第1章 国際協力
§1ジュネーブ会議

33年度の原子力をめぐる世界情勢のうちで最も画期的な役割を果したのは9月に開かれたジュネーブ会議であった。これよりさき,30年に開かれた原子力平和利用国際会議は当時軍事目的のみに限定されていた原子力利用が発電を初めとして各種の分野にも適用されうることを示し,膨大な研究資料の開放とともに原子力平和利用への可能性がきわめて近きにあることを示唆し,世界に原子力開発意欲をわきたたせた。以来3年間,この分野における各国の研究の発展は予期以上に著しく,またこの間に国際原子力機関の設立,国際間の原子力平和利用研究開発協定の締結など国際協力の面でも活発な動きが続けられてきた。これらの情勢を背景として国連本部は,30年12月の総会決議に基づき,世界各国ならびに各種国際機関に対し,第2回原子力平和利用国際会議が33年9月開催される旨通報し,各国の参加を招請した。
 招請状を受けた原子力委員会は,32年10月5日の定例会議においてわが国も参加することを決定し,外務省を通じて国連事務総長あてその旨通知することとした。
 第1回会議にもみられるとおり,本会議で討論される分野は,各国の原子力開発計画を初めとして,動力利用,アイソトープ,核融合,基礎物理等,原子力平和利用の全部門にわたっているので,わが国から提出する論文もこれら全分野についてわが国の現状を代表するものであることが望ましく,また国際的水準からみてすぐれた斬新なものを発表すべきであると考えられた。この基本的考え方のもとに,わが国から提出する論文の募集,選考について具体策を検討するため,原子力委員会に関係官庁および学識経験者をもって構成する論文選考委員会を設けて,提出すべき論文の募集,選考にあたることとした。さらに同選考委員会に,論文募集を円滑かつ効果的に行なうよう論文推薦委員会を設けて,広く各方面からの論文を受け入れるよう考慮した。
 論文の募集は公募によることとしたが,対象となる範囲は原子力という特定の分野にのみに限られ,かつ募集の趣旨を周知させる必要があることを考慮に入れて,公募の方法としては関係官庁,日本学術会議,日本原子力産業会議を通じて各研究機関,学界,産業界に広く連絡することとした。
 論文の募集,推薦にあたっての要領は次のごときものである。すなわち(1)提出希望の論文はその概要を和英両文で推薦委員を通じて選考委員会に提出する。(2)論文はわが国を代表するものと考え,同一題目の小論文はなるべく取りまとめて1論文として提出する。(3)論文は原則として未発表のものとするが,最近国内学界等で発表した程度のものはさしつかえない。(4)33年2月開催された第2回日本アイソトープ会議および同月開催された原子力シンポジウムに提出された論文も利用できる。などである。
 かくして集められた提出希望の論文は総数173編に及んだが,数次にわたって開かれた論文推薦委員会および選考委員会の検討の結果,そのうち54編を国連に提出することとし,原子力委員会の了承を得て,33年3月国連へ送付した。これら54編の論文概要は国連事務局で検討の結果すべて採用されることとなった。採用された54編を部門別に大別すれば次のとおりである。
原子動力計画 1編
原子力船 2
アイソトープ 20
化学 3
原子炉資材 4
核融合反応 4
素粒子物理学 9
原子炉理論・計算 4
原料物質 7
 54 編

なお30年の第1回会議にわが国から提出した論文は31編であった。
 第1回会議以来3年間のわが国の原子力の分野における進歩を考え合わせて,われわれが第2回会議に特に期待したことは,動力原子炉工学と核融合関係の最近の発展状況の認識を深めることであり,また,他方わが国における研究成果を広く外国に発表することであった。したがって代表団もこの基本的方針に沿って構成された。
 首席代表には湯川秀樹博士,代表としては石川一郎原子力委員がそれぞれ任命され,その他の顧問,随員とともに52名の代表団を構成することとなった。52名という代表団は当初予想していたよりはるかに大規模のものであったが,学界,産業界から強い参加要望があり,国際会議政府代表団としては前例のない規模のものとなった。しかし,内外における原子力開発の発展の現状と,会議が扱う分野の広範多岐な性格とを考え,さらに原子力発電や原子力船に対する産業界の強い関心とを合わせて考慮すれば,この規模の代表団も決して多過ぎるとは言えないであろう。
 第2回原子力平和利用国際会議への招請状は国連加盟国,非加盟国および国連各専門機関に発せられ,国連加盟国64,非加盟国6,計70ヵ国と8専門機関および国際原子力機関の9国際機関が参加し,そのおのおのから送り出された代表および顧問の数は2,758名に達した。これに各国のオブザーバー3,651名,36ヵ国からの報道関係者911名を合わせると,参加した総数は7,320名の多数に上った。3年前の第1回会議における代表,顧問数1,428名,オブザーバー1,334名に比較すると優に2倍以上のものであり,まことに空前の国際学術会議であった。参加人員の筆頭はなんといってもアメリカで465人,次は英仏それぞれ292人,ソ連182人,イタリア129人,西独80人,カナダ71人などがこれに続き,東洋からは日本が一番多く,次いでインドの43人であった。
 会議は9月1日から13日間にわたって開催された。会議は一般部会とこれに並行して開かれたABCDEの5部門に分れ,一般部会9回,A部会(物理学)14回,B部会(原子炉)12回,C部会(化学)12回,D部会(アイソトープ)14回,E部会(原料物質・冶金および原子炉工学)15回総計76部会が開催された。これらの公式部会のほか,自由な午後の時間などを利用して核融合,原子炉物理,安全性,燃料,資源,アイソトープ利用などの特定の分野について非公式部会が開催された。公式部会においては時間の制約もあり,十分な意見の交換もできかねる場合もあったが,非公式部会では全く自由な立場で専門知識の交換,討論が行なわれ,同じ分野の科学者,技術者が,それぞれの政治的制約をこえて懇談する機会を得たことは,今回の会議の大きな特色と言えよう。
 今回の会議で特に注目されたのは,新たに登場した核融合反応の平和利用,米英で実用規模に入った原子力発電所の運転経験および経済性,さらに産業合理化の立場からのアイソトープ利用などである。第1回会議と比較すると核融合を除いて目新しい問題は少なく,したがって第1回会議の

 ようなはなやかさはなかったが,かつてジュネーブ会議がかきたてた原子力の夢をむしろ現実的な形に引きもどしたという点で大きな意義があった。
 注目の核融合反応については100編以上の論文が提出され,米英ソ3国のこの分野に対する努力は,会議と同時に開かれた科学展示場に飾られた核融合反応実験装置とともに,十分うなずかれるものがあった。わが国からもこの分野で数編の論文が提出されたが,まだ理論面の研究が大部分である現在,そのアイデアは高く評価されるものもあったが,実験面の資料に乏しかった。
 本来この会議は学術会議であり,科学者,技術者が参加して原子力平和利用に関する技術的論文の発表,討論を行なうのが主目的であるが,一方,各国が自国の開発状況を示す科学展示会が開催され,トリガとアルゴノートの2基の研究用原子炉,および各種核融合反応実験装置等が注目を集めた。
 会議においてわが国が果した役割を正確に評価することはきわめて困難ではあるが,これを提出論文数,口頭発表論文数,部会の議長,副議長数からみれば第1-1表に示すとおりである。
 終戦後10年たった31年1月に原子力委員会を設立したわが国と先進諸国とでは相当の開きがあることは事実であり,国際会議における地位もそれを反映しているとも言えよう。しかし,第1回会議では部会の議長わずか1人だったわが国が,今回は議長2人,副議長1人となったことは第1回会議以後3年間のわが国の原子力開発研究の進展が,国際的にも認められた一つのあらわれとも言えよう。


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