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国立遺伝学研究所



遺伝に与える放射線の影響に関する研究

〔まえがき〕

 放射線がヒトに対してどのような影響を与えるかを知ることは、放射線を安全に取扱うために必要である。本研究所は、遺伝学を専攻しており、遺伝に対する放射線の影響について、種々な実験生物を用いて研究をすすめている。本稿では、ここ2・3年に行われた研究成果の概要を述べる。

〔研究の特徴〕

 本研究の窮極の目的は、ヒトの遺伝に与える放射線の影響を知ることにあるが、その進め方として、2・3の実験生物を材料として得られた結果から推測を行う。まず、哺乳動物としてネズミを用いる。遺伝的影響として突然変異を観察するに当って、その頻度は一般にきわめて低いので、その実験のためには多数の個体を用いる必要性が生じる。その感度を高めるため後述するような工夫がなされているが、限界がある。とくに、低線量照射の場合や照射の諸条件の変動の影響を知るためには、ネズミのみの実験で目的を達することはできない。そこで、次の攻め方を行っている。

 第1に、カイコの利用である。これは後述するように高等生物として比較的容易に多数の個体を取扱うことができる上、ネズミで行っている特定座位の遺伝子突然変異に相当する実験系が案出され利用されるに至っている。

 第2にDNAそのものを用いた研究である。突然変異は窮極的に染色体を構成しているDNA分子の傷害として起る。しかしながら、その傷害の内容は放射線の種類や、そのDNAを取囲む様々な要素によっても変動する。また、一たん生じた損傷は、細胞の有する諸酵素活性によって修復される。このようなDNAの傷害とその修復に関する知識は、遺伝的影響の評価における基礎資料となる。

 なお、以下の概念は本研究の理解のために重要であるのでここに記す。

トリチウム:トリチウムの影響研究が、従来行われたX線やガンマー線による外部照射の影響の研究と異なる点は、まずトリチウム水として生体に侵入して、細胞内部を照射することにある。そのβ線のエネルギーは、X線やガンマー線よりはるかに低いが、DNAに損傷を与えるラジカルの生成には充分である。

RBE(Relative Biological Effectiveness):同一の吸収エネルギーによる効果の比較値である。たとえば、X線(あるいはガンマー線)の一定吸収線量(ラッド値)で生じた生物効果(たとえば突然変異の誘発頻度)を、他種の放射線で同じ吸収線量で照射して見出された効果が二倍であれば、そのRBEは2である。

線量率:一定の線量を強く短時間で照射した場合と、同じ線量を弱く長時間にわたって照射した場合とでは、生物効果が異なる場合がある。後者(低線量率照射)の場合、生じた傷害が修復される機会が増大するために、効果が減少する場合が多い。

〔DNAに関する実験〕

 枯草菌の形質転換DNAを種々な濃度のトリチウム水を含む緩衝液に溶解した状態で4℃で放置することにより、種々な線量率におけるβ線照射による遺伝子失活現象の組換について種々検討を行った。線量率が低い程、吸収線量当りの失活効果が高くなるが(図1)、この際照射に要する時間も長くなる。これはおそらくトリチウムβ線で生じた特殊なラジカルの作用が含まれているのではないかと考え、機構を検討中である。

図1 枯草菌形質転換DNAのArg活性を37%までに失活させるβ線の線量(ラッド値)とトリチウム水の濃度との関係

 一方、急照射条件におけるDNA鎖切断の解析を行った同一のDNA単鎖切断を与えるトリチウムおよびγ線に関して、脱プリン障害に特異的なエンドヌクレアーゼに感受性な塩基損傷の数は、前者を1とした場合、後者は3.2であり、このような損傷が著しいRBEの変化をもたらすことは考えにくい。

 X線あるいはγ線照射に比し、トリチウム水の処理(内部照射)による遺伝的影響の解析において、種々な実験生物系で高いRBEが見出されている。その原因として、傷害の質的内容はほとんど同じであるが、その量が同一の吸収線量に関して大きいか、あるいは、傷害の質が異なるため、細胞による修復が困難であるためと考えられる。この点を明らかにするために、ヒトの細胞におけるイオン化放射線によるDNA修復酵素の研究をすすめた。これまでに、イオン化放射線に感受性な遺伝病であるataxia telangiectasia(AT)の患者に由来した初代培養細胞の抽出液の中には、プライマー活性化酵素(PA酵素)と名づけた酵素が欠損していることを見出している。その作用の解析を通じてInvitroで照射したプラズミドDNAの形質導入の回復において、PA酵素の関与がγ線とβ線とで異なっているとの仮説をもつに至った。

〔カイコにおける実験〕
 トリチウムβ線の生物学的影響は、低線量でかつ低線量率という条件下で生起するものと考えられる。かかる条件下でβ線の生物学的影響を手軽に解析できる実験系の確立が望まれてきた。カイコの休眠胚子(卵)期の生殖細胞を用いた実験系は、この要望を満足させうるモデル系と考えられる。(図2)

図2 カイコの卵の色に関する突然変異誘発実験法

 しかし従来行ってきた野生型雌蛹にトリチウム水を注射する方法では、野性型遺伝子の受けるβ線の線量計算にあいまいさを免れない。そこで田島らは野生型遺伝子を精子側から持ちこませ、受精を出発点として集積線量が正確に求められるように工夫して実験を行った。さらにβ線の線量計算に一層の正確を期するため、毎日卵重の減耗量を測定し、それによって補正した。一方、このβ線の減衰曲線をモデル化して、これにsimulateさせるようにγ線照射実験を平行させた。γ線の照射期間は15日間で打切った。トリチウム水処理区は濃度別に2区設定し母蛹の後期に一匹あたりそれぞれ250μCiおよび125μCi注射した。これらの産下卵についてβ線活性を測定し、以後の集積線量を計算した結果は321.5radおよび156.0radとなった。一方γ線照射区の線量は357.5rad 214.2radであった。これに無照射の食塩水注射区1区を設定し対照区とした。これら各区を同時に飼育した。羽化後pereに交配して得られる卵(peと+とが1:1に分離する)中に出現するre表型を突然変異体とし、re/re++reをもって突然変異率とした。

 照射線量を異にするβ線(またはγ線)照射区2区に対照区を加えた3区の変異率を図上にプロットして、これらの3点を通る回帰直線を求めて、2本の回帰線の傾斜の比からRBEを計算した。このようにして求めたRBE=1.98となった。この値と従来数次にわたり報告した値を表1にまとめた。この表から解るようにカイコの生殖細胞系について、特定座位法によって求めたトリチウム水のRBEはほぼ1〜2の間に落着くことが解る。この実験は高等生物の生殖細胞系の突然変異についてRBEを求めた唯一の例といえる。

表1 カイコにおけるトリチウム水による突然変異誘発に関するRBE値

〔ネズミにおける実験〕

 KYF/2雄マウスに、γ線(137Cs)60R/minの線量率で100R+500Rを24時間間隔で分割照射し、不妊期間を経た後に同じ系統の雄と交配して、精原細胞期に放射線照射されている精子の受精によって、生まれてきた次世代(F1)雄を対象にして、骨の異常をしらべ突然変異を検出した(図3)。頭骨と頸骨の一部分はパパイン処理法により、他の部位はアリザリンレッド染色法によって標本をつくり骨の異常を調査した。突然変異を検定するため骨格標本をつくる前に、すべての成熟F1雄を少なくとも2頭のKYF/2雌と交配し、それぞれの後代にあたる仔を残している。F1雄になんらかの骨の異常が認められた場合には、さらにその仔を調査して異常形質の遺伝性を確認した。

 これまでの研究によって、マウスの精原細胞へのγ線100R+500R照射で検出した優性突然変異の頻度は配偶子あたり14%で、他の指標を用いた場合の頻度と比較して極めて高率であった。突然変異として確認された異常形質は、主として頭骨にみられるが、他の部位の微細変異を複数に伴っているものが多い。頭骨の異常としては前頭骨に生じた異常孔:前頭骨縫合の異常:前頭骨と前頭間骨の癒合および前蝶形骨眼窩翼状部の異常:頭蓋骨卵円孔の異常:オトガイ孔の欠如:下顎骨異常などである。これらの異常形質を示す突然変異の一般的な特性としては浸透度が完全であるものは極めて少なく、不完全で低いものが多いことである。

 骨の異常として現われる優性突然変異の検出法を用いた理由は、骨の分化と骨格形成の諸段階で、おそらく多数の遺伝子が関与していると考えられ、従って突然変異の対象となる標的座位が多く、それだけ検出効率が認められるものと予測したからである。またKYF/2マウスを用いて検出した突然変異は、そのほとんどが頭骨に異常を示しており、後代検定の結果と照合してみると、それらは突然変異検定にとって感度のよい指標であることが解った。この知見に基づいて放射線誘発突然変異に関するRBE値の測定は、頭骨に現われた異常のみを対象にして進行したいと考えている。

図3A ネズミにおいてガンマー線で誘発された前頭骨の遺伝的異常

図3B 上顎の門歯および下顎骨の異常(左列)。(右列に正常なもの。)

結語

 以上、DNAレベル、カイコ、ネズミを用いた諸実験により、ガンマー線照射との対比において遺伝に与えるトリチウムの影響が定量的に示されつつある。今後、RBEの変動の要因の解析を進める予定である。



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