もっと多くの討論の場が必要では無かろうか

原子力委員会参与       嵯峨根 遼吉

 原子力委員会や原子力局が出来てから大略6年になる。今から考えると「本当にそういえばそうだったな。」と思わず苦笑するようなことを真剣になって御互に議論しあっていたことを思いだす。

 たとえば「原子炉を運転し始める時期には再処理設備が完成していないと原子炉の運転は続けられない。」とか「国産一号炉が完成すると、すぐその次には国産動力実用炉の技術は完成していると見る。」といった類である。理屈の上では一応筋が通っているが実際的な判断からは受入れられなかった次第である。今日やかましい「プルトニウムは燃料サイクルの一環として実用炉で再使用される。」といった問題は一歩を進めて実際にどんな型の燃料でどんな型の炉に使用したとき何時の時期に経済性が充分得られるのかといった問題にすると必ずしも実証された形の解決は与えられていない。小生などはカーバイド系のプルトニウム燃料が本格的に高速増殖炉に使われる前に酸化プルトニウム燃料として重水炉に使われるだろうと予想している。これなどは数年後には前述の笑話と同類になる可能性が充分残っている。

 とかく物事は解ってしまえば、何故あんなに迷ったんだろうと思えるのが普通である。しかし大切なことはこのような討論から一歩一歩解答が与えられて立派な開発計画が遂行されてゆくことだ。解決されるまでは笑話に終るのか、大切な指導原理になるのか判らないのである。真面目に議論することこそ大切だと思う。

 所で昨年の春から夏にかけて世界中での原子力スローダウンのムードに答えて多方面でやかましく議論して日本の原子力開発利用長期計画の改訂版が出来上った。幸なことにはこれらやかましい議論の中には今では笑話に近い議論も時折繰返えされたこともあったが、熱心な討論の甲斐あって反論として生残らず笑話の中に属する様になった。

 所が最近の核兵器実験再開といった思いもかけない事態が起ってきた。これが二つの面で原子力発電開発に影響している。その第一は世界の冷戦が何時冷戦の域を脱するか判らぬという不安感である。外国から輸入される石油に量的にも価格の面でも全面的に頼ろうとしていた楽観論者に不安感を与えている。国産の高価な石炭依存ではとても賄え切れないのは判り切っている。しかるに残る頼りの石油の供給と価格に不安観が加わるとすれば、不測の事態に対する耐久力の大きな「原子力よ早く実用の実績を挙げよ。」といった要求になって出直して来かねない。一頃のスローダウンが反転しかねない勢にもなっている。

 第二はソヴィェトも米国と同様に「きれいな水爆」を開発している方針は明らかになってきた。従来水爆一個の起爆には大略5kg以上のU235が必要であるとされていたものが、どうやら1/10以下のU235で起爆される模様に推測される。しかも水爆一個の大きさがどんどん大きくなる傾向である。少くとも軍需用U235のストックは急に十倍あるいはそれ以上に役立つ方向に向っている。当然これは軍需用ウランの要求量の激減となることが予想される。このようにしてウラン価格は相当の長期に渉り現在価格を下回るといえよう。しかし一方核兵器を持てる国々が今後どう動くかではウラン供給と価格に重大な影響を与えることなしとは断言出来ないのである。

 原子力発電開発計画の根本条件と思える燃料サイクルの回答や、ウラン需給予想あるいは一体原子力発電実用化をどう急ぐのか等がいずれも未知数であって、うっかり割切ると何年かたつと笑話になりかねない性質を持っている。確かに原子力開発は未知数が多すぎてやりにくい。さりとて一基実用炉を作るにも数百億円もかかるものを急げといわれて急げることでもなく、延ばせと注文をつけられても易々と延ばせるものでもなさそうである。計画遂行の速度は余り変りそうにも思えないが、これを判断する考え方の中に未知数を未知数として取扱わなかったり、既知のことを未知として取扱ったりといった混乱が起っているように思えてならない。

 燃料関係に限らず、昨今の日本では環境の問題、立地の問題、安全性の問題、放射線傷害の問題あるいは金融や経済計算等々が銘々なりに見識見解をもっていてお互に討論をする機会にかけ不承不承に銘々の分担を受持っているといった感じがしてならない。

 如何なものだろう。政府なり産業会議が音頭をとってそれぞれの関係者間に基本的問題点の討論をする場をもっと頻繁に作ってみては。お互が基本的問題に対し違った識見を持ちながら一所に仕事をして行くのでは極めて非能率な話で、出来るだけ笑話に価する議論は早目に笑話の類とお互に認定して行く方がお互に能率的に仕事が運べる所以であるといえようか。