第1章 原子力開発利用の新展開を迎えて
1 四半世紀の歩みと今後の方向

(1)四半世紀の歩み

 我が国の原子力開発利用は,その基本方針を宣明した原子力基本法が昭和31年に施行されて以来,四半世紀を越える歳月を重ねるに至った。
 我が国が原子力開発利用に取り組むに当たっては,朝野における盛んな議論が展開され,「平和の目的に限り,民主的な運営の下に,自主的にこれを行うものとし,その成果を公開し,進んで国際協力に資するものとする。」という基本方針が定められ,これに基づき開発利用が進められてきた。
 i 昭和30年代は,我が国の原子力開発利用を進めるため,将来に向けて体制が整備され,研究開発基盤が確立された時期であった。昭和31年から昭和32年にかけて原子力の研究,開発及び利用に関する国の施策を計画的に遂行し,原子力行政の民主的な運営を図ることを目的として原子力委員会が設置され,更に日本原子力研究所,原子燃料公社(動力炉・核燃料開発事業団の前身)及び放射線医学総合研究所などの研究開発機関が設立される等原子力開発利用を推進するための基本的な組織体制が整えられた。また,この時期には,原子炉等規制法,放射線障害防止法等の原子力関係諸法も整備された。国際面では,技術的に立ち遅れ,かつ,資源的制約のある我が国は,日米間の研究協力に関する協定を締結するとともに,その後資材の供与を含めた2国間の原子力協力協定を米国,英国及びカナダと相次いで締結したほか,国際原子力機関(IAEA)の設立当初から同機関に加盟するなど国際的な協力体制が整えられた。
 このような体制の下に国内における研究開発の面では,昭和32年に臨界に達した研究炉(JRR-1)を始めとして原子力研究開発施設の整備が進められるとともに,昭和37年には日本原子力研究所において国産1号炉(JRR-3)が臨界に達するなど,着実に研究開発の水準の向上が図られた。
 更に,原子力発電については,昭和38年日本原子力研究所の動力試験炉(軽水型,電気出力1万2,500kW)により我が国初の発電が行われ,動力炉の運転経験の蓄積及び技術者の養成に大きな貢献をした。商業用発電については昭和32年に日本原子力発電(株)が設立され,昭和36年にはコールダーホール型発電所の建設が始められた。
 この他,放射線の利用に期待が寄せられ,昭和35年には放射線による植物の品種改良を目的とした農林省放射線育種場の設立,また昭和38年には主として放射線化学の研究を実施する日本原子力研究所高崎研究所の設立等研究開発機関の整備が進められるとともに,JRR-1を始めとした研究炉による国産ラジオ・アイソトープの生産が進められた。
 また,昭和30年代の末には,日本原子力船開発事業団の設立により,官民協力による原子力第1船の開発が着手されるとともに,我が国に適した新型炉開発に向けての胎動も始まった。
 ii  昭和40年代前半には,核燃料サイクルの確立のため大型プロジエクトが次々と開始された。即ち,新型転換炉及び高速増殖炉の開発を官民協力して進めることとし,このための中核機関として昭和42年に原子燃料公社が改組され動力炉・核燃料開発事業団が発足した。更に,ウラン濃縮については,遠心分離法による技術開発が,食品照射及び核融合に引き続き,昭和44年に原子力特定総合研究に指定され,また,核燃料サイクルの要である使用済燃料の再処理についても動力炉・核燃料開発事業団の東海再処理施設の建設が昭和46年に始められた。
 一方,原子力発電の分野では昭和41年,コールダーホール型発電所(日本原子力発電(株)東海発電所)により初めて商業発電が開始されたが,その後は軽水炉による原子力発電所の建設が本格的に進められ,昭和45年に最初の軽水炉による発電所(日本原子力発電(株)敦賀発電所)が運転を開始した。このようにして昭和40年代末には運転中の商業用原子力発電所は8基,約390万kWとなり,建設中及び建設準備中(電源開発調整審議会決定済)のものが17基,約1,430万kWに達した。この間,原子炉の国産技術は格段に向上するとともに原子力発電施設の増大に対応し,国内の核燃料加工事業も成長してきた。
 また,研究開発の分野においても研究基盤の整備・拡充が進むとともに,原子炉多目的利用の研究が始められたほか,核融合研究についてもJFT-2の運転成功等研究の進展が見られた。
 放射線の利用に関しては,基礎科学分野から工業,農業,医学の広汎な分野に拡大し,放射性同位元素等を使用する事業所の数は約3,200に達した。
 一方,原子力開発利用の進展に伴い安全性を中心とした社会的問題が昭和40年代の後半に顕在化してきた。安全確保は,原子力開発を進める上で,第一になすべき重要な課題として種々の対策が講じられてきたが,米国における冷却材喪失事故の実験結果に端を発した非常用炉心冷却設備(ECCS)の信頼性に関する論議,更に沸騰水型軽水炉における配管の応力腐食割れ又は加圧水型軽水炉における蒸気発生器の損傷に象徴される商業用発電所におけるトラブルの発生により,原子力発電の安全性をめぐって多くの論争が展開されるようになった。こうした中で昭和48年には四国電力(株)伊方発電所の設置許可処分の取消しを求める行政訴訟が提訴されたのを始め,原子力発電所の設置をめぐって行政訴訟が相次いで起こされた。
 更に,原子力船「むつ」で放射線漏れが起きたこと等を契機として原子力行政に対する国民の不信感が高まった。
 iii  昭和50年代は,原子力行政のあり方についての見直しから始まった。政府においては学識経験者による原子力行政懇談会を設置し,原子力行政のあり方について諮問した。同懇談会での審議を踏まえて,まず昭和51年には科学技術庁における原子力行政部局を開発推進と安全規制に分離するため原子力局とは別に,安全規制を行う原子力安全局が設置された。更に,昭和53年度には,原子力基本法の基本方針に安全の確保を旨とすることが明示され,原子力開発利用の開発推進と安全規制を分離し国民の信頼感を高めるため,原子力委員会の機能から安全規制を分離独立させ原子力安全委員会が新設されるとともに,安全規制行政の一貫化による安全規制の充実強化が図られ,また,地元住民の意見の反映を図るため原子力発電所の建設に際して公開ヒアリング制度が設けられるなど,原子力に対する信頼の確立を目指し,新たな体制で開発利用が進められることとなった。
 また,昭和48年,及び昭和53年から昭和55年の2度にわたる石油危機により石油代替エネルギーとしての原子力発電の開発を推進する必要性が高まったが,一方,安全性に対する不安などから原子力発電所の立地はますます困難になってきており,昭和50年代においては原子力発電所などの原子力施設の立地難の打開が重要な課題となってきた。そのために,新たな体制のもとに各種の施策を通して,原子力に対する信頼を確保し国民の合意を得ていくとともに,立地地域における福祉向上の方策を充実するなどにより,立地の円滑化を推進することが急務となってきた。
 一方,昭和40年代から本格的に推進されてきた研究開発も着実に成果をあげ昭和50年代に入り次々と新しい段階に進みつつある。即ち,新型炉開発については高速増殖炉実験炉が昭和52年に,新型転換炉原型炉が昭和53年に臨界に達し成果をあげてきており,核燃料サイクルの分野では,我が国独自の技術により開発されてきた遠心分離法によるウラン濃縮パイロットプラントが昭和52年に,また使用済燃料の再処理について技術的経験の蓄積を図るための東海再処理施設が昭和52年に,各々運転を開始した。更には,核融合では臨界プラズマ試験装置の建設が進められるなど,着実に研究開発は進展してきており,また,放射線の利用は広い分野で進展をみせ特に医学の面での期待が高まってきている。
 世界的な核不拡散体制強化の動きも昭和50年代の一つの特徴であった。
 昭和51年我が国は核兵器の不拡散に関する条約(NPT)を批准し,翌年同条約に基づく国際原子力機関との間の保障措置協定を締結した。また,昭和52年には東海再処理施設の運転をめぐる再処理協議が日米間の大きな政治問題となった。更に核不拡散問題は国際的な場で検討されることとなり昭和52年から昭和55年にかけて原子力平和利用と核不拡散との両立を図る方途を求めるため国際核燃料サイクル評価(INFCE)が行われ,その成果をもとに具体的方策についての協議が二国間の場で,あるいは国際原子力機関の場で行われるようになっている。


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