第I部 「総論」
第1章新しい時代を迎える原子力開発利用

1.原子力開発利用の歩み

 我が国の原子力研究は,第2次世界大戦により約10年間空白があたが,昭和26年の日米講和条約締結の頃から,学界のなかにおいて原子力研究を再開したいとの動きが現れた。しかしながら,一方においては,原子力研究は核兵器の製造につながる危険性があるとしてこれに反対する意見も強く,論議がたたかわされてきた。昭和28年の国連総会において,米国アイゼンハウアー大統領が原子力の平和利用を提唱した。その提唱は,国内における論議にも大きな影響を与え,我が国においても原子力の平和利用を積極的に推進し,これを経済社会の発展に活かすべきであるとする気運が高まった。こうした気運を背景として,昭和29年度予算において,2億5千万円の原子力予算が計上された。この予算化を契機として,我が国の原子力開発のあり方及びその体制整備についての検討が国会及び政府部内で本格化し,また,日本学術会議は,昭和29年4月原子力平和利用に関し,民主,自主,公開のいわゆる原子力研究の三原則を決議した。
 このような各方面における検討,議論を経て,我が国の原子力研究開発及び利用を平和目的に限り,民主的な運営の下に,自主的にこれを行うものとし,その成果を公開し,進んで国際協力に資することを基本方針とする原子力基本法が,また,これに対応する開発体制の要となる機関を設立するための原子力委員会設置法が,第23回臨時国会に提出された。両法案は,昭和30年12月19日超党派的な支持の下に成立し,昭和31年1月1日,原子力基本法が施行されるとともに原子力委員会が誕生した。
 本節においては,以上の経緯を経て開始された原子力開発利用の30年の歩みの中から,今後の課題を考えるに当たって基本的に重要と考えられる①平和利用の確保と核不拡散体制への協力 ② 原子力発電の展開 ③核燃料サイクルの整備 ④ 新型動力炉の開発 の4点に絞ってとりあげることとする。

(1)平和利用の確保と核不拡散体制への協力
① 我が国は,原子力開発利用を開始した当初から平和利用の理念に基づきこれを進め,さらに,進んで国際協力に資することを基本方針としてきた。
 この基本方針に基づき,我が国は,国際原子力機関(IAEA)の設立に積極的に協力するとともに,設立後も,IAEAの運営に協力し,保障措置の確立に寄与した。さらに我が国が締結した二国間協定上必要とされた保障措置をIAEAに移管する等,活動強化に貢献した。また,昭和45年に発行した核不拡散条約(NPT)についても,種々論議はあったが,原子力の軍事利用の廃絶を希求し,原子力の平和利用に関する国際的枠組みの整備に協力する等の立場から,昭和51年これを批准した。
 我が国の原子力開発利用は,こうした国際的な平和利用の枠組みに積極的に協力することを基本方針としてきており,また,国内の原子力利用はもとより,我が国が外国の原子力利用に関係する場合にも,「平和利用に徹する」という原子力基本法の精神を貫くべきであるとの方針の下に国際協力に臨んでいる。
② 昭和49年のインドの核実験を契機として,国際的に核兵器の拡散に対する危惧が高まり,米国等原子力機器及び核燃料の輸出国を中心に輸出規制の動きが強まった。平和利用についても,米国から使用済燃料の再処理,プルトニウム利用に関して問題提起がなされ,その是非をめぐって国際的に大きな問題となった。我が国は,米国,カナダ,オーストラリア等から,二国間協定に基づき核燃料物質を輸入している立場にあり,また,核燃料サイクルの自立化をめざし技術開発を進めていたところから,こうした国際的な動きは,我が国の原子力開発利用にとって極めて重要な影響を与えるものであった。これに対して原子力委員会は,原子力の平和利用と核不拡散は両立しうるとの基本的認識のもとに,効果的な核不拡散強化の方策の探究に積極的に貢献する一方,核不拡散のための措置が原子力の平和利用を妨げるものであってはならないという考えに基づき,我が国の原子力開発利用に対する国際的な理解を求めるとの立場に立って対応してきた。
③ 昭和52年から開始された国際核燃料サイクル評価(INFCE)は,原子力平和利用と核不拡散を両立させる方途を研究することを目的とするものであり,我が国は,上述の基本的立場に基づいてINFCEの検討に積極的に貢献した。2年4ヵ月にわたるINFCEでの検討の結果,保障措置を中心とする核不拡散手段により,核不拡散と原子力の平和利用は両立しうるものとの結論が得られた。
④ しかしながら,INFCEは調査・研究作業であり,その成果は別途多国間協議や二国間協議に活かされるべきものとされ,現に協議が進められているが,核不拡散と平和利用を両立させるための国際的な環境作りについて,未だ国際的コンセンサスは形成されていない。
 今後我が国は,核燃料サイクルの事業化及びプルトニウムの本格的利用に向けて,原子力開発利用が重要段階にさしかかるところであるが,これを円滑に進めるためには,原子力平和利用に徹するとの我が国の立場について,国際的な理解を得るため一層の努力が必要である。

(2)原子力発電の展開
① 原子力委員会は,その発足後直ちに,原子力の開発利用についての海外の状況の調査を行った。その結果,原子力発電は実用化の段階に入りつつあるとの認識の下に,我が国への発電用原子炉の導入に関する検討を進めた。
 その検討を踏まえ,発電用原子炉の早期導入とその受入れ主体となる新会社の設立(昭和32年11月 日本原子力発電(株)発足)の方針を定めた。また,第1号炉としては,発電炉としての実績,燃料の入手及び国産化の容易性等の観点から英国からコールダー・ホール改良型炉を導入することを適当とした(昭和41年運開)。一方,軽水炉についてもその将来性に鑑み,当面,軽水炉の基礎的技術を習得するとともに,併せて増殖炉,舶用炉の基礎的研究にも資することを目的として,米国技術を導入し,日本原子力研究所に小型の動力試験炉(JPDR)を建設することとした。JPDRは昭和38年10月26日に,我が国で初めて原子力による発電に成功した。JPDRの建設,検査,運転及び各種試験等は電力会社,メーカーなども参加して行われ,軽水炉技術の蓄積及び技術者・運転員等の人材養成に寄与した。
 一方,海外,特に米国における軽水炉の開発の進展により,2号炉以降の発電用原子炉は,経済性,将来性の観点から,軽水炉が有利との見方が強まった。このような背景のもとで原子力委員会は,昭和36年2月の長期計画において,発電第2号炉としては軽水炉が適当である旨明らかにした。
 これを受けて,昭和38年の,日本原子力発電(株)による敦賀発電所1号機(35万7千キロワット,BWR昭和45年運開)の建設計画決定に続いて,昭和41年には,関西電力(株),東京電力(株)において軽水炉採用が決定され,以降軽水炉路線が定着した。
 こうした軽水炉導入について,国は,実用化段階に近づいた技術については主として民間に期待し,基礎的研究及び安全確保については国の役割が大きいとの基本的考え方に基づき所要の調査研究を進めるとともに,軽水炉の国産化を促進するため財政・税制上の措置を講じてきた。

② 昭和40年代後半から次々と軽水炉による原子力発電所の建設・運転が行われていった(昭和49年度末,8基,約390万キロワット)。しかし一方で,社会的に環境問題一般に対する関心が高まっていたこともあり,原子力の分野でも,環境の保全,安全性の確保の問題が一層クローズアップされ立地難が顕著なものとなった。技術面においては,沸騰水型軽水炉(BWR)における応力腐食割れ問題,加圧水型軽水炉(PWR)における蒸気発生器の損傷等の問題が続出し,原子力発電所の稼働率もこの昭和40年代後半から昭和50年代初頭にかけては40%から50%程度に低迷した。さらに,昭和49年の原子力船「むつ」の放射線漏れが大きな社会問題となり,昭和50年代に入っても昭和54年の米国スリーマイルアイランド原子力発電所における事故,昭和56年の敦賀発電所での放射性物質の漏洩等のトラブルが発生した。
 この時期は,原子力発電にとっていわば試練の時期であった。
③ 一方で,昭和48年の石油危機を契機に石油代替エネルギーとして原子力発電の重要性が高まり,技術的諸問題を解決し,国民の理解と協力を得て社会への定着を図ることが大きな課題となった。こうした状況下で電気事業者及び原子力機器メーカーが技術改良,人員養成等所要の対策を講じたのは勿論のこと,国も行政面,技術面で様々な対応策を講じた。
 イ)昭和48年,国民との積極的な意思の疎通を図るとの観点から公開ヒアリング等を開催して地元関係者の生の声を聴取するなどの施策が講じられた。
 また,昭和49年には,いわゆる電源三法が成立し,以後,放射線監視体制の充実が図られるとともに,地域振興に貢献する施策が講じられることとなった。さらに,昭和52年には総合エネルギー対策推進閣僚会議において電源立地円滑化のための国の方針が了解される等,立地問題への取り組みが一層強化された。
 口)昭和49年の原子力船問題を直接の契機として設けられた原子力行政懇談会の報告を参考とし,原子力行政体制の改革・強化を図るため昭和53年に原子力基本法等の改正が行われた。この改正により,推進と規制の機能が分割され,複数の省庁にまたがる規制を一貫化し,責任体制の明確化が図られた。
 また,新たに,安全の確保に関する事項について企画し,審議し,及び決定する原子力安全委員会が設置され,行政庁の行う審査に対しダブルチェックを行うことにより,規制体制の整備充実が図られた。この改正は,安全確保に万全を期するとともに原子力安全行政に対する国民の信頼を確保することを目指したものである。
 ハ)我が国の軽水炉技術が当初,米国からの技術導入により始まったため,初期トラブルの発生やその対応に苦慮し,稼働率も低迷していた。このような状況に鑑み,自主技術による軽水炉の信頼性,稼働率の向上等を図り,我が国の国情により適した軽水炉を確立することを目的に改良標準化を進めることが重要であるとの認識が高まった。改良標準化計画は,第1次が昭和50年度から昭和52年度,第2次が昭和53年度から昭和55年度まで行われ,その成果は現在運転中又は建設中のプラントに反映されている。さらに第3次改良標準化計画が,昭和56年度から昭和60年度までの予定で進められている。一方,安全研究については,従来からの研究をより長期的かつ計画的に進めていくとの観点から,昭和51年度より年次計画が作成された。これに基づき日本原子力研究所を中心に計画的に安全研究が進められ,その成果は,基準・指針等の整備充実及び安全審査に活かされてきた。
④ 以上の経緯を経て,原子力発電の規模が着実に拡大し,設備利用率も昭和50年代後半から着実に上昇し,昭和59年度は73.9%と,定期検査期間を考慮すれば,ほぼフル稼働に近い状況になってきている。また,国産化率も近年運開のプラントではほぼ100%に達している。
 このように,発電規模,技術レベルの両面から,今日原子力発電所は,安定したエネルギー供給源として社会に定着したということができる。

(3)核燃料サイクルの整備
 原子力委員会は,長期的観点から核燃料の安定確保とその有効利用を図ることを基本とし,世界の核燃料需給の見通し及び動力炉開発の進展等を踏まえて核燃料サイクル関連施策を推進してきた。
 昭和42年の長期計画においては イ)天然ウラン確保のため海外探鉱と開発輸入を推進すること 口)ウラン濃縮については全面的な海外依存は望ましい状況ではないことに鑑み,将来の国産化に備えて研究開発を行うことハ)使用済燃料の再処理については,これを我が国で実施し,プルトニウムを高速増殖炉で使用すること等我が国に適した総合的な核燃料政策を推進する方針を明らかにした。また,我が国における核燃料開発及び管理主体として,昭和31年に原子燃料公社が設立されていたが,動力炉開発の必要性に鑑み,動力炉の開発並びに原子燃料公社の業務及び動力炉開発に伴い必要となる核燃料開発業務を行うことを目的として同公社は昭和42年に動力炉・核燃料開発事業団に改組された。昭和47年に改定された長期計画においては,高度経済成長を背景とする原子力発電の見通しの大幅な上方修正に伴って,より大量の核燃料の安定供給が必要とされたことを踏まえて,我が国としての自主性を確保しかつ経済性のある核燃料サイクルの確立が必要なことを強調した。なかでも濃縮ウランの一部国産化の方針を打ち出したこと及び原子力発電の進展に伴って増加する放射性廃棄物の処理処分の重要性を指摘し,その解決のための施策の方向を示した点に大きな特徴があった。このような我が国の核燃料サイクルに関する方針は,今日まで基本的には変わっていない。以下にウラン濃縮,再処理及び放射性廃棄物の処理処分の三点についてこれまでの開発の歩みを示す。

〈ウラン濃縮〉
 昭和40年代に入り,我が国において軽水炉路線が定着し,これに対応して,濃縮ウランの安定確保が重要課題となった。また,世界的にも,昭和40年代半ば頃から濃縮ウラン需給の逼迫が懸念される状況となった。このため原子力委員会は米国からの濃縮ウランの安定確保を図る一方,需要の一部については国産化を図ることを基本方針として打ち出した。
 ウラン濃縮技術については昭和30年代より基礎的な研究が行われていたが,昭和44年原子力委員会は,我が国に適した濃縮技術を選定するため,ウラン濃縮研究開発基本計画(昭和45~47年)を決定し,これ以降,遠心分離法について動力炉・核燃料開発事業団を中心に,また,ガス拡散法について日本原子力研究所を中心にそれぞれ研究が加速された。昭和47年に原子力委員会は,これらの研究の成果を踏まえて評価を行った結果;遠心分離法が我が国に適すると判断を下し,昭和60年度までに国際競争力のあるウラン濃縮工場を稼働させることを目標に動力炉・核燃料開発事業団においてパイロットプラントを建設・運転する方針を決定した(同パイロットプラント 昭和52年着工,昭和57年全面運開)。昭和57年の長期計画においては国際的な核不拡散強化の動向を踏まえ,濃縮ウランの安定確保及びプルトニウム利用等を含めた核燃料サイクル全体の自主性の確保の観点から国産化の重要性が再確認され,昭和65年頃までに民間において商業プラントを稼働すること及びこの目標を達成するため,動力炉・核燃料開発事業団において原型プラントを早急に建設・運転する方針を明らかにした。

 現在,民間の協力の下に同事業団により原型プラントの建設準備が進められている。また,商業プラントについては,その事業主体として昭和60年3月日本原燃産業(株)が設立され,事業化計画が進められている。

〈再処理〉
 使用済燃料の再処理は,我が国が原子力開発利用を開始した当初から,ウラン資源の有効利用に道を拓くものとして重要視されていたが,昭和30年代においては基礎研究の段階にとどまっていた。しかし昭和30年代後半,原子力発電計画が具体化するに伴い,再処理についての展望を明らかにすることが求められる状況となった。これに対応して,原子力委員会は,昭和39年,我が国において再処理を行うとの方針を示し,昭和45年稼働を目途とし,0.7トン/日規模の再処理工場を建設することを決定した。以降,この方針に従って,原子燃料公社においてフランスの技術を導入して東海再処理工場の建設計画が進められた。
 当時世界的に軽水炉燃料再処理の実績が少なかったことから,設計,安全審査,建設等に当たって慎重にこれを進めたこと,種々の技術課題を克服する必要があったこと,さらに立地問題もあって東海再処理工場のスケジュールは当初の予定より遅れ,昭和49年に試験運転,昭和52年試験操業を経て,昭和56年本格操業に至った。その後溶解槽におけるピンホールの発生等により長期間の操業停止を余儀なくされていたが,現在,補修及び国内技術による改良措置を終えて操業を再開している。
 一方,増大する再処理需要に対処するため,はやくから第二再処理工場の必要性が指摘され,民間においてこれを事業化することが期待されていた。
 原子力委員会は,昭和53年に改定した長期計画において,電気事業者を中心とする民間が第二再処理工場の建設・運転を行うこととし,昭和65年頃の運開を目途に速やかに建設に着手することが必要であるとした。
 これを受けて民間再処理事業を可能とするため,昭和54年原子炉等規制法が改正されて,翌55年事業主体として日本原燃サービス(株)が設立され,現在,同社により昭和70年頃の運転開始を目指して再処理工場建設の準備が行われている。また,東海再処理工場の能力を超える再処理需要については,こうした民間再処理事業が整備されるまでの間の措置として電気事業者により海外再処理委託が行われている。

〈放射性廃棄物の処理処分〉
 放射性廃棄物の適切かつ安全な処理処分の重要性は,当初より認識されているところであり,昭和30年代から40年代にかけては,原子力施設から環境への放出低減化のための研究開発が進められる一方,原子力施設において蓄積する低レベルの廃棄物については,安全に処理したうえで施設内に保管することで対処していた。
 その後,原子力発電計画の本格化に伴って,施設内に蓄積する低レベルの廃棄物が増大する見通しとなったため,処理処分方策を確立することの必要性が高まってきた。こうしたことを背景として,昭和47年,原子力委員会は,低レベルの放射性廃棄物について,処理技術の開発を進める一方,処分については,陸地処分と海洋処分を併せて実施するとの方針を示し,以降この方針に基づいて調査・研究開発が進められた。
 昭和51年には,放射性廃棄物対策技術専門部会から「放射性廃棄物対策に関する研究開発計画」の中間報告が行われ,これに基づき研究開発が促進された。この結果,減容固化技術の向上により,低レベル廃棄物発生量の増加が抑制されるとともに,固化体処分に関する知見の蓄積が進んだ。陸地処分については,日本原子力研究所,原子力環境整備センターを中心に試験研究が実施されており,民間においては,最終貯蔵施設の建設計画が進められている。また,海洋処分については,国際的枠組の下でこれを行うため,昭和55年に「廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約」(ロンドン条約)に加盟し,昭和56年には,経済協力開発機構原子力機関(OECD-NEA)の多数国間協議監視制度に参加した。また,環境調査等を踏まえて安全評価が行われ,すでに技術的には安全に実施しうる段階に至っている。我が国は,関係国の懸念を無視して強行はしないとの方針のもとに,ロンドン条約の下で行われる科学的・政治的検討等に対処していくこととしている。
 原子力委員会は,昭和51年,使用済燃料の再処理に伴って発生する高レベル放射性廃棄物について,固化・貯蔵した後,処分を行うこととの方針を打ち出し,動力炉・核燃料開発事業団及び日本原子力研究所を中心に前述の研究開発計画に基づいて研究開発が進められた。これら研究開発等を踏まえて,昭和55年に放射性廃棄物対策専門部会は,高レベル廃液をホウケイ酸ガラス固化し,冷却のため一時貯蔵し,地層へ処分することを基本方針とし,これらに重点を置いた研究開発を推進することを打ち出した。我が国の高レベル廃棄物処理処分に関する研究開発は,以後この路線に従って進められてきており,既に模擬廃液を用いた実規模でのガラス固化処理の試験,実廃液を用いた実験室規模でのガラス固化処理試験を行う等着実な進展をみている。

(4)新型動力炉の開発
① 原子力委員会は,昭和31年の長期基本計画の中で,原子炉技術については当面,海外の技術を吸収することによって速やかに我が国の技術水準の向上を図ることとし,将来的には動力炉を国産化することを目標として研究開発を進めることを明らかにした。この場合,資源に乏しい我が国が目標とすべき国産動力炉としては増殖型動力炉が最も適しているとの考え方を示した。
 この方針に基づき,昭和30年代には,日本原子力研究所において各種炉型についての基礎的研究が進められ,また,JRR-1~4,動力試験炉(JPDR)等の試験研究炉が建設,運転され,自主技術開発の基盤が整備された。
② このような研究開発成果を踏まえ,原子力委員会は,昭和41年産業基盤の強化,科学技術水準の向上の観点から,自主的な動力炉開発を行う必要があるとし,在来導入炉の国産化を進める一方,高速増殖炉と新型転換炉を国のプロジェクトとしてとりあげ,国内の関係各界の総力を結集してこの開発を計画的かつ効率的に推進するとの方針を定めた。高速増殖炉は,発電しながら消費した以上の核燃料を生成する画期的なものであり,将来の原子力発電の主流となることが期待された。また,新型転換炉については,天然ウラン所要量等が低減できるなど核燃料を効率的に利用することができ,また,天然ウランやプルトニウム等多様な核物質を燃料として使用できる点で在来炉に比し有利と考えられ,早期実用化が期待された。新型動力炉の開発体制については,新たな法人を設立する方針を定め(昭和42年,動力炉・核燃料開発事業団として発足),それまでの日本原子力研究所での開発成果を引き継ぎ動力炉・核燃料開発事業団を中心に官民の協力の下に開発が進められることとなった。
③ 高速増殖炉については,当初,実験炉の建設(昭和47年度頃臨界予定)に引き続き原型炉の建設(昭和51年度頃臨界予定)に着手するとの計画に基づき開発が進められた。しかし,この計画は実験炉段階でも遅れを示し実験炉「常陽」は,昭和52年に至り臨界に達した。その後照射炉心に移行し順調に運転を続け所期の成果を挙げつつある。原型炉「もんじゅ」についても,官民協力の下に開発努力が払われたが,イ)立地手続きに長期間を要したこと 口)部品及びシステム等の実証を積み重ねる等十分な技術実証を行ったこと 等から,当初の計画通りに建設することはできなかった。現在,昭和60年代中頃の臨界を目標に建設工事を進めている。

④ 新型転換炉については,原型炉「ふげん」の建設(昭和49年度頃臨界予定)が進められ,昭和53年臨界に達し,以後順調に運転を続けている。昭和50年代に入って原型炉「ふげん」の建設が進展したことを踏まえ,次の段階として,実証炉の建設計画を進めるか否かについて多くの議論がなされた。。
 原子力委員会においては,これら議論を踏まえ,高速増殖炉の開発の進展状況,原型炉「ふげん」の経験及び成果,他の炉型との比較等を考慮しつつ,核燃料需給における効果,経済性の見通し等の観点から評価検討を行い,その結果,昭和57年の長期計画において,実証炉建設の方針を決定した。現在,この方針に基づき,具体的計画が進められている状況にある。

(5)今後の開発利用推進に当たっての基本認識
 以上の歩みを振り返り,今後の原子力開発利用を推進する上で重要と考えられる主要な事項を挙げてみると,次の通りである。
① 我が国は一貫して原子力の平和利用という立場に立ち,核不拡散の枠組みに協力しつつ,平和利用の国際的な環境づくりに大きな役割を果してきた。
 今日の複雑な国際情勢の下で,国際的なコンセンサスの形成は容易ではないが,今後ともNPTの体制のもとでIAEAを中心とした国際的な平和利用推進のための環境整備を図り,平和利用と核不拡散の両立を目指して努力していくことが必要である。
② 今日,軽水炉は,世界で最も一般的に広く利用され,また,その設計,運転に至る諸技術データが整備され,安全かつ信頼度の高い炉型とされるに至っており,その導入は適切であったと考える。しかしながら,昭和40年代後半において,軽水炉において種々の技術トラブルが発生した際,技術定着が十分でなく対応が困難であったことについては,これを謙虚に受け止め,今後の原子力開発利用に反映させていかなければならない。すなわち,原子力が,高度な,かつ,総合的なシステム技術であることを考慮すれば,技術導入を図る場合であっても導入と並行して自主的な開発研究を行い,我が国の技術として確立させる努力が求められることを認識する必要がある。
③ 原子力発電が昭和40年代初頭に開始されてから,今日,石油代替エネルギーの主要な担い手となるまでには,20年の年月とその間の継続的な開発努力を要した。これは,原子力のような新しい技術については,その開発と社会への定着に長い時間がかかることを示している。
 さらに,核燃料サイクルの確立と新型動力炉の開発については,自主的な原子力利用体系を確立する観点から,その重要性が次第に高まる一方,立地,技術,資金等の面で,これが当初構想された時点の見通しよりも難しい問題があり計画の遅れが避け得なかった。今後も,研究開発規模の大型化,経済性達成等の面で解決すべき大きな課題が残されており,プルトニウムの本格利用と高速増殖炉の実用化にはなお相当長期間を要する。
 このため,長期的視点に立って,その実現に向けて着実かつ継続的な努力を払っていくことが必要である。
④ 立地問題等におけるこれまでの経験等に鑑み,安全の確保を徹底しつつ,国民に信頼される体制のもとで原子力開発利用を進めることの重要性を改めて認識する必要がある。国民の信頼と理解なくしては,今後とも原子力開発利用の進展はありえないところである。


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