原子力の運営体制のあり方について(Ⅱ)
原子力政策円卓会議(990121)
山地憲治

中央省庁再編など現実の動きがあるが、あえて理想論を述べる。

運営体制とは何か?組織設計(原子力委員会など)とその運用(プロセス:情報公開、決定過程の透明性、市民参加など)の両面を考えるべき。仏作って魂入れずということもある。

まず、組織から:
市場に任せる部分と政府が担当する部分、つまり、民間部門による運営と公共部門による運営の選択の問題がある。原子力は「国策・民営」といわれているが、本当にそうなのか?そうであるべきなのか?決めるのはすべて国で民間は手足で良いのか?

市場に任せるべき部分がある。:
軽水炉発電など原子力には既に商業化している部分がある。これは競争的市場の中で民間部門が担当するのが適切。政府は競争条件の整備に回るばき。この部分は国策でなく民間で進めるべきだと考える。では、どこまで民間でやるのか?発電と核燃料サイクルのうちの使用済み燃料貯蔵までと考える。Pu利用は市場競争力がない。今選択できるとすれば、再処理は民間(市場)の選択肢には入ってこないと思われる。つまりPu利用は現在の市場の選択を超えた選択(ただし、これを否定するものではない。何時やるかと言うタイミングの問題はあるが、原子力を長期的に展開するために公共的に必要なものと考える)。高レベル廃棄物処分についても民間の対応能力を超えていると思われる。ただし、費用負担は必要。

政府(公的部門)に任せる部分は何か?:
基本的に3つの領域がある。1)環境・安全性の確保、2)長期的な主要エネルギーとしての開発(エネルギーセキュリティ、地球温暖化対策、脱化石資源、長期的エネルギーR&G)、3)平和利用への限定・核不拡散(核軍縮)の推進

この3領域をどのような組織に任せるべきか?:
1) と2)は別々の組織とし、かつ原子力専任の組織としない方が良い。
2) については今回の省庁再編の方向で良いと考える。経済産業省で一貫してエネルギー政策を担当する中で原子力をとり込むので良い。基礎的な研究を教育科学技術省で行うのは良いが、原子力が聖域にならないよう注意する必要がある。
1)については原子力・放射能の環境安全性を突出して扱うのでなく、リスク概念によって原子力以外の他の安全環境問題と整合的に扱うべきである。ゼロリスクは原子力に限らず、人間社会には有り得ないという認識が必要。これは現在の動きとは大きく違うところ。独立した原子力の安全規制組織を作ると無用の混乱と巨大な規制コストをもたらすと心配する向きもあるがこれは制度の設計と運用で対処すべきもの。このようにすればダブルチェックは不要。原子力安全委員会と原子力安全・保安院は統合し、2)の総合エネルギー政策の中で原子力の路線を決定する役割を担う組織からは独立して、環境安全問題を一元的に扱う組織に合流するのが望ましい。
3)については現状では、我が国の平和利用を守るという姿勢が前面に出ていることが問題。平和利用と軍事利用に境界があるということを前提とするのでなく、両者に深い関連があるという問題を認めた上で、積極的に世界の核不拡散・核軍縮体制の構築に向けてリーダーシップを発揮するくらいに姿勢を転換しなければならない。
ということになると、原子力委員会はどうなるのか?原子力委員会のような原子力専任の組織の役目は、今のように整理すると3)の平和利用の番人(もう少し世界の核不拡散・核軍縮への積極的貢献を強調することが必要だが)として役割しか残らないのではないか?

運用についてはどうか?
情報公開は当然。インターネット利用が良い。
市民、専門家、地元の参加をどう考えるか?
「戦争のような重大なことを将軍たちに任せては置けない」という有名な警句がある。原子力にも「原子力のような重大事は専門家如きには任せられない」という側面は確かにあるだろう。ここは政治の出番である。ここでは責任を取れる決定者、あるいは納得できる決定プロセスが必要である。専門家は採用可能な選択肢をその合理的な評価とともに複数用意する。議論は透明にして、ステークホルダーの間で政治的(良い意味で)の決着をつけるしかあるまい。このステークホルダーとして誰を参加させるのか?難しい所だが、代議制の民主主義が基本で、決定過程の透明性と公開性が必要。宗教裁判や人民裁判はお断り。

独り言:
論理的に正しいというだけで決定ができるものではない。公明正大であるという意味で正しいことが決定においてはより重要だと考えている。望むらくは、論理的に事実関係としても正しい選択の中から公明正大に決定して欲しい。しかし、論理的には誤った決定が公明正大に行われることも十分にありうる。この場合でも公明正大を選ぶべきであると悩みながらも考えている。専門的合理性と決定プロセスの正当性は一致するとは限らない。しかしそれでも、私は人類にとって核エネルギーの意義はきわめて大きいと考えている。