第5回原子力政策円卓会議レジュメ
テーマ:原子力の運営体制のあり方について
1999年1月21日
飯田 哲也(いいだ てつなり)
日本総合研究所 主任研究員
市民フォーラム2001 運営委員
自然エネルギー推進市民フォーラム 理事

タテマエの議論ではなく、リアリティを見つめた議論を提起したい。日本では、以下で説明する「ムラ社会性」のために、リアリティからの問題提起があっても、タテマエを理由に無視・拒絶されるか、タテマエとしての言葉の洪水の中に見失われてきた。そのため、いったん、タテマエを維持できないほどリアリティの危機が高まった場合には、何の社会的準備がなされておらず、なすすべがないか、ヒステリックな対応がなされ、いつしか平静の「タテマエ」に戻っていく。もんじゅ事故や阪神大震災は、その好例である。その「ムラ社会性」の地点から、日本の原子力の運営体制のあり方を問いなおしたい。

1. 暴走する「原子力ムラ」の人々~日本社会の「ムラ社会性」とは
日本社会の文化的固有性については、共同体論理、情況のルール化、母性原理、多神教など、さまざまに形容されるが、それらを一括りで「ムラ社会性」と呼びたい。その日本社会のムラ社会性が、異様に歪んだ形で表出している典型例の一つが「原子力ムラ」である(註1)。その主要な特徴として、次の5点を指摘できる。

① 共同体論理~国際的に異質な日本の「公」、「公」を偽装した「官」
日本における「公」(Public)と「私」の概念は、西欧や中国とは異質である(註2)。「すべての人に属する公開の」といった意味を持つ西欧の「パブリック」に対し、日本の「公」は、究極的には「朝廷」を意味する「おほやけ」のやまと言葉の概念を「公」という漢字にあてはめたもので、「領域の公」と呼ばれている。ここに「公」を偽装した日本の「官」の由来があり、「公(国・県・市)有地につき、立ち入り禁止」といったブラックユーモアが生まれる。
一方、日本の「私」(わたくし)概念もユニークで、後ろめたさと「おほやけ」(公)に対して隠されたという意味から、「隠私」と呼ばれており、究極的には「イエ・ウチ」(家族)を意味する。「公私混同」「私事で恐縮ですが」がその代表で、その裏返しが「旅の恥はかき捨て」である。
ここで重要なのは、その「公」と「私」が相対的な関係にあることである。ある人にとって、家族が「私」で職場が「公」とすれば、その職場の長(たとえば課長)にとっては、課内が「私」(ウチ)で、より大きな組織体(たとえば部長会議)が「公」となる。こうして「私」と「公」の相対化の関係から、本来の「公」であるべき空間(行政組織など)も、容易に、日本的な「私」的空間に変質する。ここに、「原子力ムラ」を閉鎖的な家族原理・共同体原理が支配する由来の一つがある。
共同体(ムラ)の秩序やムラの利益を最優先する論理のために、本来の「公」的価値や「個」の尊重など民主主義の基本原理が歪められている。「国」が訴訟された場合に、中央政府(じつは官僚組織)による対抗への異常な執念は、例に事欠かない。また、ムラ社会の秩序とは「見かけの平静な秩序」であるため、大胆な政策転換もできず、民主主義においては新しいルール構築のチャンスである少数者・異論者からのオブジェクションを抑圧し、認めようとしない。

② 構造化されたダブルスタンダード~タテマエと本音の乖離の固定化
どの社会でもダブルスタンダードは避けられないが、民主主義社会として社会に信頼を醸成するためには、そのタテマエと本音の乖離を埋めようと絶えず努力することが必要である。しかるに、日本社会は、「本音」(リアリティ)を放置したまま、タテマエ(表面づら)だけは、言葉の洪水できめ細かく取り繕おうとする。原子力のコスト、立地プロセスにおける2重基準、原子力委員会よりも実態としては優位にあって「自律」している通産原子力ムラなどがその好例である。

③ 物神信仰(フェティシズム)~見えないものより見えるもの、概念より数字、価値よりカネ
日本社会には、アニミズム/多神教に由来する「物神信仰」があり、「見えるもの」が過剰に重視される一方で、「見えないもの」は軽視される傾向にある。「見えるもの」とは、現実に存在する「大型の施設」であり、数字であり、カネである。一方、「見えないもの」とは、概念や価値などで、今日的な民主主義的なルールを形成する上で不可欠の要素だ。これが、日本の統治システムが、人々の不安、危機の警告、放射能のリスクなどに鈍感である所以であり、上のタテマエ主義と相まって、硬直的な教条(字づら)主義に陥る所以であろう。「これほどの地震は想定外だった」という阪神大震災後の言葉に象徴されるように、事故の警告には鈍感で想像力に欠け、事故が起きて初めてヒステリックに対応するという、危機へのリアリティを欠いている背景でもある。

④ ムラの神話~「空気」(非言語的コミュニケーション)が生み出す逆らえない「神話」
非合理的・非言語的なコミュニケーションが支配的な「日本的ムラ社会」では、構成員も誰もが逆らえない「神話」が支配している。それは、非合理的であるがゆえに偶像崇拝的であり、非言語的であるがゆえに反論が困難で抑圧的である。原子力ムラにおける「神話」とは、いうまでもなく原子力推進であり、プルトニウムを用いた資源増殖である。

⑤ 時代錯誤のトップダウン社会観~ボトムアップ社会観との大いなるすれ違い
日本社会には、あきらかに2つの社会観が、すれ違って併存している。
一つは、日本の上部社会システムで支配的な「トップダウン社会観」で、愚民意識、社会に対する尊大な操作(統治)意識などを特徴としている。もう一つは、「ボトムアップ社会観」で、もともと、いわゆる「お上意識」に代表される庶民意識であったが、近年、ユニバーサルな価値を共有する「市民派」の台頭など、前者に比べると成熟が著しい。
いわゆる、デモクラシーの価値を共有しているのは、明らかに後者であるが、権力に固執する前者は、市民に対する「愚民意識」と不信感が根強く、2つの社会観をすり合わせる努力は希薄である。

併存する2つの社会観

項目

トップダウン的社会観

ボトムアップ的社会観

代表的主体

官僚・企業トップ・保守政治家

反原発団体・環境NGO・市民派政治家・マイノリティ・フェミニズム

基本原理

社会の(表面上の)秩序

公共性、基本的人権、福祉

安全保障の視点

国家(超国家主義)

個人(人間の安全保障)

背景にある感情

愚民意識

官僚・大企業・政治家への不信感

代表的な政策例(エネルギー関連)

  • 原発20基増設
  • 再処理プルトニウム利用政策
  • サマータイム国民運動

  • 巻町原発住民投票
  • 地域自立のエネルギー政策
  • 市民共同発電所
  • 2. 原子力ムラ」のムラ社会性が生む病理
    上で述べた「原子力ムラ」のムラ社会性は、どのような病理を生んできたのか。リアリティに即した事例を挙げる。

    ① 「縦割り官主主義」と通産省の暴走
    まず、原子力ムラにおける、通産ムラと科技庁ムラの2重構造がある(註3)。そもそも原子力委員会は、内閣総理大臣の諮問機関であるので、原子力政策を包括的に所掌するはずである。しかし、事務局を科技庁が努めているために、実態としては「科技庁ムラ」の"シャーマン"として振るまい、通産ムラは、別途自分達の"シャーマン"として、「総合エネルギー調査会原子力部会」を設置している。
    タテマエ上、原子力委員会を尊重する"ムラの秩序"は、もんじゅ事故によって破られた。それまでは、形式上、原子力委員会の答申があったのちに、ほぼそのカーボンコピーが原子力部会によって答申されるというセレモニーが行われていた。しかし、もんじゅ事故の後、科技庁ムラの「高速増殖炉路線」脱線の巻き添えになることを避けて、MOX利用だけを切り離して容認する報告を、原子力委員会に先駆けて、原子力部会が答申した(註4)。
    また、今回の原子力政策円卓会議のねらいの一つが「原子力長計」の改定にあるにもかかわらず、通産ムラの「総合エネルギー調査会」および「電気事業審議会」では、「原子力安全・保安院」の設立など、安全規制までをも取り込もうとしており、通産ムラは、ますます増殖/暴走しつつある。

    ② 非民主的・アニミズム的な政治プロセス
    原子力委員会をはじめ、大学教授や評論家を中心に構成した「審議会」というシステムは、不透明性、委員構成の偏り、アカウンタビリティの欠落、官僚の隠れ蓑の役割など、明らかに非民主的なシステムである。「有識者」が中立性を装った構図の政策プロセスは、今日的な民主主義のあり方から大きく乖離しており、ほとんどアニミズム的とすら言える(古代シャーマンの構図)。審議会の場は、じつはきわめて政治的な事柄を決定しているのであり、その参加者には、本来、広義の政治的な正当性が求められる。現状の審議会に参加している専門家や評論家、そして事務局を努める官僚を含めて、そうした正当性が検証されるべきであろう。

    原子力委員会下の専門部会における委員構成(一例)

    委員の内訳

    原子力委員会

    総合エネルギー調査会原子力部会

    核燃料リサイクル計画専門部会

    高レベル放射性廃棄物処分懇談会

    原子力バックエンド対策専門部会

    政治家-国政レベル

    地方レベル

    2名

    事業者-電気事業関連

    7名

    4名

    2名

    3名

    他事業者関連

    1名

    1名

    2名

    業界団体

    3名

    2名

    1名

    2名

    労働組合

    1名

    1名

    1名

    消費者団体/環境NGO等

    2名

    有識者-大学教員

    7名

    11名

    10名

    7名

    政府系研究機関

    4名

    2名

    6名

    3名

    他評論家

    1名

    4名

    1名

    5名

    マスコミ

    1名

    1名

    2名

    1名

    ③ 公開ヒアリングの実態~タテマエだけの"大政翼賛会ヒアリング"
    どう見ても「セレモニー」にすぎない公開ヒアリングが、民主主義を装おうもう一つの「装置」である。そもそも、第一次公開ヒアリングすら、知事の同意をはじめとする実質的な手続きが完了してからの開催であり、「住民の意見を聞くこと」はセレモニーにすぎないことがプロセスに埋め込まれている。わずか1日の形式的開催に過ぎず、質問者はもちろん、質問内容すら事前登録制である上、その数にも時間にも制限が設けられている。さらに、原子力安全委員会の行う第二次公開ヒアリングの形骸化はいっそう甚だしく、答弁も実質的に官僚が取り仕切っている(註5)。
    こうした形骸化した手続きと化してしまった公開ヒアリングを強行するだけで「これ足れり」とする実態は、民主主義を装おう独裁国家か全体主義国家を見るかのようである。21世紀を目前に控えた今日、成熟した民主主義社会として欧米と並ぶ一極を占めるべき日本社会の情況とは思えない。

    ④ 隠ぺいの歴史
    「日本的ムラ社会」の特徴として、真実よりも共同体に対して「誠実」である点が挙げられる。原子力ムラも例外ではなく、共同体の利益を守るために、高速増殖炉もんじゅの事故(1995年)、数カ月前に発覚した使用済み燃料輸送容器をめぐるデータねつ造など、原子力ムラをめぐる「隠ぺいの歴史」は枚挙にいとまがない。

    【原子力ムラにおけるここ数年の隠ぺい事件】 -高速増殖炉もんじゅの事故と事故隠し(1995年12月) 事故現場のビデオをはじめとするさまざまな事故隠し。 -東海再処理工場の爆発事故と虚偽報告(1997年3月) 1分間の消火活動ののち、確認のないまま、行政庁へ「消化確認」の虚偽報告。さらに、下請け作業者に対して、偽証証言の強要。 -一次系配管温度管理データの改ざん(1997年9月発覚) 常陸エンジニアリングサービスが建設・補修を行ってきた原発で、一次系配管の溶接工事を実施した際の温度管理データの改ざん。 -使用済み核燃料輸送容器のデータ改ざん問題(1998年10月発覚) 使用済み核燃料の輸送容器に使われている中性子遮へい材の試験データを業者が一部書き換えるデータねつ造。

    ⑤ 現実への不誠実、危機への鈍感 つねにタテマエが先行するために、「事実を知ること」に対して不誠実であり、「危機の警告」に対して、鈍感である。一例が、原発のコストである。通産省をはじめとして、電力会社は、いまだに原発のコストとして「9円/キロワット時」という数字を公表しているが(註6)、これは事実によって検証されていない「虚構の数字」である。 また、地震学者によって、現行の原発耐震基準の基準が、最新の地震学に照らして不適切であることが最近指摘されているが、行政も原子力安全委員会も電力会社も、基本的な対応を避けている(註7)。

    ⑥ 非公式・非民主的な立地プロセス
    「原発の立地プロセス」は、タテマエ上は電調審に始まり、実態は電調審に終わる、というのは周知の実態である。「電源開発調整審議会」という、公式のプロセスが始まる前に、非公式の、したがって非民主的な手続きによって、実態としての原発立地プロセスが進むことは、社会の民主的なコントロールが虚構化されるという点で、重大な問題である。土地と漁業権を中心とする買収工作、選挙での不正、贈収賄、暴力事件などが、さまざまに報告されているし、「原発見学500円ツアー」といった事実上の「買収工作」も公然と行われている(註8)。

    ⑦ 米国技術の上澄みをコピーしただけの底の浅い原子力技術体系
    日本の原子力技術は、「高度」とか「先進」と形容されるが、それは「技術」のレベルであって、けっして技術体系全般ではない。とくに「技術体系」でみると、米国の技術体系の上澄みだけを直輸入しただけの底の浅いものである。その象徴が、日本の原子力機器基準の「告示501号」(註9)で、これは実質的に米国機械学会による原子力機器基準であるASME Div.Ⅲのカーボンコピーである。いわば、氷山の水面上の部分だけをそのまま持ってきたもので、日本の技術コミュニティが自ら築き上げてきたものではない。品質保証観念もしかりである。また、核計算や構造解析などに用いられる無数にある原子力解析コードのほとんどは(その中で用いる核定数などの基礎データを含めて)、米国生まれである。
    これは、ちょうど半導体産業において、米国がCPU(中央演算回路)部分を担い、日本が単純メモリー部分を担っているのと相似関係にあり、物神信仰に片寄り概念的施行の交換と止揚と体系化が苦手な日本社会における技術コミュニティの文化的特性に由来するものと考えられる。

    3. 政策プロセスの「民主化」に向けて~「ムラ社会性」を前提とした改革を
    ● 基本的視点~政策プロセスの「民主化」へ
    ① 「ムラ社会性」を前提に、その弊害を防止しうるシステム構築が必要
    日本社会の文化性(ここでは、ムラ社会性)は、歴史的に積属して形成されてきたものであり、一朝一夕に変わることは期待できない。そうではなく、その「ムラ社会性」があることを前提に、改革案を練らねばならない。とくに、上で指摘したような「ムラ社会性」がもたらしている弊害を謙虚に認識し、それをどのような仕組みで防止/改善しうるかを考えねばならないし、「ムラ社会性」を前提にしながら、どのようにユニバーサルな価値と折り合いをつけていくかを考えていく必要があろう。

    ② 今日的文脈に対応する新しい政策プロセスの構築に挑戦を
    「民主化」というと古い言葉のように聞こえるが、リスクが高度化・複雑化してきつつある今こそ、あらためて新しい政策プロセスが必要とされている、というのが欧州、そして米国ですら認識されつつある命題である。地域の代議制に基本をおいたこれまでの「間接民主主義」や、それを補完する労働組合・社会福祉システムは、「富を分配する政治システム」であったが、今日においては、容易に国境や世代を超えうる「リスク」をどのように定義し分配していくのかが問われている。そのため、科学者や専門家の役割の問いなおしも必要であるし、あらたな政治サブシステムが必要とされている。

    ③ トップダウン型社会観とボトムアップ型社会観との位相の調整
    このまま社会の中に「価値亀裂」を拡大していくことは、社会の分裂の危機を拡大する。この国の統治システムに対する国民からの信頼は低下する一方であるし、統治システムの方は、ますます「愚民意識」を強めるばかりである。
    「安全から安心へ」といった、ほとんど国民を愚ろうするかのようなスローガンは取り下げるべきである。また、エネルギー需給の数字合わせだけの政策を強行するのではなく、謙虚な、本来の意味の「対話」こそが社会で必要とされている。超国家主義的な色の濃いトップダウン型社会観と、民主主義的な価値を共有するボトムアップ型社会観との位相をあわせる作業が必要だろう。

    ● 政策プロセスの具体的改革案
    ① 議論の場の改革~原子力委員会の廃止と「総合エネルギー委員会」の創設
    まず、現在の原子力委員会は廃止し、エネルギー政策を形成する委員会(例えば、「総合エネルギー委員会」)に一本化するべきである。原子力委員会を独自に維持する目的として、「エネルギー利用」「放射線利用」「軍事(非)利用」の3つが挙げられている。このうち、非核三原則を堅持する日本としては、「軍事利用」の可能性はない。また、「放射線利用」も、放射線安全性への考慮を除けば、わざわざ原子力政策でカバーする合理的な理由はなく、それぞれの分野(科学技術政策、医療政策など)でカバーすれば十分である。放射線安全性は、後述するように、安全規制の一本化で対応できる。したがって、原子力利用の目的は、エネルギー利用に絞って考えることが妥当であり、そうであるならば、エネルギー政策に統合すべきである。

    つぎに、現在の「審議会」というシステムは、一見、政治的ではない「中立性」を装いながら、実態は、官僚の裁量のもとで極めて「政治的」な事柄を決定しており、民主主義の基本に照らして大きな問題であることは説明したとおりである。そもそもエネルギー政策とは、政治的な空間で公論を尽くして策定されるべきものであるから(原子力発電所を一基つくるかどうかも、高度に政治的な事柄である)、政策立案のための議論の足場を、もっと明確に「政治的な場」であることが明示された場として位置付けることが必要である。とりわけ、それぞれの省庁が「官僚ムラ」を形成している日本の現状を考えると、特定の「官僚ムラ」が、民意を差し置いて事実上の意志決定権を行使することを慎重に避けねばならない。その目的のため、いかに各官僚組織から、等方的な位置付けを保つかについて、工夫する必要がある。たとえば、(新)内閣府もしくは国会に付属した委員会として、事務局の知的・組織的独立性と開放性に配慮しながら、「総合エネルギー委員会」を創設すべきである。

    ② 「総合エネルギー委員会」へのステークホールダ(政治的に正当な当事者)の参加の確立
    今日的な民主主義的プロセスを構想するとすれば、「決定権のある検討委員」は、すべてステークホールダ(政治的に正当な当事者、広義の利害関係者)の代表で構成すべきである。日本では、表面上のいさかいを嫌って、事業者代表を例外とする本来の当事者がこうした検討から遠ざけられ、「中立・公正」を標榜する「有職者」で委員を構成することが多い。しかし、そもそも「中立・公正な有識者」などは幻想であり、むしろ当事者が徹底的に公論を尽くすところから、はじめて民主主義的に「中立・公正」な解を得ることが可能となるのである。逆に、特定の当事者を欠くと、その「解」は大きく歪んだものとなる。ここでいうステークホルダ(政治的に正当な当事者、広義の利害関係者)とは、海外の例にならえば、おおむね以下のような構成となろう;

    -政党(与党)の代表
    -政党(野党各党)の代表
    -エネルギー事業者の代表
    -エネルギー消費者(事業者)の代表
    -エネルギー消費者(一般消費者)の代表
    -労働組合の代表
    -環境NGOの代表
    なお、大学教授、評論家などの「有職者」はステークホールダには該当しないので、特定のステークホールダから委任された場合を除いては、「決定権のないアドバイザー」とすべきである。

    ③ アセスメント機能と批判的視点を持った真の安全規制の独立を!
    現在の省庁再編の議論の中で、原子力の安全規制部門を通産ムラ(経済産業省)に統合する流れがあるが、これは過去に生じた問題に学ばない方向である。もともと形骸化・形式化していた原子力安全委員会に、独立性と真のアセスメント機能を持たせることこそが必要なのであり、通産ムラ(経済産業省)に原子力の安全規制部門を統合することは、それに逆行する。これまでの原子力ムラの事故隠し・隠ぺい・改ざんといた体質にメスを入れることなく、今の形骸化した公開ヒアリングの固定化を意味するだけで、本来の安全性の向上のためには有害無益である。もともと、原子力ムラ全体(産官学複合体)をだたよう共同体意識が、安全規制から批判的な視点を失わせているのであるから、原子力ムラにとって「異質」な主体、すくなくとも知的独立性を保持した主体が安全規制に加わる必要がある。
    本来的には、新環境省内、もしくは今の原子力安全委員会のスタッフ・査察権・アセスメント機能などを強化する形で、人選も慎重にしながら、独立性の高い安全規制機関を再構築する必要がある。放射線安全性も、環境行政および環境・科学技術アセスメント機能に統合すべきであろう。

    ④ エネルギー政策における中央と地域の役割の再検討
    エネルギー政策は、持続可能な社会を目指していく上で、カギとなる政策であり、その持続可能な社会を目指していく主体としては、「地域」の役割が大きくなっていくことは、サブシディアリティの原則にかなった時代の潮流である。その過程において、エネルギー政策でも、中央政府と地域(県および市町村)との役割を再考する必要がある。
    私案としては、日本の「EU化」が望ましい。日本では、地域のあり方はじつはきわめて多様であり、中央政府は、基本的なルールと長期的な戦略、そして地域への支援の役割を担うブリュッセル的な役割を担い、地方政府がローカルアジェンダ21や環境基本計画などを統合したエネルギー政策の内実を中心的に担う地方主権型の役割分担への移行が妥当であろう。このとき日本のムラ社会性を考慮すると、各地方政府が担う政策が、中央政府からの「縦割り」で行われないための工夫が必要であろう。

    ⑤ 民主主義の基本的な手続きの整備
    以上の改革をすすめる以前の基本的な了解として、以下に例示するような民主主義の基本的な手続きは整備することが求められよう。
    ・ 情報公開
    ・ 議論の場の公開
    ・ レミス手続き(ドラフト段階での公開縦覧と意見聴取)
    ・ 国会における政治的手続き(実質的審議のない閣議決定・閣議了解は避ける)

    ● 改革の前提条件としての「原発モラトリアム」と「真の社会的対話」
    上記のような改革を進めていくためには、①原子力モラトリアムを行った上で、②社会的な対話を深化させることが大前提となる。

    ① 対話の前提としての「原発モラトリアム」
    ここでいう「原発モラトリアム」とは、原発新増設とその立地活動の一定期間停止、再処理・プルトニウム利用政策の一時停止の2つを中心とするものであり、これが社会的対話の大前提となる。現在、原子力委員会のもとでこの原子力円卓会議が開催されているのを後目に、通産ムラは、原発20大増設やMOX推進などを一方的・専横的に進めているが、こうした一方的な構図のもとで「社会的対話」など成立しない。スウェーデンにおける1980年3月の原発国民投票に至るプロセスや1990年のスイスの原発モラトリアム(新増設の10年間の停止)など欧州の経験、成田空港をめぐる円卓会議、さらには最近行われたベトナム戦争をめぐる対話など、過去の例を参照すれば、「真の社会的対話」の条件として、少なくとも以下の三つを指摘できる(註10):

    【対話への三つの前提条件】
    第1条件:対立を生んでいる論点に関して、一方的な推進をいったん中断すること
    この点は、社会的な対話に向けて、最優先すべき要件であろう。成田空港問題で「強制収用放棄」が確約されたことが対話を成立させたし、反対に、ベトナムで「北爆」が停止されなかったことが、対話の席につくことを不可能にした。
    第2条件:対話への参加者が対等な条件であること
    これは、論点の当事者が対等な立場で参加できることと、調停者が双方から信頼されているメンバーで構成されることの二点が求められよう。
    第3条件:対話の帰結に対して、政策が開かれていること
    成田空港円卓会議が、二期工事を前提としないことを確約して対話が成立したように、対話の帰結に関して、政策が開かれているべきである。これまで行われてきた「ご意見を聞く会」や「公開ヒアリング」のような結論の決まった「意見交換」に対話はない。

    ② 真の対話のための「円卓会議」の改善と継続
    新しい政策プロセスを構想するために、「円卓会議」を改善しつつ、対話を継続する必要がある。

    【継続のための円卓会議の改善】
    ・ まず、通産ムラを交えること
    ・ 対話の前提条件である「原子力モラトリアム」を確約すること
    ・ 円卓会議に、政治的に一定の足場を持った位置付けを与えること
    ・ 対話への参加者が対等な条件で参加し議論できるよう、調停役の見直しを行う。原子力推進サイド、批判サイドそれぞれが推薦する調停役に加えて、双方いずれもが了解する調停役という構成が望ましい。
    ・ その上で、議論の参加者は、基本的に最終報告までの恒常的な参加を前提に、ステークホールダ(政治的に正当な政策の当事者)を慎重に選択する。
    ・ この新たな円卓会議の役割は、これまでの原子力運営体制の問題点を実態レベルで徹底的に検証し、それに対する改善策を盛り込んだ新しい政策プロセスを構想することにある。とくに、「原子力委員会」の改廃とそのあるべき姿、原子力安全規制のあり方、「総合エネルギー委員会」のあり方、そして高レベル放射性廃棄物を議論していく枠組みのあり方などについて、方向性が提示されることが望まれる。

    【注記および補足】
    註1:飯田哲也「模索する原子力ムラの人々」Ronza 1997年2月号、朝日新聞社を参照。
    註2:『公私』(溝口雄三著、三省堂)など。
    註3:日本の原子力開発利用体制を「2元論手的構造」とする吉岡氏の指摘(「日本の原子力体制の形成と展開:1954-1991~構造史的アプローチの試み」年報 科学・技術・社会、Vol.1(1992),pp1-31)など。
    ただし、原子力産業を通産省グループに分類する同氏の理解とは異なり、実態として、原子力産業は双方のグループに奉仕するという理解からモデル図を作成。
    註4:プルサーマルを容認する総合エネルギー調査会原子力部会の中間報告書が、平成9年(1997年)1月20日であったのに対して、それを追認した原子力委員会決定「当面の核燃料サイクルの具体的な施策について」は、平成9年(1997年)1月31日と11日後であった。
    註5:「セレモニー」にすぎない公開ヒアリング実態は、下記のとおり、以前も現在も変わらない。
    ・ 北陸電力/志賀原発2号機第2次公開ヒアリング(1998年10月16日)から
    「住民の意見を聞くという事実をつくりあげるだけで、討論の場になっていない」(石川県連帯労組会議の橋本邦夫議長)、「通産省の回答は本から出して答えているみたい。質問の内容を聞いていて、かえって危険性を再認識した」(傍聴者一女性)
    ・ 中国電力/島根原発3号機第一次公開ヒアリング(1998年11月11日)
    「同じ回答の繰り返しが多く、やりとりも浅い。質問を整理して一つの問題に時間をかけて回答すべきだ」(傍聴者一女性)(朝日新聞98年11月12日)、「私は開催そのものに反対しています。形式だけの催しだからです。原発を建設するたびに公ヒアが開かれてきましたが、住民の意見が反映された試しがないのです。二月に公開された、3号機増設が環境に与える影響を予測した環境影響調査書(環レポ)の地元説明会も同じ手法でした。つまり国は、『住民の意見を聞きましたが、皆さんおおよそ賛成です』との結論を導き、『民主的な手続きを踏んだ』として増設計画をレールに乗せ、電力会社の後押しをする発想です。増設のためのスケジュールを淡々とこなしていきたい、そういう発想しかうかがえません。(中略)立地する自治体が同意する前に、国が勝手に建設のための手続きを進めている。とてもおかしいことです。国は地元に安全性についての説明をしてから住民の意見を聞き、その議論があって自治体が判断する、そうあるべきです。県原発委も異論を出して抗議すべきだった。委員は県民の将来を大きく左右する存在。住民一人ひとりに意見を聞くべき問題かも知れない」(市民団体「島根原発増設反対運動」事務局長芦原康江氏)(朝日新聞98年11月11日インタビューより)
    ・ 内橋克人「原発への警鐘」(86年)でも、島根原発2号機第2次公開ヒアリングの実態を紹介した上で、以下のように指摘している;
    「過去の公開ヒアリングのすべてが賛成派の意見陳述だけで通り過ぎ、そして当然の結果として、住民の意思によって原発立地が取り止められた、という実例は一度として現れたためしはない。"大政翼賛会ヒアリング"と呼ばれるゆえんだ。」「ひょっとして、(原子力安全委員会は)科学技術庁のロボットではないか?」その他、形式的官僚答弁に終止する不誠実な公開ヒアリングの実態や、公開ヒアリングの骨抜きの過程、批判派の閉め出し等を指摘している。
    註6:例えば、資源エネルギー庁のホームページ(http://www2.enecho.go.jp/atom/dokuhon/
    a02-22.html)や電気事業連合会のホームページ(http://www.fepc.or.jp/genshi/index.
    html)など。また、最近開かれた中国電力/島根原発3号機第一次公開ヒアリング(1998年11月11日)でも、中国電力が「原発発電コストは一キロワット時当たり九円程度で他の発電と比べてそん色ない。廃棄物についてのコストも評価の中に含まれている。3号機も同程度と考えており、建設などで工夫をこらしてコスト削減に努めたい。」と回答している。しかし、同社の島根原発2号機の設置許可申請書によれば、原発原価(初年度)は15.65円/キロワット時」と報告されている。1号機の報告はないが、通常、1号機は土地取得費用がかさむため、もっとも割高となるが、2号機移行は、通常、それほど大きくコストが低下することはない。現実に照らした検証をすれば、明らかに「虚構」といっても差しつかえのない数字であろう。
    註7:石橋克彦「原発震災―破滅を避けるために」科学1997年10月号、岩波書店など。石橋氏によれば、現行の「原子力発電所耐震設計審査指針」で定めている直下地震の想定はマグニチュード6.5としているが、活断層のないところに原発を立地した場合でも、直下でマグニチュード7.1や6.8の地震が起こす可能性があることを文部省(地震調査研究推進本部、1996年6月)や科学技術庁(1997年3月)にはっきりと認めていることであり、原発の指針もそれを考慮すべきであるとしている。
    註8:原発や核燃料サイクル施設の候補地点における工作は、数多く報告されている。珠洲原発候補地点(石川県)をめぐる土地疑惑、選挙不正等を報告した「原発がやってくる町」(落合誓子編著、すずさわ書店、1992年)、巻原発候補地点(新潟県)については「原発を拒んだ町」(新潟日報報道部、岩波書店、1997年)など多数、串間原発候補地点(宮崎県)については「原発から風が吹く」(橋爪健郎編著、南方新社、1998年)、六ヶ所原燃サイクル施設については「六ヶ所村の記録」(鎌田慧著、岩波書店、1991年)などを参照のこと。
    註9:原発用原子力設備に関する構造等の技術基準(昭和55年10月30日通商産業省施行規則501号)
    註10:飯田哲也「対話へ、原発モラトリアムを!」エネルギーレビュー1998年11月号