§4 核兵器不拡散条約(NPT)

  1経緯

 NPTの問題は,昭和32年の国連第13回総会で,アイルランド代表が,核兵器の拡散にともなう危険を検討し,核兵器国を増加させないための措置を検討すべきであると演説し,この趣旨の決議案を提出して以来,国際的に大きくとりあげられるようになった。それ以来この問題は例年の国連総会で論議されるようになり,昭和36年の第16回国連総会ですべての国がNPT締結のため最善の努力を傾けるよう呼びかけた決議が全会一致で可決された。
 その後,昭和40年秋には,米国とソ連がそれぞれ条約案を公表したが,同年の第20回国連総会は,ジュネーブの軍縮委員会に対し,条約の締結に向って努力するよう要請する決議を採択した。ジュネーブ軍縮委員会は,この決議を受けて,翌昭和41年に問題の審議を開始した。軍縮委員会では,審議は難航したが,その年の第21回国連総会ではようやく歩み寄りの空気が生まれ,42年2月下旬から再開されたジュネーブ軍縮委員会でさらに審議を重ねた結果,同年8月24日に,米ソ両国は,軍縮委員会に同一内容の条約案を提出した。
 翌43年1月18日,ジュネーブ軍縮委員会が再開されたが,その冒頭に米ソ両国から前年8月の条約案に対する改訂案が提出された。軍縮委員会ではこの改訂案について,審議が行われたが,日本は,軍縮委員会の外にあって,条約に一定の期限を設けること,核軍縮を含め条約の実施状況を再検討するための会議を5年ごとに定期的に開催すべきこと,原子力平和利用に対する査察の義務は核兵器国にも課せられるべきこと等について関係国に強く働きかけた。
 その結果,米国とソ連は,条約案に改訂を加えたうえ,3月11日に再改訂案として軍縮委員会に提出し,委員会はこの案を国連総会へ回付した。
 軍縮委員会から送付された報告を審議するため国連第22回総会は,4月24日にニューヨークで再開され,審議討論が行なわれたが,日本の鶴岡国連常駐代表も5月10日の演説において,核兵器国は核軍縮の意図を明確にすべきこと,査察については核兵器国にも適用すべきであるが,これを受ける国の経済的,技術的発展を阻害しないよう簡素,平等なものであるべき等を主張した。
 米ソ両国は,原子力平和利用に関する規定をさらに強化するなどの修正をほどこした改訂案を再提出した。こうして,この条約を推奨する決議案は6月10日の第1委員会で採択され,さらに6月12日の本会議において採択された。
 条約は,昭和43年7月1日,ワシントン,ロンドンおよびモスクワの三か所で署名のために開放された。その後,批准書寄託国は昭和45年3月5日に43か国を越え,同条約は正式に発効した。
 日本は慎重な考慮を経て,昭和45年2月3日,ワシントン,ロンドンおよびモスクワの3首都で,それぞれ条約に署名し,その際,日本政府は,NPT調印に際しての「政府声明」を発表した。また同日原子力委員会も委員長談話を発表した。
 なお,昭和45年4月20日現在の同条約の署名国98か国,うち批准書寄託国は51か国である。
 条約本文,政府声明および原子力委員長談話については付録IVに掲載した。


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