に切り替えていけば,無理に原子力を,電気が足りないというので増やしていく考え方に進めていかなくてもよいのではないかと思うのです。

【茅】中村さん,実はこれは議論をするとこれだけで終わってしまうのですが,正直言いますと,これは原子力発電所の持つ役割と,太陽光発電の出力の特性との差で,そう簡単にはすげ替えられないというのは,おそらく中村さんがおっしゃりたいことだろうと思います。この議論について,ここで2人だけでやっても,ちょっとそのあと繋がらないので,これは残念ながら,ちょっとそこのところはカットさせていただきたいのですが。

【小沢(社会評論家)】でも,結論を出さないと吉田さんが……。

【茅】私のほうから言わせていただきましょう。正直言いますと,現在太陽光発電で,仮にピークをカットできたとしても,中村さんが言っておられるように,電力全体の供給量の中で太陽光発電の占める比率というのは非常に低いのです。ですから,おっしゃるように設備は形式上減るように見えますけれども,トータルなエネルギーとして太陽光発電のコントリビューション(貢献度)というのは,中村さんのおっしゃる程度にしかならないわけです。これはいくつも試算がありまして,政府の書物にも載っていますし,われわれの計算したものもあります。
 電力中央研究所の試算ということであれば,私もその数字は知っていますけれども,それは太陽光発電がたくさんエネルギーを供給できるという意味ではなくて,どんなにやってもここまでしかいかないという数字でして,実は私が知っている資源エネルギー庁の試算の値を見ると, 3,750万kWというのが出ているのです。ただし,これでも kWhで言うと,電力供給の4%にしかならないのです。そういう意味で,中村さんのおっしゃるように,太陽光発電というものをもし使う場合には,非常に多くの量を作らない限りは中心には行かないということが事実で,その意味では,今の議論のままであれば,中村さんのおっしゃることが筋が通っていると,私は考えています。
この議論はそこまでにさせていただいて,次に行ってよろしいでしょうか。なお今の点は,たまたま私が議長(司会)で話していますので,不公平だと言われると困りますので,もし反論があればどなたかにおっしゃっていただきたいのですが。反論ですか。

【鳥井】一言だけ確認したいのです。太陽光はいらないという人はだれもいないと思うのです。太陽光にも全部働いてもらって,それで足りないところは何とかしようよという議論をしているとお考えいただいたほうが,私はよいと思います。原子力か太陽かという,そういう問題ではないということだろうと思います。

【中島】この円卓会議では,今までもずっとそういう議論であったと思うのです。再生エネルギーは最大限広くやるべきだと。問題は,例えば太陽光にしてもコストが非常に高い。ですから,日本中の屋根に張るというと,どれぐらいお金がかかるかと勘定をすると,政府が補助金を出すとしても,大変な財政支出がいる。ですから,そういうことも含めて,しかしそういうことはかなり思い切ってやるということをやっても,やはり自然エネルギーですから,夜は電気が出ないわけですから,それをカバーするのは,結局今ある電力会社の発電網が蓄電池の替わりをするということで考えていかざるを得なくなるのではないかというのが今までの結論だったと思うのです。反対する人はいないのだと思います。けれども,それだけではどうにもなりませんよというのも,また1つの事実であるということだと思うのです。

【茅】なお,これと絡むことなのですが,今後のエネルギーのシナリオというか,供給と需要の絵について,原子力がない,あるいはモラトリアムにするという絵がもっとあってもよいのではないかというご発言が,前回の円卓会議にかなりありました。したがいまして,私はその時の最後に「皆様方はやはり原子力が,例えばモラトリアムになるといった時に,現実的にどのような絵になるかということを,やはり政府側が作るべきだとお考えですか」と質問をしたのですが,それに対して皆様方は,少なくとも反対とおっしゃる方は全くおられませんので,場合によってはこういう考え方を今後の提言の中に盛り込むのも1つの手かなと思っています。ですから,吉田さんがおっしゃるような問題については,具体的に検討することを政府側に提言するということも当然あり得ると,そのように解釈していただいていいかと思います。

【木元(原子力委員会委員)】一言よろしいですか。

【茅】はい。

【木元】前回の円卓会議で,アイリーン・スミスさんから脱原発のシナリオを作らなければいけないというご提言があったのです。それを,エネ庁のほうの原子力部会のほうにもお諮りをして,もし原子力発電をやめた場合にどのようなシナリオが書けるのか。先ほど里屋さんは賛成派,反対派というご発言でおっしゃいましたけれども,その賛成・反対を抜きにして,今原子力発電をなくしたどうなるかということ,そうすると99年のレベルから−6%のCO2削減のリミットがあります。しかしこの場合,−6%なしにして,1990年のレベルで化石燃料は使う。それを1つの目安にして,それ以外の発電の形をいろいろ考えて,原子力をなくしたら何を使って,どれだけ供給できるのか,それを描いてみようということで,原子力部会の宿題にしました。それを今作っていただいているので,それがまたこちらのほうにもご報告出来るのではないかと思っています。現段階はそういうことです。ありがとうございます。

【茅】ありがとうございました。どうぞ,小沢さん。

【小沢】私は,今急に気がついてしまうというのも遅いのですが,今日,原子力を推進しようという側のほうが,哲学を要求されているような気がするのです。
 反対する側は,先ほど鳥井さんが吉田さんにどの点で,エネルギーを原子核から取り出すことが反対なのか,地元に持ってこられることが反対なのか,あるいは政策が反対なのかということをお聞きになっていましたけれども,反対というのは,その3つにもしかしたら絞られるかもしれない。
 ところが,原子力を推進しようとした場合,反対の人をいかに説得するか,例えば大西さんが示されたようなある数値を見て,それから例えば佐田さんのおっしゃるように社会科学をどこの分野でどうするのか,文化論的にどうするのかとか,とにかくそうとう大きな問題を,推進しようと思った時に抱え込むのだと思うのです。私は,抱え込んだ側が,例えば国際的な関係とか,そういうことまで含めて原子力を今考えなければいけないところに来ているというのは,おそらく推進側がかつて予想しなかったことだろうと思うのです。これはむしろ画期的なことだろうと思うのです。
 ですから,例えばこういう会議も,ただ賛成をする,反対をする人を説得するというようなことだけではなくて,原子力を推進しようとすることによって,その中に含まれてしまうたくさんのことに取り組まざるを得ない。そのことがこの円卓会議を続ければ続けるほど,私は明らかになっているのだと思うのです。それはとても重要なことなのだ。
 反対はわりと簡単にできるのです。私もかつては反対していましたし,というより反対するほうが正しいのだと思っていましたから。やはり大西さんが数値で示されたように,知識を持つと,ある程度理解してしまう。しかし,ある程度理解はするけれども,そこには反対する人や,地元と言われている人たちや,そういう人たちの存在がやはり立ちはだかるわけで,それをどうするかといった問題がもう1つまた出てくる。それで,このような会議が必要になるのだと思うのです。
そこで私は佐田さんに楽観的変革派とか,いろいろおっしゃっていましたけれども,あの先をどのように,ここに書かれたレジメの先をどのようにご覧になっているのですか。例えば私のような人間は,たぶん心配する側として留まり続けるということになるのだと思うのですけれども,今後ということに絡めた場合,この反対派の存在とか,そういうものをどのようにお考えになりますか。
【佐田】繰り返しになりますけれども,エネルギー問題の一番の根幹の問題はフリーライダー,社会的ただ乗り論,権利は最大限にという人たちの増加だと思うのです。あの人たちがエネルギーの放埒な膨張を招いているわけで,そういったフリーライダーを抑制する社会制御の理論としては,マンサー・オルソンの理論があります。一応3つありまして,「誘導」「強制」「決定単位の縮小」ということです。順番に申し上げますと,「強制」というのは法律による規制です。例えば先ほどの原さんのお話の文脈に乗りますと,自動販売機を制限する,あるいは禁止するということ。それから「誘導」というのは,飴です。つまり再生エネルギーに補助金を出すというようなことで,環境にやさしい社会へシフトしていくということです。
 そして,3つ目が「決定単位の縮小」ということで,これが一番私が申し上げたいところなのです。例えばアメリカのデービスとかイギリスのハートフォードシャー州では,行政の委員会に素人の人たちをたくさん取り入れて,彼らに例えば環境保全計画などを作らせています。そこでの行政職員は計画を作らず,カウンセラーに徹しています。そうすることによって,そこの州,あるいはデービスなどで,エネルギー問題とかゴミ問題がそうとう解決されたと聞きます。これはいわば決定単位の縮小のモデル版になると思うのです。そういった決定単位を縮小させることによって,私たちは自分たちの暮らしがどのように政策に関わっているかということ,あるいは物とかゴミとかエネルギーにどのように私たちは関わっているのかということを如実に思い知らされます。そういった機会を与えることが,その人たちの意識改革につながり,ひいてはそういうことがエネルギー利用の抑制に結びつく,ゴミも減る,そういうことになると思うのです。
ここで大切なのは,よく言われている反対派の人たちが言うような,原子力抜きでのエネルギー計画の非現実性を推進派がけなすことはほとんど意味がないと思うのです。そういうことではなく,そういう機会に参加させることによって,人々の意識が少しずつ変わっていくこと,それが始まりだと思うのです。そこからやっとこの問題に対する取り組みはスタートするのだと,私はそのように思います。

【小沢】なるほど。

【茅】よろしいですか。

【小沢】いいですよ。

【茅】それでは他のご意見。では,里屋さんから。

【里屋】今おっしゃられたことは正論だと思います。ただ,原子力発電の推移というのは,私が思うのに,事実上国家の大政策だと思います。個人の総和が社会の意思決定にならないと社会学で言われるのですが,戦争の例を挙げると失礼ですが,だれも戦争をしたくないけれども,国家としては戦争をしなければいけないという場合はあり得ると思うのですが,そういう観点から原子力の問題というのは,個人云々というよりも,事実上ですけれども,あくまでも国家の政策だと思っています。というと,それに対する賛成なり反対なりの具体的な対応というのは,結局民主主義のトライ・アンド・エラーというか,政党が吸い上げるしか最終的には方法はないと思うのです。反対の立場ならば,例えばシュレーダー政権のような形で政党に吸い上げてもらって,それでやるしかないし,最終的に国会の場で終息させようとする努力がないとだめだと思います。いずれにしろ「べき論」で論じるのは,それ自体は啓蒙のためによいと思うのですけれども,社会を動かしていく手段としては少し無理,先ほどの需要の話もそうなのですけれども,やはり少し無理があるのではないかというのが私の意見です。

【茅】では,中村さん。

【中村】推進側の哲学は当然必要です。私はやはりそれは地球環境問題だと思います。ですから,地球全体ができるだけゴミを含めて炭酸ガスは出さないようにする。そのためには,まず省エネルギー,節約です。それから同じ自動車を使うなら,燃費のよいトヨタのプリウスのようなものを使いたいと思います。3月に日本で58万台乗用車が売れたのですが,プリウスは 1,500台しか売れていないのです。ですから,皆,頭ではわかっていても,実際は高いから買わないという問題があって難しいのです。

【茅】あれはまだ作れないのではないですか。

【中村】いいえ,初期はもう少し売れた時もあるのです。ですから,もっと作れるのです。やはり値段が高いから買わないのです。それから,自然エネルギーの利用,太陽とか風とか地熱とか,これもおおいにやるべきだと思います。その2つだけではやはり不十分ですから,原子力はどうしても必要だ。
 それから途上国と先進国の問題があります。途上国は先進国の1人当たり10分の1のエネルギーしか使わないわけですから,途上国に一緒に我慢をしようというわけにはとてもいかないです。途上国が使うエネルギーも大部分は炭酸ガスを出すエネルギーでしょうから,先進国はやはりできるだけ炭酸ガスを出さないように,減らすか,減らせないなら出さないようなものに切り替えていく,それはもう必要なことなのです。第一,6%減らしたぐらいでは,温暖化は止まらないですよ。3分の1ぐらいにしないといけないわけです。
そういうことまで考えると,もう原子力は欠かせないと思います。私はそれは推進側の哲学としてよいことだと思います。

【茅】山本さん。

【山本】今推進側の哲学ということがあったのですが,推進側の哲学というのは,後付というか,結局技術ができてから,言われたから哲学を考えなければいけないというような形なのに対して,反対側というのは哲学があって反対しているという概念的なものなので,そこが少し違いがあって一致しないのではないかと思います。

【茅】鳥井さん。

【鳥井】関連して。今の山本さんの議論を補強したいと思うのですが。
 最初に,日本にとって原子力は必要か必要ではないかという議論があるのです。必要ではないという答えは簡単に出せるわけです。外貨はたくさんあるわけですから,石油は買ってこられます。必要か必要ではないかだけを議論するならば,そういうことはいくらでもできます。
そうすると,原子力をやりましょうという人は,先ほど小沢さんがおっしゃったように哲学がいるのです。原子力で何を実現しようとしているのかということを明確にする必要があるのです。たぶんその1つはCO2の問題でしょうし,もう1つは途上国の問題でしょうし,ある意味では,例えばアジア地域における日本のイニシアティブのような問題かもしれませんし,原子力技術がありき,ではこれで後付でどういう哲学を付けようか,これではだめで,われわれは何を実現したいのだというのがあって,では原子力の技術というのはどうあるべきかと考えるのが実は本来の筋なのです。そこを,残念なことに逆転してやってきたというのがありまして,私は今後の原子力の技術開発というようなことを考えるならば,ぜひ哲学が先にあって,それでそれに技術がある,技術開発でそれを実現するという,そのような方向転換をしてほしいというか,したいものだと考えています。

【小沢】それは順序が逆だったとは思わないのです。哲学で科学技術が発達するのではなくて,まず何か発見した人が技術をしていく,だけれども,それがある力を持った時に,それに対してどのような哲学を付与できるかどうかが,私は問題なのだと思うのです。ですから,日本で言えば,原子力の需要の抑制を促すということと,原子力が存在するということは,矛盾しないで私はできることなのだと思うのです。
 今までいつもこのような議論のたびに言うのですが,原子力を推進する側はとにかく推進がすべてよいと,これは吉田さんがおっしゃった一面の心理だと思うのですが,反対するのは間違いだと,これはいいのだとダーッと言ってきて,そして今になって,やはり持った物の重さのようなものにようやく気がついてきて,教育の問題も大事だし,それからある意味では抑制することも大事だし,それから反対する人の意見も聞かなければいけない,あるいは技術を急ぎすぎたのではないかとか,そのような話が出てきたのだと思うのです。
 出てきたそのことは,私はものすごく大切で,そのことを大切に思えるかどうかが,原子力をこれから抱え込んだ日本が,抱え込んだ先進国として立派にやっていけるかどうかの瀬戸際なのだろうと思うのです。ですから,先ほどどなたかがおっしゃいましたけれども,これは賛成か反対かというような時期ではもうなくて,抱え込んだ側のほうが,推進しようとしていく側のほうが,もっと広くいろいろな問題に対応できるようになっていかなければいけないのではないかと思うのです。
逆転でよかったとさえ私は思うときがありますよ。ぶつかったものがあったから,わかってきた。

【鳥井】少しだけいいですか。技術の発展段階で,そこは違うのだと思うのです。非常に初期のところは技術があればこれはいいねという話だったと思うのですが,その技術を社会が使う時に,やはり何かを実現したい。昔は何かを実現したかったのです。エネルギー危機に強い構造を作りたかった。エネルギー自給ということをやりたかったのです。そこが周辺状況が変わってきたので,もう1度哲学を組み直して,何を実現するかはっきりさせなくてはいけなくなってきている。

【茅】いずれにしましても今の議論というのは,平たい言い方で言うと,いわゆるシーズ(技術)オリエンティドで科学技術というのは一般に出ることが多いけれども,実際にそれがある程度社会の中で普及していくためには,きちんとしたニーズの説明が必要だということではないかと思うのです。私はどうしても理科系の人間なものですから,あまり上等な説明の仕方はできないのですが,そういう平たい言い方で言えるのではないかという気がします。

【鳥井】ニーズというのは広い意味でですか。電力ニーズということではなくて,社会ニーズということですか。

【茅】もちろんそうではありません。

【鳥井】賛成です。

【茅】要するに必要性ということについて,きちんとした考え方を持つ必要があるという意味です。
中島さん。

【中島】この間,私はモデレーターの役目として,ここへお招きするのに原子力モニターという方々がいらっしゃるのですが,その方々の作文を読んでいまして,私の考えなかったことを考えている人がいて驚いたのです。例えば,日本の某大新聞と言っておきますが,「Aという大新聞社は,原子力をもっと抑制しろという主張をずっとしている。ところが,北朝鮮のKEDOには10億ドルをすぐ出せということを言っている。これは矛盾しているではないか」ということを指摘する人がいまして,私は日本の国民のレベル,知識水準は非常に高いと思って仰天したのです。何しろ私はまったく考えていなかったこと,たしかにそう言われればその通りなのです。それはなぜだろう。それはやはり北朝鮮のあの場合にはKEDOという計画にはアメリカが中心になって推進している計画で問題はあるけれども,とにかく何とか東北アジアを平和に保とうという主旨から,北朝鮮のエネルギー問題を解決しようということでやられているわけですから,そこまで原子力の問題というのは視野を広げて考えないといけない。つまり,そこをきちんとしておかないと,何とかという物騒なものが飛んでくるかもしれないということもあるのだと思うのです。哲学がきちんと完成していてやられているのではなくて,その場,その場かもしれませんけれども,やはりかなりの広がりを持ってわれわれはものを考えなければいけないなということを痛感したということを,ちょっと申し上げておきます。ご参考になるかどうか知りませんが。

【茅】この原子力を供給と需要といった問題を巡って今までだいぶご議論をいただいたのですが,原さんはたまたまご都合があって,もうすぐ退席されなければいけないというのですが,この話の中心は原さんだったので,今までの議論を踏まえて,出られる前に何か言うことがありましたら,どうぞ。

【原】先ほど鳥井さんが理想と現実の差ということを指摘されたのですが,私もやや迂遠で広がった言い方になると思うのですが,原子力発電を日本でどうするのかということは,原子力だけで議論をしてもきわめて不安定なものだろうという感じを持っています。
 と言いますのは,私は10年近く農政審議会の委員をして,農業政策の決定に参加しています。ある時,北海道のオホーツク海のほうに行きまして,酪農家が借金を背負って夜逃げをするというので経営状態を調べに行ったのですが,そこで奇妙な話を聞きました。牛がお産をするときによろけて子供を産めないのだという話で,原因は水を通して体に取り入れた硝酸性窒素がヘモグロビンを非常に不活性化して酸素不足になるのだと。つまり,牛が肝心な時にチアノーゼ症状を起こすというのです。これは水道法で人間には 10ppmという規制があるのですが,牛は放ってある。どうしてそういうことになったかというと,たとえ北海道であるにせよ牛の飼料の95%は輸入穀物なのです。穀物は牛の体を通って排泄物になる。元素は窒素ですから,それが酸素と結びついて硝酸性窒素になり,表流水,地下水を汚染し,それを牛が飲むとそれがそういうことを起こすというわけです。
 鳥井さんが先ほど,例えばアジアの将来を考えて日本の原子力技術を外へ出す,つまり国際的な視野が必要だとおっしゃったのですが,私もその意味はよくわかりますが,その前に日本人のアイデンティティ,日本というのはいったいどういう社会なのかという自己確認をしておく必要があると思います。つまり,95%の穀物飼料を入れるということは, 4,000万トンの穀物を毎年入れているわけです。 日本の米消費が 1,000万トンですから,いかに巨大なものであるかはご承知の通りです。これを作るには 1,200万ヘクタールの畑がいるのです。日本の農地は 500万ヘクタールですからね。そうやって作った作物も実は,京都や東京の調べだと,台所から出るゴミの40%は手をつけていない,古くなった食べ物や食べを残しを捨てまくっているのです。いったいそういう社会に,五億人の飢えた人とかうごめく途上国に向けて何かを言えるアイデンティティがあるのか。
私が申し上げたのは,社会の基本的なシステムに疑問を持ってということです。ちょっと異質なものを原子力とくっつけすぎたかもしれません。しかしそういう疑問があって,先ほどからしきりに需要(=)供給ということの内容にこだわっていたわけです。(この後退席)

【茅】ありがとうございました。
 それでは,今まで供給と需要という問題を中心にご議論をいただいたのですが,この休憩時間のすぐ後に申し上げましたように,時間もだいぶ過ぎてきていますので,もう1つの問題のほうに方向を変えさせていただきたいと思います。
 それは何かというと,原子力の知識というものが,必ずしもいろいろな意味で十分でない,十分でないという意味は,十分一般の人々にも伝わっていないし,そのことがプラスの面でもマイナスの面でも問題があるのではないかということだろうと思います。これは誤解がないように最初に申し上げますと,これは別に賛成という前提があって普及云々ということを言っているわけではありません。何事であっても,1つのものの知識が,一般にどれだけ普及するかというのは大変大事な問題でして,それが不足しているというご意見が今あったわけなので,そういう問題について,少し皆様方から,そういうものについてもう少し具体的にどのようなことが必要かというご議論をいただいたらどうかと思います。
先ほど伺った話の中で,この問題を最初に提起されたのは大西さんだったと思うのですが,実は大変申しわけないのですが,OHPが少し遠かったものですから,グラフの意味があまり皆さんにはっきりわからなかったのではないかという気がするのです。私も字が読めませんで,そのために少しその辺の補足をしていただきたいと思うのです。例えば私がよくわからなかったのは,知識の程度によって原子力に対しての態度が変わるというグラフがあったのですが,それがどういうグラフなのかが,どうもここから見てもわからなかったのです。その辺を少し説明を補足していただいて,同時に原子力に対しての知識の普及,これは教育も入ると思うのですが,この問題についてご意見をいただければと思います。

【大西】先ほどの絵は小さくてわかりませんでしたでしょうけれども,主観的な知識というものをそれぞれの人に聞きまして,メディアで報道するような原子力報道を理解できるかどうかというものを自分で判断してもらうという回答なわけです。先ほど横軸の一番右肩にある+3というのは,非常によく理解できると答えた人のわけです。それから−3というのは全く理解できないと答えた人なので,その間を7等分とって,自分たちがわかるかわからないかを自分自身で判断してもらう。
 先ほどの絵は世論調査の結果で, 2,500人の関西系の人たちなのですけれども,普通の人たちの世論調査をした結果の平均値をとったというようなものです。そうすると,そのようなものを独立変数にして,それからもう1つは,別の質問で原子力発電だとか高速増殖炉というのは怖いかどうかというのを聞いたわけです。そちらを縦軸の上軸にとって,それをプロットしたというのが先ほどの絵なわけです。
 そうすると,知識の量として大体わかるかわからないか,中間ぐらいだったという人よりも,マイナス側,わからない側の人たちについて言えば,原子力発電とかというものが,ほとんど怖さというのはほとんど変わらなかったわけです。けれども,プラス側の知識があると答えた人たちの平均値は,2つに分かれるということがわかったわけです。知識が増えれば増えるほど恐ろしいという感覚が少なくなるという人たちと,知識が増えれば増えるほど恐ろしさが増えるという2種類の人たちがいるということがわかったのです。

−−大西OHP(3)(再使用)−−

 それが今あそこに示している図なのですけれども,右半分ぐらいのところに出ている絵で,右上のほうに伸びているのは,知識が増えれば増えるほど原子力に対して恐ろしいと感じる人たちの感じ方です。右上に上がっているのは,女性だけの平均値なのです。それから真ん中辺りで右下のほうに下がっているのは男性だけの平均値なわけです。男性の場合には,知識が増えると恐ろしさは一応緩和されるという形になった。しかし,女性の場合は知識が増えると恐ろしさがますます増えるという形になるということがわかった。右下のほうに一番下がっているのは,比較のために原子力研究者に対しても同じような質問をして,それをプロットしたものです。原子力研究者について言えば,知識が増えれば増えるほど非常に恐ろしさが減少するという傾向が出ているということがわかって,それは普通の人たちとずっと違うということがわかったわけです。
 ですから,今まではPR活動というようなものについて言えば,知識を人たちに与えてやればやるほど原子力というのは受容されて支持されるのではないかということで,私たちはいろいろとやってきたということなのですが,必ずしもそうではないということが言えるわけです。いろいろな人たち,いろいろな感じ方をする人たちが混じっているということがわかったのです。
 原子炉に関して言えば,少なくとも知識が増えれば,非常に恐ろしいと感じるような人たちも必ず混じっているのだということは,この調査でわかったということです。
 こういうことは,10年ほど前から,少なくとも原子力に関してはこういう傾向があるのだということが定性的に言われていたわけなのですが,この絵で,われわれの調査では少なくともこういう格好で,定量的に絵に示すことができたということです。
これから言えることは,今までパブリックリレーションの対象者として,一丸として人たちに対応してメッセージを送っていたわけですが,必ずしもそういう格好ではメッセージは伝わらないのだということに注意する必要があるのではないか。そこのところが重要なところだというわけです。この絵についてはそういうことなのですが。

【茅】大変よくわかりました。ありがとうございました。

【小沢】男の人も女の人も,同じ知識ですか。

【大西】同じ知識というか,左肩半分は同じですね。ですから,知識をあまり持っていないという人について言えば,男も女も大体同じぐらいの恐ろしさを感じているのだけれども,ある程度以上の知識を持つということになると,分岐する。

【石川(原子力発電技術機構特別顧問)】たぶん今の質問は,1,2,3というのは同じ条件で判断しているのかという質問だと思います。

【小沢】同じ内容の情報ですか。

【大西】1,2,3というのは。

【小沢】つまり,男の人と女の人が持っている知識の内容は,同じですか。

【大西】知識の調べ方というのはいろいろあるのですけれども,これは回答者に知識を持っているかどうかと自分自身で判断してもらって,知識を持っていると思うという人は3とか2とかというところにチェックするということなのです。ですから,客観的な知識を聞いたというのではなくて,主観的な知識を聞いて自分自身で……。

【小沢】自分が知っていると思っている人ですね。

【大西】思っているということになります。

【木元】では,その知識は,大西さんからご覧になって,正しいというか正確な知識かどうかということの判断はここから読めるのですか。

【大西】少なくともこれでは読めない。別の調査をやりましたけれども,それは言葉を連想するとかという調査をやりました。それについて言えば,非常にネガティブな印象を持っている,普通の原子力研究者というのはポジティブな印象もネガティブな印象も同じような格好で持っているのだけれども,原子力に対する言葉を連想してもらって,それを書き出してもらったりなどすると,普通の人たちというのは非常にネガティブな言葉しか思い出さない。事故だとか,白血病だとかという恐ろしい感じの,バイアスのかかった言葉しか思い出さないということがあって,知識を持っていると言っても,必ずしもそれはニュートラルな知識,バックグラウンドがいろいろなものを含んでプラスもマイナスも含んでいろいろなものから判断してその知識を持っているというのではなくて,かなりネガティブなところが強いような知識を持っているというような感じではあるということがわかりました。

【木村】1つ伺いたいのですが,私は大西さんの論文を実際に読ませていただいたのですが,これは非常に面白いと思ったのですが,今のは日本での調査で,外国で類似の調査というか類似の研究はあるのですか。何かそういうことで比較されたことはおありでしょうか。

【大西】外国では,今ので言えば,メディアの報道量に対して人々はどのような世論を持つか,どのような考え方,どのような態度を持つかというのを調査したことはあって,それはかなり社会系の人たちがやっていて,かなり定性的な議論なわけです。量と量を比べて,これとこれは相関するとかというようなことを議論したという例は,外国にはないですね。

【茅】ありがとうございました。いずれにしても,これは1つの材料でして,今ここで問題にしているのは,原子力の知識を一般にどのようにして伝えるかという問題についてのご意見を伺っているのですが。中村さん。

【中村】今大西さんがおっしゃったのと同じ傾向が,フランスに出ていたのです。フランスは例の高レベル放射性廃棄物を地下に捨てるにあたり,地下の研究所を造った。立地をしなければいけないというので,いろいろPR活動をやっていたのですが,知識が深まれば深まるほど,賛成と同時に反対,両方強まるという結果がありました。
にもかかわらず,フランスで今年地下の研究所を造るということにある自治体がOKを出して決まりました。それはどういうことかというと,反対の人が増えたにもかかわらず,当局が自信を持って「安全なのだ」ということを積極的に広報活動をやったということです。やはり当局側が自信を持ってやるということで,うまくいった。全部の人が 100%賛成はあり得ないわけですが,決まったということです。

【茅】今のお話はいずれにしても,原子力の知識をできるだけ正確に一般に方々に伝えることがより正確な反応を期待できるということなので,それが反対に導かれるのであれ,賛成であれ,私は大変望ましいことだと思うのです。
先ほど皆さんのご意見の中で,これを巡って多少いろいろ違うご意見がありました。1つは,里屋さんは「一般の啓蒙は無理である」とかなり断定的な意見を言われて,「だから,むしろ社会的な外力を使うべきだ」と言っておられた。そういうご意見と,そうではなくて「地道に教育をきちんとやるべきだ」というご意見もあるでしょうし,いろいろなご意見があると思うのです。この辺の,やはり原子力の知識を一般にどうきちんと伝えるかという点について,もう少しご意見をいただきたいと思うのですが。では,まず里屋さんから。

【里屋】無理だと思いますけれども,でもやはりそう言わず,やることは大事だとは当然思っています。国民の啓蒙の方策として私が一番ベストな方法と思うのは,国会です。国会における定量的な各論をということなのです。私は自分では定量的な各論はできないのですけれども。
 少し古い話になりますけれども,戦争前,日本の造船技術が盛んな頃,巡洋艦の「古鷹」ができた時に, 7,100トンで8インチ,10門,35ノット出るということで,イギリスとかがびっくりして,英国の議会で「何ゆえ英国のものは 9,000トンで8門しか積めないのか」とか,そのような各論,数字的な議論が延々となされたのです。
 ひるがえって日本を考えてみると,ワシントン会議とかロンドン会議とかで,軍艦の比率が押さえられたということで首相が暗殺されたとかという話はあるのですが,残念ながら,戦力についての具体的な話というのは全然なされていないのです。そういう伝統というのはそれなりに受け継がれていて,例えば安保反対という話があったのですが,実は反対派の有名な人というのは,条文を一度も読んだことがなかったという話を聞いたことがあります。
 ですから,そういうことを指摘するのはたしかに簡単だと思いますので,それをどうするかといえば,やはりそういった各論の議論を政党に頑張ってもらうしかないのですが。
もう1つは,そういった国会での議論を受けとめる知識層の底上げをということで,何らかの方法で一般の人と専門家を繋ぐ有能な人材を国家が育てるというか,それも難しいことかもしれませんが,やはりそういう外力でないと底上げは期待できない。悲観論かもしれませんが,それでしかやはり無理だと私は思っています。
【茅】では,鳥井さんどうぞ。

【鳥井】いくら伝えても,受け取る準備ができていないとダメなのです。大体受け取る準備ができていない時には,不都合な情報は受け取ってもらえないのです。私は先ほど佐田さんが「決定単位の縮小」ということをおっしゃったのですが,私は「トンちゃん・五月の原理」と言っているわけです。

【小沢】日本語ですね。

【鳥井】日本語です。昔日本で一番偉い人だった人と科学技術庁で一番偉い人だった人ですが,社会党というのはずっと原子力に反対してきたわけです。それで,責任ある立場に立つと,不都合な情報も受け取らざるを得なくなる,そういう立場に追い込まれるわけでして,責任がある立場に立つと,責任のある決定ができるわけです。それを私は「トンちゃん・五月の原理」と呼んでいるわけです。これは先ほどの「決定単位の縮小」というのと非常に近い話なのです。
 では,いろいろな人に日本の総理大臣になってもらったり,科学技術庁の長官になってもらうわけにはなかなかいかない。いくら順番であっても,1日科技庁長官というのをやっても365人,1年でそれしかできないわけですから,それは無理だ。そうすると何かバーチャルにそういうことができないかと考えるわけです。
 そこで思いつくのがやはりゲームなのです。エネルギー問題についての非常に正確な情報を盛り込んだシミュレーションゲームというのを作って,それをやると,このゲームに勝とうと思うと,不都合な情報も取り入れなくてはしょうがないのです。それが私はベースになりうるのではないかという気が非常に強くしています。
 実はゲームというのは馬鹿にしていけないことで,大変強い影響力を最近持っているわけですし,非常に性能の高いゲームというのは作れるわけです。例えばいろいろPRセンターがあるのですが,そこのPRセンターには必ずあるとか,希望者には 1,000円というと買わないかもしれないけど 200円で買ってもらえるとか,何かそういうことを考えて,情報を受け取る側の準備というのをどのように作るか。
もちろんその結果が反対になろうと,賛成になろうと,それは先ほど茅先生が言われたように,正しい知識が伝わるということで,そうすると自分で本当はこうなっているのか,どうなっているのだろう,ゲーム上ではこうなったのだけれど本当はどうなったのだろうと調べてみたくなるとか,何かそういうことを考えないとどうもだめかなという感じがしています。

【茅】今のお話は,結局,皆さんの下地を作るために,シミュレーションゲームを流行らせろと,こういうことですか。

【鳥井】つまり,ある決定に責任を持つ立場に立つということが非常に大事だということです。

【小沢】でもそれは,実際にレインボーブリッジをくぐりたいのと同じように,原発の事務所に行って何かやりたいとか,放射能を漏らしてみたいとか思う人が出たら大変ですよ(笑)。

【茅】では,佐田さんどうぞ。

【佐田】そこでシミュレーションゲームでも普及させるにしろ,知識の事実の切り取り方がポイントになると思うのです。それは判断に大きな予断を与えますから。
 私は昔,原子力の教科書の記述をまとめた本を出したことがありました。それであちこちで話した時に,原発推進派の人たちに,あちこちから言われました。今の記述は事実に比べて偏向しているから,事実をもっと書け,そのためによい方策はないかということを盛んに言われましたが,それは間違いだと思うのです。それは核兵器擁護論の人たちも同じように思っていることだと思うのです。ミニタリー・バランスの関係で核兵器は今まで戦争を抑止することをやってきたと思うのです。その事実も書けということと同じ理屈であって,要するに事実を全部書くというのは,そのものがすでに価値判断を押しつけていることだと思うのです。そういったことを書けということは,すでに原発が今のエネルギー供給面で一定の役割を果たしているという,今のその事実を正当だと見なしているという前提があるわけです。
 ところが,原発論争はその事実の不当性を問うているわけですから,原発記述には,その原発のよい面も悪い面も含めて,両方あるのは当然だと思うのです。
 繰り返しになりますけれども,原発推進派の人たちは自分たちの業務によって実現している今のサブシステムというか,原発がエネルギー源で一定の貢献をしているというこのサブシステムが正当だと思っている。ところが世論は必ずしもそういうことに全面的に賛成ではありません。ずれがあります。そのずれを推進派の人たちはサブシステムのほうに合わせるべく全体のシステムを改変することで,そのずれを解消しようとしています。それは少し危険だなという感じがするのです。もちろんサブシステムのほうが合っていて,世論のほうが間違っている場合もあるのですが,逆の場合もあるわけです。
問題なのはそのサブシステムとメインシステムの間のフィードバックの回路が,原子力の場合はほとんどないことです。この円卓会議が本当にか細い唯一のフィードバックの回路だと思うのです。というのは,もちろん原子力というのがその理解のために非常に専門的な知識を要します。それから,その政策決定能力を考えると,さらにもっとすごい専門家でないと,そこには立ち入れないという,テクノクラートによるテクノクラシーの側面がありますから,それはやむを得ないことだとは思うのですが,ぜひそこのところのフィードバックの回路を作ることが,知識を普及させる道に連なると思います。

【茅】今おっしゃるフィードバックというのは,例えば円卓会議が何らかの意味で政策決定のフィードバックという意味でおっしゃっているように聞こえるのですが,情報の,つまり普及とか開示とかいうことではないわけですね。今のは,フィードバックの意味が私ははっきりわからなかったので,もう少し説明していただけると。

【佐田】もう一度繰り返しますが,世論と原発推進派のサブシステムとの間には少しずれがあります。そこのところを結ぶ回路のことのフィードバックなのですけれども,具体的にこの場合には,原子力の政策決定における参加ということになると思います。要するに推進派だけで物事が決まっているその仕組みを,何とか世論との間に……。

【茅】わかりました。政策決定の側面ですね。

【佐田】はい。

【茅】わかりました。鳥井さん。

【鳥井】今の話との絡みで言いますと,例えば原子力政策そのものに関わるかどうかわからないですが,例えばある地域で原子力発電所のプロジェクトが出てきます。環境影響調査のようなことをやるわけですが,私は常日頃思っているのは,推進側が環境影響調査をやるならば,反対側もやる権利があるのではないかという気がするわけです。原子力委員会が出すべきかどうかしりませんが,公害等調整委員会か何かそういうところが,地元の人たちが環境について私たちも調査をしたいと言った場合は,きちんと調査費をみる。そして地元の人たちは自分たちが信頼する学者の人たちにお願いをして,調査をする。そしてお互いにデータを持ち寄って議論をするという,そういうシステムを作る。
 これは調査費を使って調査をするということ自体が,やはり参加したことに,責任を持つことになるわけです。お互いに責任を持とうという話になり得るわけですし,さらには感情論ではなくて,データを基にした議論ができるようになるのではないかと感じるわけです。
これは何も原子力に限ったことではなくて,いろいろな問題で反対をする人にもきちんと支援をして,きちんとしたデータを彼らも採ることができるというシステムを作っていくことがよいのではないかと私は思っています。

【小沢】ずっと前から,新聞がそういうことを書いてくれていたらよかったですね(笑)。
【鳥井】書いたことは2,3回ありますが,だれも読んでくれなかったような気がします。

【小沢】ずーっとそういうキャンペーンを新聞が張っていたら,ずい分違っていたでしょうね。

【茅】嵐さん。

【嵐】今地域の議論ということで出されていますけれども,私は実はレポートの中のほうはマスコミさんにちょっと批判的なレポートを書かせていただいているのですが。先ほど来出ていますように,言葉に対してイメージが悪い,原子力そのものが非常に受けが悪いというのがあろうと思います。それから,新エネルギーに対しては,非常に明るい未来を皆見過ぎている部分があるのではないか。
 これは1例ですけれども,うちの嫁さんいわく,この間台風が来ましたが,その時に,風車発電の施設が近くにありまして「あそこは電気を起こせていいわね」という話をしたのですが,台風の時は大体羽が吹っ飛んではいけないので止めているわけですが,そういったところでも認識の不足があったりして,家の中でもそういうアンバランスが生じている。
 いかに皆さんにわかってもらえるかというのもあるのですが,1つはマスコミさんにお願いしたい。非常に言葉尻が悪い部分で,原発とか,原爆によく似ているような表現をされるような,何かイメージを常に常に悪い方向に持っていくという,センセーショナルな部分がどうしてもあるのではないか。そのように思っているところでして,もう少し公正な立場で,事実をきちんと見ていただく部分,それからお互いが,私はエキスパート集団等による意見発表の場があればいいのではないかと言っていますが,情報が流れてこないために疑心暗鬼になって,間違った,あるいはセンセーショナルな部分がどうしても出てしまう。そういったものをうまく説明をし,タイムリーに出せるようなものを作っていかないことには,皆さん納得しづらい部分があるのではないかと思います。
非常に言葉尻が悪い,例えば先ほど来,招へい者のご発言の中に「被爆をして云々」ということがありまして,「被爆(もしくは被曝)」というのが非常に報道されますけれども,被曝をすれば普通の人は何かあとに影響が残っただろうという意味合いで使われる場合が多いと思うのです。そういうイメージを持たれると思うのですが,被曝そのものは,放射線に曝されるという意味合いで原子力関係者は使っているわけで,地球上で常に浴びているわけですから,その被曝したというのが問題ではなく,基準値を超えたというのを問題にしなければいけない。ところが,被曝をしたというような部分でまとめられてしまう。それが悪いイメージを持ち,女性に対して,非常に知識が増えたとしても,先ほど来出ていますように,推進側の意見には行き得ないような状況が出ているのではないかという気がしています。以上です。
【茅】吉田さん。

【吉田】私が思うのは,今までの原子力発電の関係者の方,福井の場合ですと,事故が起きた場合に,まず隠そうとなさるという体質がやはり影響が大きいのです。だから「今実は情報を出しています」と言っても,今までがごまかしでやってきている,何とかしてごまかそうというような形で来ているというのが覆されるような,信頼性を得られる仕事をしていただきたいというのが,情報を得るほうとしては求めているものだと思います。
 それと,福井の場合なのですけれども,原子力は環境にやさしいとかと一生懸命宣伝していただいているのです。イメージ的にはそういうのをいただいているのですが,やはりでも何かが不安なのです。どうしても拭い去れないものがあるというのは,結局受け手としては,推進している方は都合のいいことの情報しか流していないのではないかといつも感じるのです。それで,実際原発を動かすと出てくる放射性廃棄物をこれからどうしていくのかという計画,そういうものを明らかにしていかないと。今はよいけれども,これから将来,何百年,何千年と残っていく核廃棄物のことを任される子供たち,結局女性が反発してしまうというのは子供たちのことなのです,自分の子供たちにそういう負担だけを押しつけるという思いがやはり出てくるのです。ですから,実際原子力を推進する方は廃棄物等のことをどのようにしていきたいのかというのをわかりやすく,よいイメージと同じ情報量を,今まであえて言ってこなかったと思うのですが,マイナス分のイメージもきちんと同量に世間に出していただきたい。
そうしないと,一般の方は公平な判断ができないとおっしゃっておられる方もいますけれども,そんなにできないと決めつけるのはおかしいのではないかと思います。正しい情報をきちんとマスコミ等の方に努力していただいて,科学技術庁なり関係省庁の方に正確な情報を,推進派の方が出すのでしたら同じように並行して出していただきたい。そうやって知識を広めていくということをしないと,原子力のことをどう思いますかといっても,わからないという人はいつまでたってもたくさんいて,決めかねている方がたくさんいると思うのです。ですから,そういう情報はきちんと開示していっていただきたいと思います。

【茅】はい,大西さん。

【大西】嵐さんの先ほどの続きのようになるのですが,私のほうで以前にメディアの報道量の調査をしたことがあったのです。それで,原子力に対してネガティブな報道量とそうではない報道量の経時変化のようなものをずっと調べてきたことがあったのです。それはテレビについて, 200種ぐらいの雑誌だとか,新聞についてといろいろ見てきたのですが,そうすると,この20〜30年間ぐらい過去から現在までずっと見てみると,ネガティブな報道をしてきた量とそうではない普通の報道をしてきた量と比べてみると,ほとんど同じぐらいなわけです。世の中の人たちは新聞だとかテレビだとかというのは,非常に原子力に関してネガティブなことばかり報道しているのだという印象を受けるかもしれませんが,一見してそうではないということがわかった。
それは,感受性が関係しているのです。ネガティブな情報に対しては,人々というのは非常に強く反応して,いつまでも覚えているということがあるわけです。ところが,ポジティブとは言わなくても,普通のニュートラルな情報ということについて言えば,人々はあまり感動しないし,それからすぐに忘れてしまうということがあって,結果的にネガティブな情報だけをいつまでも覚えているという結果になって,それで長い時間で見ると,世の中の人たちは原子力というものに非常にネガティブな印象だけを持っているということがあるのです。それは今吉田さんが言われたようなことにも少し関係しているのではないかと思うのです。

【茅】今の皆さんのご意見を聞いていて非常に難しいなと思うのは,先ほど佐田さんが言われたことなのですが,客観的な事実と普通は考えらること,例えば原子力比率がいくつであるといったようなことでも,それを言うことと言わないことによって,すでに意味を生じてしまう。つまり情報を伝える人間の立場によって,意味が変わってしまうという問題を佐田さんは指摘されたと思うのです。そうだとすると,大変難しいのは,今吉田さんが言われたこともそうなのですが,正しい情報というものを,正しく伝えるというロジックがあり得るのかという大変難しい問題になってくるわけです。
ここにはたまたま中村さん,鳥井さん,佐田さんというジャーナリストの方々がおられるので,本来ジャーナリズムというのは公平な立場で公平に報道するという前提でやっておられるのだろうと思うのですが,こういう原子力報道に対する基本姿勢というのはどうお考えになるか,時間ももうあまりありませんので,一言ずつ伺えればありがたいのですが。

【中村】では,私から。

【茅】はい,どうぞ。

【中村】やはり公平で正確でなければいけないと思うのです。しかし,最近はどうも原子力というと,叩いて喜ぶという傾向があるように思います。ですから,公平でないし,正確でない。先ほど大西さんは半々だとおっしゃったのですが,おそらくネガティブな印象が強いのは,事故とかトラブルが起きた時に,バンバンバンとたくさん出ますから,その相乗効果で悪い印象が強くなります。よい情報というのは単発ですから,その差は大きいと思います。ですから,原子力に限ったことではないのですが,正確さと公平さという意味では日本の新聞はずっと点数が下がりっぱなしであります。これは原子力だけではない。あらゆる報道についてです。その中に原子力もあるということで,報道関係は襟を正さなければいけないと思っています。

【茅】鳥井さん。

【鳥井】公平さ,正確さと言われたのですが,公平さというのは難しいのです。正確さはまだ何とかなるとしても,公平さというのを私はあまり大きな声では標榜したくないという感じです。どうしても私はそれなりの価値観を持つものを判断してしまうだろうということはあります。
 もう1つよく私どもが言われるのは,例えば原子力は事故が起こった時にたくさん報道するのに,どうしてちゃんと運転している時に報道しないのだと。だれが「今日は何とか原発はちゃんと運転しています」という記事を読むのだと言いたくなるのです。それは無理がある話で,「今日も原子力発電所は健全です」と一面の頭に書いた新聞をだれが読むかと言ったら,あり得ないことなわけです。ですから,やはり何か起こった時にたくさん出てくるのはこれは仕方がないことでして,そういう意味では,マスコミというのはやはり読者を啓蒙したり何かするという役割も担いながら,やはり部数商売ですから読者に迎合するという側面もあるわけです。
そこはマスコミだけにそういうものを頼ってよいかということは,もう少し考える必要がある。中島先生などがミニコミのようなことをおやりになっている,ミニコミみたいな役割というのも非常に大切なのだろうと思うのです。電力会社もいくつかそういう物を作っていらっしゃるでしょうし,反対の方もそういう物を作っていらっしゃる。そういうことの総合でしかやりようがないのかなと思って,マスコミばかり期待されても困るというのが実態です。

【茅】では,佐田さん。

【佐田】先ほどの大西先生の話にありましたように,知識の量と賛成反対と,相関関係はないと思います。反対派の中にも専門的な知識を持っている人はいくらでもいますし,むしろ知識がないとヒューリスティクというか,要するに判断を上位の権威に委ねる傾向はあると思うのです。その上位の権威に委ねるところに,センセーショナリズムが容易に入りやすい仕組みもあるのだろうと思います。
 それから報道につきましては持論の話は長くなりますので割愛しますと,まず疑似環境が増えています。それからリップマンという人がいますけれども,その人は「われわれは始めに事態を見て定義づけるのではなくて,始めに定義をして,それから事態を見る」というように言いました。
私たちは,例えば山岸会などについても,あの全体を見た上で反応しているのではなくて,あれはいかがわしいなと思った上で,それに合致するような情報に「うん」とうなずきます。そういう作用を私たちはやっています。そういう作用をメディアはよく知っていますから,それに合致したような情報をよく流すと思うのです。その辺りは基本的には大衆迎合というか。さらにメディアというのは娯楽化に走っているのですけれども,そういったメディアを発行部数とか視聴率で支えているのは,言うまでもなく私たちなのです。ですから,メディア批判というのはストレートに私たち,あるいは大衆の批判そのものにストレートに結びつくと思います。その意味で病根はとても深いと思います。

【中村】ちょっと補足させてもらって。公平というのがわかりにくいという話でしたけれども,公平というのは,例えば戦争の報道をすると,勝っただけではなくて負けたことも書く,長所だけではなくて短所も書くということです。原子力も悪い点だけを強調し過ぎない。

【茅】ありがとうございました。それでは,大体時間も終わりに近づいていますので,モデレーターの側からも,コメントを最後にして終わりたいと思います。まず木村座長から。

【木村】先ほど鳥井さんのおっしゃったことで,常々ここ20年ぐらい感じていることを申し上げたいと思います。公平は何かというお話がありました。
 今英国だけではなくてアメリカからもたくさん英語を教える若い人たちが来ています。それから英会話の学校が非常に盛んです。そういう彼らの殆どが日本人が非常に不得手なことが1つあるというのです。何かというと,アメリカなりイギリスではきちんと機能しているのですがうまくいかないのは,いわゆるクラスでやるロールプレイというものなのです。例えば,原子力の問題を取りますと,反対の人は反対の立場からは意見を述べられる。賛成の人もしっかりと述べられる。ところが立場を逆にしてみたら,全然クラスが成り立たないということで,彼らは非常に悩んでいるのです。これはアメリカ,イギリスでは完全に成り立っている一つの訓練法ですが,それができない。その辺の教育の問題があるのではないか。
最近はディベートが大事だというのですが,もっとロールを替えた場合の議論,そうすると当然相手のことを考えるようになりますから,先ほど鳥井さんが言われた反対の知識でも受け取る素地が出てくる。その辺のところが,わが国の将来の教育においてすごく大切なことではないかと思っています。

【茅】ありがとうございました。それでは,副司会を務めていただいた石川さん。

【石川】どうもありがとうございます。今鳥井さんが,たしかにマスコミだけが伝達の手段かというお話をされましたが,それ以外にどうやったらよいかという事ですが,実はよその国はやっていて,日本だけがやっていない悪い習慣があるのです。IAEA,国際原子力機関などで決めているのは,安全の最終責任等は電力にあるのですが,この原子力という特別なことを認可した責任,国は認可した責任があるわけです。その責任を果たすのにはどうするかというと,国民に対して直接独自のチャンネルを持って安全の説明を訴えていけということが規制の責務としてきちんと国際的に決まっている。けれども,日本のお役所はそれをやっていません。私は常々言っているのですが,まだやっていただけません。
 例えば「もんじゅ」のような事故の場合に,あれだけの事故で世の中がワーッとなっている時に,安全委員会が「確かにこれはこうこうこういうことで,非常に不安を与えているけれども,原子力の事故という面や放射性物質の放出等については安心せよ」ということを,やはり野中さん(官房長官)がやっているように,きちんと報告をする必要があるのです。このような慣行が安全委員会にも原子力委員会にもないのです。私はこれが非常に日本の国の原子力を特殊なものにしている点だと思います。
そして,このようなことを色々なチャンスをつかまえて伝えていこうと思いますが,その障害となっているのが残念ながら日本の,マスコミのあまりの性急さです。何か言うとそれにすぐに答えなくてはいけないということで,発表している人の意見に耳を貸さないで,悪く言うと取り調べ室のような感じで事故取材をやられる。したがって役所や安全委員会も国民に話が出来ない。こういった問題があると思います。マスコミと言う1つだけのチャンネルで,その情勢だけで議論をするというのではなくて,今日もいろいろな点で議論がありましたけれども,複数の情報チャンネルを持つ必要があると思います。話は少し変わりますが,現在正しいと思っていることが本当はの妥当なのか,そういった観点から議論をする,この点をもう少しわれわれが勉強していかなければいけないのかもしれません。

【茅】ありがとうございました。今日はエネルギーの供給と需給の整合をどのような形でとっていくのか,需要の抑制であるとか,原子力でやるか,あるいはそれ以外のエネルギーでやるかという議論もいろいろしていただきましたし,また,原子力に関しての知識,あるいは情報をどのように流通させるか,その中でのクライテリアは何かといったことについてもいろいろご議論をいただきました。
この円卓会議では,毎回の議論をまとめて話をするということはやっていませんので,そんな内容があったということはご記憶いただけるかと思いますが,私どもとしては,ここにいただきました皆さんのご意見を多いに参考にして,今後のわれわれなりの提言の作成に多いに役立てたいと考えています。それでは時間がまいりましたので,これで私の役目は終わりにしたい思います。どうもご協力ありがとうございました。

【事務局】それでは,この辺で本日の原子力政策円卓会議を終わらせていただきたいと思います。お招きした皆様方,先生方,長時間のご議論ありがとうございました。
 また,傍聴の皆様方におかれましては,本日は長時間最後までご静聴下さいまして,本当にありがとうございました。事務局より御礼申し上げます。

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