原子力研究所の敷地選定について 昨年11月に発足した財団法人原子力研究所では、原子力研究所の建設をする敷地即ち原子炉の設置場所について土地の選定をするために、土地選定委員会を設けて昨年暮から6回に亘って会合を重ねて本年2月8日に結論を得た。この土地選定委員会の委員は次の諸氏であった。 委員長 駒形 作次(原子力研究所副理事長) 委 員 久布白兼致(原子力研究所常任理事) 理 事 和達 清夫(中央気象台長) 会合を行った日時は、第1回は昭和30年12月27日、第2回は31年1月6日、第3回は1月13日、第4回は1月21日、第5回は2月4日、第6回は2月8日であった。候補地としては22地区があったが、これらについて土地選定のための要件として次の事項を考慮して選定を行った。すなわち これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、化学処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。 その結果、書類上、実地調査上候補地としてあげられたのは神奈川県横須賀の武山地区、茨城県那珂郡東海村の水戸地区、群馬県群馬居郡岩鼻村の岩鼻地区及び群馬県高崎市の高崎地区の4地区に絞られ次のような結論をだした。 ただし、武山については米軍が使用中でこれが返還の見込みのない場合は不可であり、一部分使用可能の場合でも少なくとも半分ていど使用可能な事が必要である。 岩鼻については、火薬工場が隣接していることが問題であるから将来この火薬工場の大きな発展は中止せしむることを条件とする。 高崎については旧射撃場に建物の中心をおくことを想定しているので、その地帯(民有地)の入手が可能であることを要し、かつ附近の民家約20戸及び亜炭鉱山の立退きが必要である。 水戸は東京からの距離がやや遠いが、大規模の動力炉及び化学処理工場としては好適であるので、今日より確保しておくことが望ましい。 原子力研究所は以上の緒論を原子力委員会に報告したので、原子力委員会は2月15日臨時委員会を開催して原子炉敷地につき討議した結果、土地選定委員会の意見を尊重して、武山を実験用原子炉敷地の第1候補地と決定し、動力試験用炉は水戸に置くことも同時に決定した。しかし、武山地区は米軍が接収中であるので、その解除が行われなければ実際には敷地にはできないので、調達庁を通じて米軍の意向を打診した。3月5日には米極東軍司令部から「米軍としても極めて重要な基地であるが日本政府から強い要求があるならば2分の1までの返還を考慮することが可能である。ただし、そのかわりとして代替施設を提供することが必要である。」との非公式の口頭による回答があった。代替施設が土地を含むものか建物その他の施設だけであるかを確めるために9日に調速庁と原子力局からハーバート少将を訪問して質問したところ、 日本原子力研究所の敷地については、かねて横須賀市武山を候補地として選んできた。しかるに政府としては種々の事情により、候補地選定について本委員会の再考を促された。原子力研究の開始は至急を要し、したがって敷地の決定は遷延を許さないので本委員会は慎重に審議して改めて、茨城県東海村を候補地として選ぶことにした。 元来原子力研究所は1ヵ所にまとめて設置するのが理想的である。2ヵ所以上に分かれることは研究者の分散、施設の重復、総合研究の困難等の種々の不便がある。しかしながら−方において研究者の便宜ということも忘れてはならない点である。研究開始の初期の段階では、日本原子力研究所員以外の学者の協力を要することも多いので、この点は特に注意を要する。この研究者の便宜の点や、また既存施設の利用可能等の事情に重きをおき、まず実験炉の段階は武山で行うことが適当であると決定したわけである。 きよう(6日)改めて東海村を選んだが、ここは地域が広く、実験炉から動力試験炉の段階までを1ヵ所で研究し得る利点がある。半面この地は交通が不便で、研究者の立場からは多少の欠点が認められ、また施設の完備にやや日時を要するであろう。これらの欠点を克服するために、できるだけの設備を至急施して研究の促進をはかるよう努力したいと考える。 なおこのたびの件については、政府が原子力委員会の決定を十分換討の上、改めて本委員会の再考を促されたので、本委員会もこれを了とした次第である。政府は今後も委員会の決定を尊重されることを希望する。 |