プラズマ物理研究の視察旅行

原子力委員会参与 伏見康治

 文部省のB項海外留学のお金で、3ヵ月、9、10、11月とヨーロッパから、アメリカを見てきました。9月4日からの1週間、オーストリアのザルツブルグで、IAEA主催の「プラズマ物理と核融合反応」という国際会議があり、また11月15日−18日コロラド州コロラドスプリングスで、アメリカ物理学会のプラズマ分科会がありましたが、この二つの会議を傍聴するというのを二つの拠点として、その間を各国のプラズマ研究を見てまわるというのが、この旅行の大体の骨子でした。

 西ヨーロッパでの印象を申しますと、どの国に行っても、プラズマ研究所を新たに造ったが、今作りつつあるということです。日本ではご承知のように、原子力委員会の核融合特別委員会で論議を尽した末、大学付置のプラズマ研究所を作るのがよいという結論に達したわけですが、その間別にヨーロッパ諸国がどうしているからといったような考え方ではなく、もっぱら内容に即した考え方でそれが最善の道であると結論したのでした。だからむしろ日本独自の考え方でプラズマ研究所が生れたものだと自負していたのですが、ヨーロッパに行ってみると、大体似たようなものが、1年か半年の差でできており、結果においてまねをしたことになっているので、いささか驚いたというわけです。−裏返していえば、つきつめて考えれば、洋の東西で結論は一つになるということで、日本の私たちの考え方の客観性が証明されたともいえるわけです。

 私はジュネーブのCERNに行ったとき、所長のワイスコップや、副所長格のコワレウスキーに、なぜCERNがプラズマ研究を中止したのかと、しつこく尋ねました。58年の国連のいわゆる原子力国際会議で、核融合研究情報が一時に放出された際、CERNも相当の刺激を受けたわけですが、その直後イギリスのアダムスを中心にプラズマ研究検討の委員会が開かれて、ヨーロッパ中の関係者が衆知を集めて議論したことが宮本教授の報告で知らされていたからです。ワイスコップがいったのは、「CERNは高エネルギー物理に集中すべきで、その他の方面まで手を出す余裕がない。」というまともすぎる返事でしたが、逆にひどい裏話で、「当時、CERNでプラズマを担当していたリンハートという学者が(今はイタリアのFrascatiの研究所に移っていますが)、少しはったりで、そのまわりに人を集めるのがむずかしかったからだ。」という噂もきかされました。しかし、いろいろの話を総合すると、CERNはもともと、何ビリオンという大きな加速器はとてもヨーロッパの一国ではまかなえないから、連合してアメリカやソ連並のものを作ろうというので、始まった組織であった。ところで、核融合をめざすプラズマ発生装置が、この大加速器の段階に果たしてきているかどうか、これが問題になった。イギリスのZETAやアメリカのSTELLARATERCが大加速器に相当するものであるなら、たとえ研究対象が高エネルギー物理でなくても、CERNが取り上げて、おかしくなかったであろう。ところが、多くの人の検討の結果は、ヨーロッパ全体が集まってZETAの次にくるものを建設するというような段階ではなくて、話はもっと初歩的なところをうろついていることが明らかになった。それで、プラズマ物理学の基礎的研究の段階となると別にヨーロッパの1ヵ所に集まらなければならないという程の規模でもないから、各国別々にプラズマ研究を進めよう−これがどうも本当のところらしく思われます。

 そんなことで、イタリアではローマ郊外のフラスカチに「イオン化気体研究所」ができ、南ドイツではミュンへンのマクス・プランク研究所の内部と、その郊外のガルヒングにプラズマ研究所があり(例の瓜型の原子炉室の隣にある)、北ドイツでは、アーへンとデュッセルドルフの中間のユーリッヒの原子力施設の一部にプラズマ研究所ができ、フランスでは、サクレーの一部のほかに、フォントネ・オ・ローズ(昔のシャチョン)にプラズマ研究所が作られつつあり、オランダではユトレヒトの郊外のユトファーズにプラズマ研究所ができたばかりであり、・・・という次第になったらしいのです。

 これらの研究所を訪ねて知ったことは、どこでもユーラトムがあっせんした研究者の一団がいることです。ユーラトムはもともと原子力発電を目標としてのヨーロッパ連合であったのだと思いますが、期待に反して原子力の実用化が足踏みをしているので、もっぱら基礎研究に目標をおき、核融合の分野での国際交流を、この形で推進しているのだと見受けられました。