随    感


原子力委員会参与   茅   誠司

 いよいよコールダーホール改良型を導入して30万キロに近い原子力発電を実行しようという気運になった今、考えてみると随分種々な問題が前方に横たわっている。その一つは原子力発電にともなう放射性物質による環境汚染である。わが国は原水爆実験反対という点では全国民が一致している。何の理由で反対するかといえば、この実験によっていわゆる「死の灰」が成層圏までも吹き上り、それが数年もかかって降下して全世界をくまなく汚染する。その結果カルシウムの中に混入したストロンチウム90とか、またはセシウム137とかが人間の身体の中に入り込んできて、前者は骨髄を侵して白血球の減少を起させ、後者は生殖機能に影響を与えて突然変異を起させる心配があるというのである。

 ところが一方では核分裂を利用して熱を発生させ、これでボイラーを暖めてタービンを回し電気を起そうというのが、動力炉である。これも核分裂によってストロンチウム90とかセシウム137がどんどんと炉の中で作られるわけであるから取扱いのいかんによってはその環境を汚染し、人蓄に障害を与える可能性を持っているわけである。したがって京都大学が宇治にスイミングプール型の実験用原子炉をすえようとしたとき、宇治川から水道の水を仰いでいる大阪と神戸の市民が1人残らずといってよい位に設置に反対をした訳である。これは心あるものをして将来動力炉によってエネルギーが供給される場合に起るであろう反対を思って慄然たらしめたようである。

 広島、長崎の原爆、ビキニの死の灰と3回も放射能障害を受けた日本人にとっては、原子力の動力源とか放射性同位元素の有難妹よりも、それに付随する恐ろしさのほうが先に立つのは無理もないことである。しかしその「恐ろしい」と思うことが、感情的でなくどこまでも科学的であってほしいと思う。かつてビキニの灰で世間が騒いだ頃、ある学者は放射性の塵が天空をおおうために太陽熱が遮断され、地球全体にわたって冷害が起る心配があるという説を発表したことがある。あの当時のことを思うと、少なくとも学者はもっと冷静に放射能灰の害悪の程度について世間に発表して、極度とも思われる不必要の恐怖をなくする責任があったのではなかろうか。

 誰にでもいえることは放射性の塵をまき散らすことは害はあって益はないことである。したがってまき散らさないことを誰しも望むであろう。しかしこれは結局原子力によって得られる利益とこの放射性塵による害とのバランスの問題である。煙草をのむことは肺癌の原因となるからこれをたしなむことは好ましくないといって全然煙草を止めてしまったら、意気沮喪して働く元気をなくしてしまうものが多数できる。それよりはある程度の煙草を楽しんで元気に働くことの方が結局としては取るべき策であることは誰でも知っている。また電気を家の中に入れて電灯をつけたり洗濯機を動かしたりすることは結構だが、漏電して火災を起したり湿った手で握って感電したりするのは危険であるといって電気を引くのを断るのは、愚の骨頂である。要は損得のバランスによって決定されてくる。

 宇宙線は絶えずわれわれに降り注いで、これの影響をのがれるには清水のトンネルの中にでも行かなければならない。海抜の低いところは宇宙線ほ弱く、高いところはそれよりも強い。しかし土地の高低で人間の遺伝的な点に相違が起っているか否かは現在に至るまで確かめられていないほどわずかである。この宇宙線強度の土地による相違よりも少ない位の放射能の影響は何ら恐るる必要はない。すなわち天然の放射能のバックグラウンドの土地や時間による変動よりも小さい放射能灰の影響を恐ろしいと思うことは、犬にかみつかれそうになっていて蚤を恐れるようなものである。

 こんな下らぬことを書いてみても、これを読まれる高級な方々には何ら役には立つまいと思うが、筆者の強調するところは、一般社会に対して正確な数量的な説明によって啓蒙運動な今からする必要があることである。しかしこれも考えてみると、学術会議などがこのような啓蒙運動に乗り出すことが最も望ましいようであるから、ここに書いたことは愚者のひとり言にしかなるまい。

(東京大学教授、日本学術会議会長)