第1章 原子力に期待される役割とその展開
2.エネルギー利用と地球規模の環境影響

(2)原子力発電と環境への影響

 原子力発電は,その発電過程において化石エネルギーの燃焼とは異なり酸化物や二酸化炭素の発生がないため,その点において石油等の火力発電の有する環境上の問題を免れており,また,再生可能エネルギーと比較して量的,質的に安定した電力供給を行うことが可能であるため,代替エネルギーとして主要な役割を果たすことが期待されている。
 しかしながら,原子力は,そもそも放射性物質を取り扱うことから,環境や人体に対する潜在的な危険を内包していることは否定できない。
 このため,原子力の開発利用においては,いかなる局面においても,放射性物質の生活環境への放出,拡散を十分に抑制,管理し,健康への影響のないよう,万全の安全対策を講じることが大前提となる。
 実際,原子力発電の開発は,当初から放射性物質の管理を中心とした安全性の確立を第一として進められてきた。1951年に世界で初めて米国で原子力発電が行われて以来,原子力発電所は,優れた安全性を保ってきた。特に,後述するソ連のチェルノブイル原子力発電所事故が起こるまでは,商業用原子力発電所からの放射性物質に起因して,従業員を含め死者が出たことはなかった。我が国においても,1963年に日本原子力研究所の動力試験炉(JPDR)で原子力発電が開始されて以来,現在に至るまで25年間,放射性物質に起因して死者を出すような事故はもちろんのこと,一般の人々に影響を与えるような事故も全くなかった。
 このように,原子力発電は優れた実績を積み重ねてきたが,ソ連のチェルノブイル原子力発電所事故をきっかけとして,世界各国において原子力発電の安全性及び環境への影響が改めて議論されることとなった。
 したがって,原子力発電所の環境への影響を考える場合,このチェルノブイル原子力発電所事故の影響を正しく評価する必要がある。ここではチェルノブイル原子力発電所事故による放射能汚染の状況とその影響について以下に述べる。

① チェルノブイル原子力発電所事故と放射性物質の放出
 1986年4月26日に,ソ連のチェルノブイル原子力発電所で起こった事故は,原子力の利用がいかに平和目的とはいえ,ひとたび事故が発生し,放射性物質が大量に環境中に放出されると,自国内のみならず,国境を越えて広範囲に被害を及ぼす可能性があることを全世界の人々に強く認識させた。この事故による死傷者は死者31人,負傷者203人であったと公表されている。
 この事故の環境への影響について,1988年1月に公表された経済協力開発機構原子力機関(OECD/NEA)の「OECD諸国におけるチェルノブイル事故の放射線影響」報告書によると,放出された放射性核種の中で,生体内にとりこまれ易いために問題となるセシウム134とセシウム137の各国への降下量は以下のとおりであり,オーストリア及び北欧諸国で核実験*の場合の3~4倍,その他の国では核実験以下であったといえる。


注) *  今からおよそ30年前の1950年代後半から1960年代前半にかけて,盛んに行われた大気圏核実験による放射能の累積降下量。その影響は,現在では当時の1/10以下に減少している。

 このように,過去多くの議論を呼び,世界的に中止が合意されるに至った大気圏核実験に匹敵するような放射能汚染が,原子力平和利用でも起きたという事実を厳粛に受け止めるとともに,二度とこのような事故を起こさないようにしなければならない。**


注) ** 我が国においては,原子力安全委員会が事故炉の特徴,事故の原因等を調査するとともに,我が国の原子力安全確保に反映させるべき事項の有無等につき検討を行った結果,その結論は以下のとおりであった。
(i) ソ連の原子炉の設計における多重防護の適用が日本とは異なっていること等により,日本の軽水炉等ではこのような事故は起きない。
(ii) 現行の安全規制やその慣行を早急に改める必要はない。
(iii) 現行の防災対策についても基本的に変更する必要は見出されないが,これまでの防災対策の内容を更に充実し,より実効性のあるものとする。
この結論は,我が国同様に軽水炉を採用している他の国でも同様であった。
また同委員会は,より一層の安全性の向上の観点から,従来から認識し,実行しているものの,改めて心に銘ずべき事項として,以下の7項目を指摘している。


(i) 原子力発電所の個々の設計の改良に応じた適切な安全評価及びそのための研究の確実な実施
(ii) 原子炉の異常事態に関する知識の把握・整備及び運転管理面への反映
(iii) 原子力発電所の従事者一人一人の高い安全意識の醸成
(iv) 人的因子およびマン・マシン・インターフェース(各種入出力装置等人間と機械とを結びつける接点)に関する研究の拡充
(v) シビアアクシデントに関する研究の一層の推進
(vi) 原子力防災体制及び諸対策の充実並びに緊急時対策に関する国際協力の充実
(vii) 安全性に関する情報交換,研究等に関する国際協力の推進

② チェルノブイル原子力発電所事故の放射能による影響
 事故による影響で最も心配されたのは,広範囲に降下した放射性物質により食物が汚染され,それを摂取することによる公衆の健康への影響である*。各国政府は,環境放射能の監視体制を強化するとともに,食物等の摂取による公衆の被ばくを最小限に留めるため,雨水の飲用制限に関する勧告,食品の輸入規制,乳牛の屋外放牧禁止,食物の流通制限等,各国の状況に応じた各種の放射線防護措置を実施した。


注) * 今回の事故に伴い,放出された核種のうち,発電所から離れた場所で問題となるのは,ヨウ素131,セシウム134及びセシウム137の3つである。
このうち,ヨウ素131は半減期が8日と短いため,3ヶ月過ぎれば放射能が1,000分の1以下に低減する。したがって,放出直後の対策は重要であったが,2年以上過ぎた現時点ではその防護対策を考慮する必要は全くない。
現時点で重要なのはセシウム134(半減期2年)とセシウム137(半減期30年)である。
セシウムはカリウムに近い元素で,食物を経て人体内に入ると広く全身に分布するが,排出も早く,数10日から100日くらいで体内量の半分が排出される。

 事故発生地点からかなり離れていた我が国においても,事故発生から数日後に,事故に起因すると思われる放射性物質がわずかながら測定されたものの,直接的な影響はなかったと考えられる。むしろ問題となったのは,放射性物質で汚染されたヨーロッパの食品の我が国への輸入である。
 我が国は,現在,ヨーロッパ等から輸入される食品の検査を行っており,ヨーロッパにおける乳幼児食品や米国における一般食品に対する基準と同じ1キログラム当たり370ベクレル(セシウム134及び137を対象核種として)という値を用いて,これを超える食品については輸出元へ送り返す措置を取っている。ヨーロッパからの輸入食品の日本の全食品中に占める割合は約2%であり,例えその輸入食品がすべて基準値ぎりぎりの放射性物質を含んでいたとして,この割合で食べた場合でも年間の被ばく量は約40マイクロシーベルト*と推定され,日本において自然界から年間に受ける平均の被ばく量約1,000マイクロシーベルト**に比べると問題にならない程微量である。


(参 考) 放射線の人体への影響を表す単位
 放射線によって人体が受ける影響の度合を表す単位として,従来は「レム」を使用していたが,1989年4月から国際単位系の「シーベルト」を使用することとしている。
    国際単位系     従来単位
   1マイクロシーベルト=0.1ミリレム
 1000マイクロシーベルト=100ミリレム
** 現在,日本人は,大地から500マイクロシーベルト,宇宙から300マイクロシーベルト,食物から200マイクロシーベルト,合計で一人当たり年間平均約1,000マイクロシーベルトの自然放射線を受けている。また,自然放射線の量は,日本国内でも,最低750マイクロシーベルト(神奈川県の平均)から最高1,130マイクロシーベルト(岐阜県の平均)まで,地域により異なっている。

 先に述べたOECD/NEAの「OECD諸国におけるチェルノブイル事故の放射線影響」報告書では,地上に降下した放射性物質や汚染された食品の摂取など,主な被ばくの経路について検討し,チェルノブイル原子力発電所事故の結果,事故後1年間に各国の公衆が受けた平均的な被ばく量を求めており,それによると,平均被ばく量が最大のオーストリアにおいても660マイクロシーベルトであり,自然界から1年間に受ける被ばく量に比べて小さいという結論が得られている。したがって,OECD諸国における公衆一人一人に対する生涯平均の放射線リスクはこの事故によって大きくは変化しないものとしており,また,集団に対するリスクについても,自然発生する健康障害に対し検出可能であるほど有意な追加をもたらさないしベルとしている。

 一方,昭和63年6月に開催された「放射線影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)」では,ソ連を含めた東欧諸国の公衆の平均被ばく線量を評価している。それによると,最も線量の高いソ連白ロシア地方では2,000マイクロシーベルト,ウクライナ西部で930マイクロシーベルト,モスクワ周辺で460マイクロシーベルトとなっており,ソ連の一部の地域で自然放射線による被ばく線量(2,400マイクロシーベルト)と同程度で,それ以外は,自然放射線以下であったとしている。
 上述のとおり,チェルノブイル原子力発電所事故によりもたらされた放射性物質の環境への放出は前例のないものであり,二度とこのような事故を発生させてはならないと考える。しかし,その影響に関していえば,ソ連,とりわけチェルノブイル原子力発電所近傍の人々への影響については,今後の詳細な調査や科学的評価を待つ必要があるものの,OECD諸国及び東欧諸国において,チェルノブイル原子力発電所事故による人体等への影響が有意な形で現われるとは専門家は見ていない。
 したがって,二酸化炭素の発生等による環境問題を免れているという特長を勘案した上で,原子力発電所が常に放射性物質による危険を内包しているという事実を十分認識し,安全確保に万全を期しつつ,これをエネルギー利用の中において正しく位置付けていくことが重要であると考えられる。


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